第15話 灰白の塔へ
夜明け前の空は、まだ青にも黒にもなりきっていなかった。
集落の中央には、小さな灯がいくつか揺れている。完全に眠れた者は少ないのだろう。水が少し戻ったとはいえ、根本は何も解決していない。灰白の塔跡へ向かうゼノンたちの背に、集落の不安と期待がそのまま張りついているようだった。
ゼノンは背負い袋の紐を締め直し、最後に水筒を確認した。
荷は軽い。
だが胸の奥は軽くない。
第二分流点の限定制御権を受け取ってから、感覚がまた少し変わっていた。目に見えない流れの輪郭が、昨夜より鮮明だ。集落の地下を通る痩せた導路。そこから北東へ伸びる主導路。そしてさらに先、遠くにある“上位”の一点。そこだけが、まるで息をしているみたいに重く脈打っている。
灰白の塔跡。
その名を思うだけで、胸の奥の熱が細く疼いた。
「準備、できた」
横から声がして、振り向くとミラが立っていた。
昨日より厚手の上着を羽織り、短い杖代わりの木の棒まで持っている。目の下に少し疲れは見えるが、足元はしっかりしていた。無理をしているのは間違いない。だが、今さら止めても聞かない顔だ。
「寝たのか」
「少しだけ」
「少しじゃ足りない」
「ゼノンさんは」
「聞くな」
即答すると、ミラは少しだけ口元を緩めた。
そこへ、集落の長が小さな包みを持ってやって来る。干し肉を削ったものと、乾いた薬草、それに布切れが入っていた。
「道中で使ってください。塔の近くは空気が悪いと昔から言われています」
「空気が悪い?」
ゼノンが聞き返すと、長は頷く。
「獣も寄りつかない。風の流れがおかしくて、霧の出ていない日でも視界が揺れることがあると。今となっては年寄りの言い伝えみたいなものですが……」
「いや、十分役に立つ」
自然現象のように語られているが、主導路の歪みが表へ漏れ出しているなら説明はつく。塔跡の周囲では、普通の感覚が当てにならないかもしれない。
集落の長は深く頭を下げた。
「……頼みます」
その一言に、集落の朝靄みたいに薄く漂っていた祈りが揺れる。
助けてほしい。
水を戻してほしい。
これ以上、何も失いたくない。
以前なら重荷にしか感じなかったはずのその流れを、今のゼノンは前より静かに受け止めていた。飲み込まず、返さず、ただ“ある”ものとして捉える。無理に跳ね除ける方が、かえって危ういと分かり始めていた。
「戻れたら戻る」
ゼノンはそれだけ言った。
任せろ、とは言わない。
必ず、とも言わない。
だが、その曖昧な返答だけで、集落の長は少しだけ救われたような顔をした。
夜明けの薄明かりの中、ゼノンとミラは北東の森へ踏み込んだ。
集落の裏手から続く山道は、はじめこそ人が通った形跡を保っていたが、すぐに獣道に変わった。根の浮いた地面。湿った苔。霧の代わりに、白っぽい粉が低く漂っている場所もある。風が吹くたびそれが舞い上がり、木々の間を薄く霞ませた。
「これ、霧じゃないよね」
ミラが鼻を押さえながら言う。
「土とも違う。乾いた石の粉みたいな……」
ゼノンは足元にしゃがみ込み、白い粉を指先でこすった。
細かい。
ただの砂ではない。どこか焼けた石灰に近い感触だ。しかも地面に自然に積もったというより、風で何度も同じ方向へ流された跡がある。
「塔の壁が崩れて飛んでるのかもな」
「じゃあ、かなり近い?」
「いや」
ゼノンは顔を上げ、森の奥を見た。
「まだ遠い。けど、流れは強くなってる」
主導路の引きが、さっきよりはっきりしていた。北東へ行けば行くほど、地の下で何かが吸い込まれている感覚が増している。第二分流点の時のような局所的な痩せ方じゃない。もっと大きい。もっと広い。周辺一帯からじわじわと集めるような吸い上げ方だ。
それを感じるたび、ゼノンの中に小さな苛立ちが湧く。
末端を削って中枢を保つ。
壊れた保守体の言葉が、まだ耳の奥に残っていた。
前を行くミラが、急に足を止めた。
「見て」
道の脇、低木の陰に何かが引っかかっている。
近づいてみると、それは白い布の切れ端だった。ただの布ではない。薄い銀糸で縁取りされ、汚れていても分かる程度には上等だ。ゼノンが拾い上げた瞬間、布の端に見覚えのある模様が覗いた。
聖教会の紋章。
ただし、辺境の巡回神官が着る粗い法衣のものではない。もっと中央に近い、儀礼用に使う刺繍だ。
ミラの顔が強張る。
「教会の人?」
「少なくとも、教会に繋がる誰かだ」
ゼノンは布を裏返した。
泥と白い粉で汚れているが、破れ方は新しい。古く風化した切れ端ではない。枝か岩に引っかけたまま、最近ちぎれたものだろう。
「七十二日前の侵入者……?」
「かもしれない」
決めつけは危険だ。
だが、偶然にしては出来すぎている。
布を袋へしまい、再び歩き出す。そこから先は、道らしい道がほとんど消えていた。踏み跡はある。しかも一人や二人ではない。靴底の深い跡が断続的に残り、ところどころで枝が刃物で払われている。
「集落の人は、ここまで来ないんだよね」
「来ないって言ってたな」
「じゃあ、この跡……」
「最近、人が通ってる」
ゼノンが低く答えた時、胸の奥の熱が一段強く脈打った。
主導路が近い。
しかも、ただ近いだけじゃない。人の祈りとは違う、乾いてよく磨かれた“鍵”のような気配が、ほんのかすかに残っている。第二分流点で保守体が言っていた“外部権限鍵”に近いものかもしれない。
やがて森が途切れ、視界が少し開けた。
その先に、塔はあった。
正確には、塔の残骸だった。
灰白の石で積まれた円塔。その上半分は崩れ落ち、斜面に砕けた石塊となって散らばっている。だが基部はまだ残っており、苔と白い粉に覆われながらも、異様な存在感を放っていた。塔の周囲だけ木が育っていない。地面も裸に近く、風が吹くたび白い粉が渦を巻く。
塔跡の手前で、ゼノンは立ち止まった。
「……近づくな」
ミラは素直に足を止めた。
「何かいる?」
「いる、というか……満ち方がおかしい」
塔の周囲では、流れが歪んでいた。
第二分流点の時は“奪われている”感覚だった。だがここは違う。集められたものが、塔の内部で無理やり循環させられている。溜まりすぎた水が濁るみたいに、祈りとも地脈ともつかない力が、内側でよどんでいるのが分かった。
その時、ミラが小さく息を呑む。
「ゼノンさん、あれ」
塔の基部、半ば崩れた入口の脇に、黒く焦げた跡があった。さらに近くには簡易の焚き火跡。灰はまだ完全には流れていない。雨が降っていれば消えるはずの輪郭が残っている。
最近まで、誰かがここを使っていた。
ゼノンは周囲を警戒しながら、入口の脇へ近づいた。地面には靴跡が乱れて残り、その中に金属の細片がひとつ落ちている。拾い上げると、小さな留め具だった。銀色の合金に、細い刻印がある。
またしても聖教会の紋章。
しかも今度は、その下にもう一つ、見覚えのない印が添えられていた。
三本の縦線を円で囲った印。
聖教会の一般紋ではない。審問官の紋章とも違う。だが、中央直属の何かであることだけは直感できた。
「……何それ」
「分からん。けど、辺境の神官が持つものじゃない」
ミラの表情が不安に曇る。
「やっぱり、教会が……?」
ゼノンはすぐには答えなかった。
教会の誰かが関わっている可能性は高い。
だが“教会全体”と断じるにはまだ足りない。個人か、派閥か、あるいは中央の一部か。下手に思い込みを固めれば視野が狭くなる。
その時だった。
塔の内部から、かすかな音がした。
かち、と。
何か硬いものが噛み合うような音。
続いて、低い風鳴りに似た唸り。
ゼノンの全身に緊張が走る。
「ミラ、下がれ」
「でも――」
「下がれ!」
鋭く言うと、ミラははっとして数歩退いた。
塔の入口の内側、闇の奥で何かが淡く光り始める。井戸の祭壇や第二分流点で見た金色とは違う。もっと白く、冷たい光だ。それが、崩れた石の隙間から細く漏れ出してくる。
塔は死んでいない。
まだ動いている。
いや、誰かが動かしたまま、放置したのか。
ゼノンはゆっくりと息を吐き、掌を開いた。第二分流点の制御権が、胸の奥でわずかに応じる。塔の内部には、主導路の節点がある。おそらくここが、中継室に繋がる入口だ。
けれど入口の前にはもう一つ、別のものがあった。
床に刻まれた新しい術式痕。
古代文字ではない。
現代の神授術式を無理やり改変したような、歪な封鎖陣だ。
つまり、最近ここへ来た誰かは――
古代の施設に、現代の術式を重ねていた。
「混ぜてるのか……」
ゼノンの声に、ミラが遠くから聞き返す。
「何を?」
「原初の流れと、今の教会の術式をだ。まともな奴のやることじゃない」
その直後、塔の内側で白い光が一際強く脈打った。
風が渦を巻く。
白い粉が舞い上がる。
崩れた入口の石が、内側から押されるようにきしんだ。
そして、ゆっくりと――
塔の闇の奥から、人の影が一つ、立ち上がった。




