第3話 井戸の底の祈り
井戸の底を覗き込んだまま、ゼノンはしばらく動けなかった。
暗い。
ただ暗いだけのはずなのに、その底には目を逸らしたくなるような違和感があった。水面が見えないわけではない。月明かりを受けて、かすかに鈍く揺れている。だが、その下にもう一つ、別の“何か”がある気がした。
まるで、井戸そのものが息をしているような。
「神官さま……?」
隣で村長が不安そうに声をかける。
ゼノンは額を押さえ、ゆっくりと顔を上げた。こめかみの奥がずきずきと痛む。魔力の消耗だけではない。神授魔法を扱う時の感覚とは違う、もっと根本的に噛み合っていない何かが、この井戸の周囲には漂っていた。
「この井戸、いつから使ってる」
「村ができた頃からです。昔から水だけは豊かで……この辺りじゃ貴重な場所でした」
「最近、変なことは」
「水の味が変わったくらいで……最初は雨のせいかと。でも、そのあと次々と熱を出す者が増えて……」
村長は喉を鳴らして言葉を切った。
ゼノンは井戸の縁に膝をつき、石組みの隙間を指でなぞる。黒ずんだ苔のように見えたものは、よく見ると苔ではなかった。薄く膜を張るように広がった、煤に似た何かだ。指先に触れると、ぴり、と痺れるような冷たさが走った。
「……穢れに近い。だが、こんなのは聖典に載ってない」
聖教会で学んだ浄化術は、瘴気や呪毒、魔獣由来の汚染にはそれなりに通じる。だが今、目の前にあるものはそのどれとも違った。もっと古く、もっと理屈の外にあるもの。
村長が青ざめる。
「や、やはり悪いものが……?」
「分からん。分からんが、原因がここにあるのは間違いなさそうだ」
答えながら、ゼノンは井戸の内壁に視線を走らせた。石の継ぎ目。打ち込まれた金具。古い滑車。どれも年季が入っている。だがその中に、一か所だけ不自然に新しい――いや、古さの質が違う石があった。
井戸の中腹、苔と煤に隠れるように埋め込まれた扁平な石板。
表面に、見たことのない文様が刻まれている。
「縄はあるか」
「え?」
「あるのか、ないのか」
「あ、あります! 水桶用のものが!」
村長が慌てて納屋へ走っていく。
ゼノンは再び井戸の底を見下ろした。冷静に考えれば、正気の沙汰ではない。追放されたばかりの神官が、たまたま立ち寄った辺境の村で、原因不明の病に当たり、夜中に井戸へ降りようとしている。
馬鹿だ、と自分でも思う。
村人を見捨てて通り過ぎることだってできたはずだ。少し診て、朝になったら中央へ応援を求めるという形も取れた。わざわざ危険そうな原因に首を突っ込む必要はない。
それでも頭に浮かぶのは、ミラの掠れた声だった。
『たすけて』
あの声が、耳の奥に残って離れない。
村長が息を切らしながら戻ってきた。縄と、油の少ないランタンを抱えている。
「これを……」
「井戸の口に固定しろ。俺が降りる」
「そ、そんな! 危険です!」
「知ってる。だが、何もせずに村が全滅するのを待つ方が危険だ」
村長は何か言いかけて、結局何も言えずに頷いた。
ゼノンは縄を腰に巻き、結び目を確かめた。ランタンを片手に持ち、井戸の内壁へ足をかける。石は湿っていて滑りやすい。落ちればただでは済まない高さだ。
「もし俺が引っ張れと言ったら、全力で上げろ」
「は、はい……!」
「あと、絶対に縄を離すな」
言い残して、ゼノンは井戸の中へ身体を沈めた。
ひやりとした空気が全身を撫でる。
上から見たよりもずっと深い。月明かりはすぐに細くなり、代わりにランタンの頼りない橙色だけが石壁を照らした。途中、何度か足場を探りながら降りる。水音はしない。だが、底に近づくほど、胸の奥を掻くようなざわめきが強くなっていく。
やがて、問題の石板の前まで来た。
近くで見ると、それはただの装飾ではなかった。線と円、絡み合うような記号。神授魔法の術式にも似ているが、もっと生々しい。整えられた祈りの形ではなく、自然そのものの流れを無理やり削り出したような印象。
「なんだよ、これ……」
ゼノンが指先でなぞろうとした瞬間。
どくん、と心臓が一つ大きく跳ねた。
視界の端に、見えないはずのものがよぎる。
白い石の回廊。
巨大な柱。
無数の人影。
祈る声、泣く声、笑う声。
それらすべてが一つのうねりとなって、どこか遠い祭壇へ流れ込んでいく光景。
「――っ!」
ゼノンは思わず手を引っ込めた。息が乱れる。今のは幻覚か、それとも記憶か。自分のものではない。だが確かに、何かを見た。
石板の中央には、ひびが入っていた。
外から壊されたというより、内側から押し広げられたような裂け方だ。その隙間から、黒い水気がじわりと滲み出ている。
井戸水を汚しているのはこれだ。
ゼノンはランタンを寄せ、石板の縁を調べた。固定具の一部が腐食している。完全には封じ切れていないのだろう。地下にある何かが漏れ出し、井戸を通じて村へ広がっている。
原因を断たなければ、いくら回復魔法をかけても焼け石に水だ。
「……壊すか」
呟いた瞬間、自分で顔をしかめた。
何が封じられているか分からないものを壊すなど、普通なら論外だ。むしろ教会の人間なら「絶対に触るな」と言うだろう。報告し、審問官を待ち、調査隊を待ち、手順を踏めと。
その間に村人は死ぬ。
ゼノンは奥歯を噛みしめた。
中央にいる連中は、こういう時いつも正論を言う。規則を守れ。順番を守れ。安全を確認しろ。どれも間違ってはいない。だが、手遅れになる側にとっては何の慰めにもならない。
今夜を越えられない人間に、後日の正しい対応など意味がない。
ゼノンは片手を石板に当て、もう片方で短い聖句を紡いだ。
「穢れを祓い、封を正し――」
光は、走らなかった。
正確には、走った瞬間に掻き消えた。
「は?」
神授魔法が、拒まれた。
術式は間違っていない。魔力も流した。なのに石板の表面で何かに弾かれたように消えた。まるで、この場そのものが聖典の奇跡を受け付けていないようだった。
次の瞬間、井戸の底から低い唸りのような音が響いた。
ごご、と石が鳴る。
「まずい――」
反射的に身を引いたが遅かった。石板のひびが一気に広がり、黒い液が噴き出す。ランタンの火が激しく揺れ、井戸の内壁に張りついていた黒ずみが生き物のように蠢いた。
縄が軋む。
足場が崩れる。
「上げろッ!!」
ゼノンが怒鳴るより早く、足元の石が砕けた。
身体が落ちる。
咄嗟に縄へしがみついたが、手のひらが焼けるように痛む。数瞬だけ宙吊りになり、そのまま井戸の側面へ叩きつけられた。衝撃で息が詰まる。ランタンが手から離れ、暗闇の底へ消えた。
闇。
完全な闇の中で、下から光が見えた。
井戸のさらに下。砕けた石板の奥。ぽっかりと口を開けた穴の底で、淡い金色が脈打っている。
その光を見た瞬間、頭の奥の痛みが爆発した。
知らない言葉が流れ込んでくる。
知らない祈りが胸を打つ。
知らない誰かの願いが、嘆きが、飢えが、救いを求める声が、濁流のように押し寄せる。
『聞け』
『受け取れ』
『祈りは力だ』
『力は願いだ』
『願いは世界を動かす』
「……っ、やめろ……!」
叫んだ声は、自分の耳にすら届かなかった。
気づけば縄が切れていた。
ゼノンの身体は暗闇の底へ投げ出され、そのまま金色の光の中心へ吸い込まれる。冷たいはずの空気が熱を帯び、皮膚の上を無数の手が這うような感覚が走る。怖気と嫌悪で吐き気が込み上げるのに、目だけは逸らせない。
そこにあったのは、石だった。
いや、祭壇だ。
地下空洞の中心に築かれた、半ば崩れた白い祭壇。その表面には井戸の石板と同じ文様がびっしりと刻まれ、中央には、人の手の形をした窪みがある。
理解したわけではない。
ただ直感した。
ここに触れれば、何かが起きる。
触れなければ、自分は死ぬ。
そして村も、終わる。
ゼノンは荒い呼吸のまま、祭壇へ手を伸ばした。
「ふざけるな……勝手に人を巻き込むなよ……」
吐き捨てながら、その窪みに掌を押し当てる。
瞬間。
世界が、ひっくり返った。
金色の奔流が祭壇から噴き上がり、ゼノンの腕を、胸を、頭を貫く。目の前が真っ白になり、次いで無数の光景が流れ込む。干上がった大地に祈る人々。傷ついた兵士。飢えた子ども。雨を乞う農夫。誰も彼もが何かを願い、その願いが光となって一つの場所へ集まっていく。
神授魔法のような、与えられた奇跡ではない。
これはもっと剥き出しだ。
人の感情そのものを燃料に変える、生の力。
「う、あああああああッ!!」
全身が焼ける。
骨の髄まで灼かれる。
なのに同時に、不思議なほどはっきりと分かった。
村の病の流れ。
井戸水に混じった穢れの道筋。
地脈の歪み。
人の祈りの集まり方。
どうすればこれを断ち、どうすれば奪われた生気を押し戻せるのか。
理解してしまった。
あり得ないほど自然に。
祭壇の光が脈打つ。
それに応えるように、地上の方からかすかな声が落ちてきた。
「……たすけて……」
ミラの声だった。
たったそれだけで、ゼノンの中の何かが決定的に噛み合った。
意識が、繋がる。
村じゅうに散らばる弱った命の灯が、暗闇の中に小さな光点として浮かび上がった。苦しみ。飢え。熱。恐怖。祈り。ああ、そうか、とゼノンは思う。
これが見えるのか。
これが、届くのか。
掌の下で祭壇が眩く輝いた。
次の瞬間、井戸の底から金色の光柱が天へ突き抜けた。
村の上空を覆うように光が広がり、黒ずんだ井戸水が一気に泡立つ。村に漂っていた腐臭が風に押し流され、代わりに張りつめた空気が震えた。
地上で何が起きているのか、見なくても分かった。
病に伏していた者たちの熱が下がる。
荒れていた呼吸が整う。
黒ずんだ皮膚が元へ戻り、死にかけていた命が引き戻されていく。
そんなこと、普通の神官にできるはずがない。
ゼノン自身が、一番それを理解していた。
「……なんだよ、これ……」
掠れた声が、地下空洞に落ちる。
掌から離れない熱。
胸の奥に渦巻く、膨大すぎる力。
頭の中で囁き続ける、誰かの祈りの残響。
これは聖教会の奇跡じゃない。
もっと古い。
もっと危険な。
そして、おそらく――教会が絶対に認めない力だ。
祭壇の光が、最後にもう一度だけ脈打った。
その淡い輝きの中で、ゼノンは見た。
崩れた壁の向こう。
地下へさらに続く石の回廊。
そして、その入口に刻まれた、聖典には存在しない古代の紋章を。
辺境の村の井戸の底。
その地下に眠っていたのは、ただの汚染源ではなかった。
それは聖教会が隠し、封じ、歴史から消したはずの何か――
禁忌そのものへの入口だった。




