第14話 七十二日前の侵入者
地下室に、しばらく誰も言葉を発せなかった。
石造りの保守体は膝をついたまま、胸の亀裂からかすかな金色を漏らしている。床の導路は先ほどまでの異様な脈動を収め、今は細く静かな光を保っていた。確かにさっきより流れは均されている。集落の水も、少なくとも今夜のうちに尽きることはないだろう。
だが、ゼノンの意識はもう別の一点に釘づけになっていた。
七十二日前。
人為的再起動。
自然に壊れたのではなく、誰かが意図してこの一帯の仕組みに触った。その結果、井戸は汚れ、集落の水脈は痩せ、周辺の流れが歪み始めた。
偶然ではない。
「ゼノンさん……」
石段の途中で立ち尽くしていたミラが、ようやく声を絞り出した。
「いまの、どういう意味」
「そのままの意味だ」
ゼノンは台座の文字から目を離さずに答える。
「誰かが、ここより上にある施設を起こした。しかも最近だ」
集落の長が顔をこわばらせた。
「最近って……二か月ちょっと前じゃないか」
「七十二日前ならな」
若い男が半歩下がる。
「そんなこと……人間にできるのか?」
ゼノンは保守体へ視線を向けた。
「聞けば分かる」
そして低く問う。
「侵入者は誰だ。記録は残ってるんだろ」
保守体の首が、ぎこり、と不自然な角度でこちらへ向いた。
『記……録……断……片……の……み……保……持』
『個……体……識……別……情……報……欠……損』
「使えないな」
『損……傷……率……四……八……』
『補……修……要……求……未……受……理……継……続……中』
壊れたまま七十日以上、ここで命令だけを守らされていたらしい。
ゼノンは舌打ちしたい気分を抑え、質問を変えた。
「侵入者は一人か」
少しの間があってから、保守体が答える。
『反……応……は……単……独』
『ただ……し……外……部……権……限……鍵……を……使……用』
「権限鍵?」
『現……行……封……鎖……系……統……と……互……換……性……あ……り』
その言葉に、ゼノンの背中を冷たいものが走った。
現行の封鎖系統。
つまり、古代の施設を閉じ、管理し、隠してきた“今の側”が使う鍵に近い、ということだ。
聖教会。
その名が頭に浮かぶ。
けれど、今この場で口にするには早すぎる。証拠がない。しかもここには、教会に怯えて生きてきた辺境の人間しかいない。中途半端な言葉は、無駄な恐怖だけを増やす。
ゼノンは声を落とした。
「侵入者はどこへ行った」
保守体の胸の亀裂がちかちかと明滅する。
『上……位……座……接……続……後』
『主……導……路……方……面……へ……移……動』
「場所は」
『北……東……主……導……路……中……継……室』
『現……地……名……称……照……合……中……』
『灰……白……の……塔……跡』
集落の長がはっと息を呑んだ。
「灰白の塔……?」
ゼノンが振り返る。
「知ってるのか」
「北東の森のさらに奥だ。昔、石の塔があったって年寄りは言うが、今は崩れて近づく者もいない。獣が寄りつかない場所として有名で……」
老婆が震える声で続ける。
「子どもの頃、あそこには行くなと言われたよ。教会の古い巡礼地だったとも、呪われた遺跡だとも聞いた」
ゼノンの中で点がまた繋がる。
朽ちた祠。
分流点。
原初の座。
そして灰白の塔跡。
辺境には、教会が上から塗り替えたか、封じて隠した施設が網のように残っている。そのどこかを誰かが起こした。そして今、流れの中心は北東へ偏っている。
ミラが石段を一段降りてきた。
「じゃあ、そこに行けば分かる?」
「分かる可能性はある」
「行くんでしょ」
問いではなく確認だった。
ゼノンは眉をひそめる。
「簡単に言うな。ここまででも十分面倒だ」
「でも行く顔してる」
またそれだ。
自分ではそんなつもりはないのに、ミラには見えてしまうらしい。
その時、台座の文字が一度消え、代わりに新しい行が浮かび上がった。
『第……二……分……流……点……暫……定……復……旧……残……余……時……間……』
『六……十……八……時……間』
地下室の全員が息を呑む。
「残余時間……?」
ゼノンが読み上げると、保守体が答えた。
『応……急……再……配……分……の……維……持……限……界』
『時……間……経……過……後……偏……流……再……開……予……測』
四日も持たない。
集落の長の顔が一瞬で青ざめた。
「そんな……!」
「落ち着け」
ゼノンは即座に言った。
「今すぐ全部枯れるわけじゃない。ただ、また元に戻る可能性が高いって話だ」
「でも、六十八時間しか……」
「だから原因の方を叩くしかない」
そう言ってから、ゼノンは自分の口調が妙に冷静なことに気づく。
前世の癖だ。
期限が切られ、問題が積み上がるほど、頭だけは勝手に整理を始める。感情が追いつかないまま、やるべきことを並べていく。
灰白の塔跡へ向かう。
上位座とやらに近い中継室を探る。
侵入者の痕跡を掴む。
偏流を止める。
難度だけ見れば最悪だ。
だが、方角も期限も見えたぶん、逆に迷いは減っていた。
若い男が恐る恐る口を開く。
「俺たちも行く」
「駄目だ」
ゼノンは即答する。
「ここはまだ完全に安全じゃない。水の管理も必要だ。しかも、この下は普通の遺跡じゃない。入ったら多分、死ぬぞ」
言い切ると、男は悔しそうに歯を食いしばった。
「でも、俺たちの集落のことだ!」
「だからお前たちが残れ。戻った水を無駄にするな。畑も家畜も、今できる延命を全部やれ。俺が失敗した時に、一日でも長く持たせるためだ」
その言葉に、場の空気が重く沈む。
失敗。
その可能性を、ゼノンはわざと隠さなかった。
ここで無責任に「任せろ」と言えば、彼らはそれに縋る。だが、そんな言葉はもう吐きたくなかった。救いを約束する言葉ほど、人を容易く支配へ変えると、地下の施設は嫌というほど示している。
ミラが小さく息を吸った。
「じゃあ、私は行く」
「お前は――」
「案内がいる」
遮るように言われ、ゼノンは言葉を切る。
ミラの目は揺れていない。
「灰白の塔の近くまで行く山道なら、たぶんこの集落の人たちより私の方が知ってる。昔、おつかいで北東の外れまで行ったことがあるし、森の獣道も少し分かる」
「少しで足りるような場所じゃないだろ」
「ゼノンさん一人だと、迷った時に引き返さない」
図星だった。
集落の長が戸惑ったようにミラを見る。
「嬢ちゃん、危ないぞ」
「分かってる」
ミラは頷き、それからゼノンを見上げた。
「でも、ゼノンさんが一人で変なものに突っ込んでいく方が、もっと危ない」
言い返したい。
だが、またしても反論が見つからない。
ゼノンは深く息を吐き、保守体へ向き直った。
「ここを完全に止める方法はあるか」
『上……位……座……命……令……の……更……新……も……し……く……主……導……路……遮……断』
『第……二……保……守……体……単……独……で……は……不……可』
「つまり、灰白の塔跡まで行けってことか」
『推……奨……』
偉そうに、と思ったが口には出さなかった。
代わりにゼノンは台座の脇を探り、壁面の文字列をもう一度見直す。すると、一箇所だけ新たに浮き上がる文があった。
『第一節保持個体へ一時移譲』
『第二分流点・限定制御権』
その下には、掌を当てる形の窪みがある。
ゼノンは眉をひそめた。
「都合がいいな」
『応……急……対……応……手……順』
迷っている時間はない。
六十八時間という数字が、嫌に現実的すぎた。
ゼノンは窪みに手を置いた。
瞬間、細い熱が掌から腕へ走る。井戸の祭壇ほど暴力的ではない。だが、第二分流点へ繋がる感覚が頭の奥へ流れ込んでくる。どこで流れが痩せ、どこで戻り、どこまでが自分の触れられる範囲か――その簡易的な見取り図が刻み込まれた。
そして最後に、一つの警告。
限定制御権は、使用者の判断に流れを強く依存する。
欲が混じれば、分流ではなく収奪へ転ずる。
ゼノンは無意識に舌打ちした。
どこまで行っても、使う側の人間性が問われる仕組みらしい。便利な道具ではない。だからこそ教会は恐れ、封じたのだろう。
手を離すと、台座の文字が消えた。
『移……譲……完……了』
保守体の光も、わずかに落ち着いたように見える。
ゼノンは背を向け、石段へ向かった。
「戻るぞ」
ミラがすぐに続く。
集落の長と若い男も、まだ動揺を引きずった顔で後を追った。
地上へ出ると、夜気がひどく冷たく感じられた。さっきまでの地下のぬるさが嘘のようだ。けれど湧き水は、来た時より確かに勢いを取り戻している。応急処置は効いている。
問題は、その先だ。
集落の長が震える声で聞く。
「ゼノンさん……灰白の塔へ行くのは、いつだ」
「夜明け前に出る」
即答すると、皆が息を呑んだ。
「早すぎないか?」
「遅いくらいだ。六十八時間しかない。それに、教会の補祭が来た以上、長く動きを止めてる時間もない」
ベルムの顔が脳裏をよぎる。
あの男がどこまで知っているかは分からない。だが報告は上がる。審問官が来る前に、こちらが先へ進まなければならない。
ミラが隣でこくりと頷いた。
「私も準備する」
「お前はまず寝ろ」
「ゼノンさんも」
「俺はいい」
「よくない」
即座に返され、ゼノンは少しだけ口をつぐんだ。
確かに消耗はしている。腕には金線を受けた痕がまだ熱を持ち、掌には第二分流点の制御権を移された余韻が残っている。だが止まるわけにはいかなかった。
夜空を見上げる。
雲の切れ間から、痩せた月が覗いていた。
七十二日前、誰かがこの辺境の深いところへ手を伸ばした。
その結果、見捨てられていた村々から先に歪みが噴き出した。
上位だけを守るために、周辺を削る仕組み。
その冷たさが、教会のやり方とあまりにも似ている。
「……ほんと、反吐が出るな」
ゼノンの低い呟きに、ミラだけが小さく反応した。
けれど何も聞かなかった。
それが少しだけ、ありがたかった。
集落へ戻る道すがら、ゼノンは胸の奥の流れを確かめる。
第二分流点。
北東へ続く主導路。
そして、さらにその先――灰白の塔跡。
今はまだ細い。
だが確かに、自分を呼ぶように続いている。
救いを求める声ではない。
もっと冷たく、もっと大きな、仕組みそのもののうねりだ。
その中心へ、自分は向かおうとしている。
もう、辺境の小さな村を一つ救って終わる話ではなかった。




