第16話 灰白の塔の残影
塔の闇の奥から立ち上がった影は、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。
人の形をしている。
だが、その歩き方は明らかに普通ではなかった。片足を引きずり、肩は不自然に傾き、まるで体の半分が別の重さを持っているように揺れている。白い光はその影の背後から差しているのではない。影そのものの内側から、裂けた布の隙間を通して漏れ出していた。
ゼノンは息を止める。
近づくにつれ、相手の姿がはっきりしてきた。
男だった。
三十代後半か四十前後。法衣の上から薄い金属板を重ねた、神官とも兵ともつかない装束。胸元には聖教会の紋章。そしてその下に、さっき留め具で見たものと同じ、三本線を円で囲った印。
ただし、もはやまともな姿ではなかった。
右腕の肘から先が、黒く焦げたように変質している。皮膚ではない。白い粉と金属片が混ざったような異様な質感で、指先だけがかろうじて人の形を保っていた。首筋から頬にかけても細い光の筋が走り、まるで血管の代わりに光が流れているみたいだった。
ミラが後ろで小さく息を呑む。
「……人?」
「黙ってろ」
ゼノンは低く返しながら、視線を男から逸らさない。
男は塔の入口ぎりぎりのところで立ち止まった。焦点の定まらない目がゼノンを捉え、その瞳の奥で白い光がかすかに揺れる。
「……第一節……」
掠れた声だった。
だが、その一言だけでゼノンの背筋に冷たいものが走った。
「お前、誰だ」
男は答えない。
代わりに、ゆっくりと顔を上げる。
「生きていたのか……適合者が」
言葉は通じている。
だが、その声音には人間の温度がほとんど残っていなかった。驚きも喜びもない。ただ計算の結果を読み上げるみたいな乾いた響きだけがある。
ゼノンは一歩も引かずに問う。
「七十二日前にここを起こしたのはお前か」
男の唇が、わずかに動いた。
「起こした……?」
「違う」
「必要だったから、繋いだだけだ」
その答えに、ゼノンの眉がぴくりと動く。
必要だった。
繋いだだけ。
第二分流点の保守体が繰り返していた論理と、よく似た言い回しだった。
「そのせいで周辺の村が死にかけてる」
「誤差だ」
あまりにもあっさりと返されて、ゼノンは一瞬だけ言葉を失った。
誤差。
辺境の村で苦しんだ人間の命を、こいつは今、そう呼んだのだ。
胸の奥で熱がざらりと荒れる。
怒りに引きずられるな、と理性が警告する。それでも、喉の奥にせり上がるものを完全には抑えきれなかった。
「誤差で済ませるな」
「済ませる」
男はふらつきながらも、確かにそう言った。
「上位座が完全に停止すれば、失われるのは辺境の村程度では済まない」
「主導路網は死ぬ。封鎖系統も、保守機構も、全部まとめて沈む」
「その前に再起動させる必要があった」
淡々とした声。
だが、その論理には見覚えがあった。
大きいものを守るために小さいものを削る。
中枢の維持のために末端を切り捨てる。
教会も、前世の会社も、壊れた保守体も、結局は同じことを言う。
ゼノンは吐き捨てるように言った。
「だから辺境を吸わせたのか」
男の視線が、初めてわずかに揺れた。
「辺境は管理外縁だ」
「封鎖の維持に必要な最低限の流れを回収した」
「本来なら、お前のような適合者が出てくる前に、全部終わるはずだった」
ミラが小さく身じろぎする気配がした。
ゼノンは片手を後ろへ出して制し、男を見据える。
「お前は教会の何だ」
男は少しの間、何かを思い出そうとするように黙った。
「……封鎖管理局」
「第三監督班」
「名は……」
そこで言葉が止まる。
白い光が首筋から頬へ強く走り、男は苦しげに顔を歪めた。記憶が抜け落ちているのか、それとも肉体と一緒に削れているのか。名乗ろうとしても、そこだけが空白になっていた。
代わりに、男は別のことを呟いた。
「長く繋ぎすぎた」
その一言だけ、初めて人間らしい疲労が滲んでいた。
「鍵を使って上位座を起こした時は、戻せると思っていた」
「主導路を一度だけ回して、必要な記録を抜き、停止に戻すはずだった」
「だが、上位座は空腹だった」
「想定以上に……吸った」
ゼノンの胸の奥で、熱が重く沈む。
つまりこいつは、制御できると思って触った。
そして制御できなかった。
結果、流れは偏り、分流点は痩せ、辺境から先に犠牲が出た。
それでもなお、こいつは“必要だった”と言い切るのだろう。
「……最悪だな」
ゼノンの低い呟きに、男はかすかに笑ったように見えた。人間の笑みではなかった。光に引きつられて、表情筋がそう見えただけかもしれない。
「最悪なのは、まだ終わっていないことだ」
「灰白の塔は中継室にすぎない」
「上位座はさらに先で、今も主導路を喰っている」
「私は止めに入った」
「だが……」
男の変質した右腕が、ぎしりと鳴る。
「失敗した」
その右腕は、もう人の腕ではなかった。
原初の流れに焼かれ、現代術式と混ざり、肉が構造物に近いものへ変わってしまっている。
「中へ入ったのか」
「入った」
「そして、戻された」
戻された。
その言い方に、ゼノンは塔の奥の白い光へ視線を向けた。ここは入り口であり中継でしかない。本体はもっと先。しかも、ただの遺跡ではない。侵入者を拒み、押し返す程度には“生きている”。
「じゃあ今度は俺が行く」
そう口にした瞬間、ミラが息を呑んだ。
男の光る瞳が細まる。
「第一節だけで?」
「死ぬぞ」
「お前よりはマシにやる」
「傲慢だな」
「お前に言われたくない」
言葉がぶつかった、その次の瞬間だった。
塔の内部で、白い光が強く脈打つ。
びし、と地面が鳴った。
入口の床に刻まれた現代術式の封鎖陣が、急に明るさを増す。さっきまでただの痕だったそれが、白い糸のように浮かび上がり、塔の内側から漏れていた原初の流れと噛み合い始めた。
男の顔色が変わる。
「まずい」
その一言は、ようやく本物の焦りを帯びていた。
「何がだ」
「封鎖陣が逆流を起こす」
「このままだと、中継室ごと崩れる」
ゼノンの足元で、第二分流点と繋がった感覚がざわつく。確かに流れが乱れていた。主導路へ送られていたものが、今度は塔の内部で渦を巻いて戻り始めている。現代術式と原初の導路が無理やり噛み合い、どちらにも負荷がかかっているのだ。
最悪の場合、ここで流れが暴発する。
そうなれば、集落どころか周辺の主導路全部がさらに歪むかもしれない。
「ゼノンさん!」
ミラの声が震える。
ゼノンは一瞬で判断した。
「お前は下がれ。森の外れまで戻れ」
「でも!」
「今すぐ行け!」
いつになく鋭い声に、ミラは唇を噛み、それでも数歩下がった。完全には離れない。だが、この距離が限界だろう。
ゼノンは男へ向き直る。
「止める方法は」
「二つ」
「一つは、現代術式の封鎖陣を切る」
「もう一つは、塔の中継核ごと主導路から外す」
「後者は?」
「難しい」
「だが、根は断てる」
ゼノンは舌打ちしたい気分になる。
簡単な方は応急処置、難しい方が根本対策。選ばせ方まで気に入らない。
男の白く変質した腕が、入口の内側を指した。
「中継核は、塔の一階下だ」
「今なら、まだ届く」
「だが私ではもう無理だ」
「だから俺にやれって?」
「第一節保持個体なら、可能性はある」
可能性。
また都合のいい言葉だ。
けれど、胸の奥の流れもまた告げている。
今ここで表面の封鎖陣だけを切っても、遅かれ早かれまた同じことが起きる。根は塔の中にある。
ゼノンは短く息を吐いた。
「案内しろ」
男の瞳の奥の白光が、わずかに揺れる。
「従うのか」
「勘違いするな」
「お前を信用したわけじゃない。ここで全部吹き飛ばされるのが嫌なだけだ」
そう言いながらも、ゼノン自身が一番分かっていた。
それだけじゃない。
この先へ進めば、七十二日前に何があったのか、誰が何を起こしたのか、もっとはっきり見える。上位だけを守るために周辺を削る仕組みの中心が、もうすぐ目の前にある。
そして自分は、それを知りたいと思ってしまっている。
男はゆっくりと塔の入口を振り返った。
「なら、急げ」
「次の脈動が来る前に」
塔の内部で、再び白い光が膨らみ始める。
ミラの不安な視線を背に受けながら、ゼノンは崩れた入口の闇へ足を踏み入れた。




