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終焉の雫 ~Larmes du Ciel~(第一部)  作者: まきの遊夢
I-01 プロローグ

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【I-002】運命の子

 森の奥に、ひっそりと建てられた小さな家。それはあまりにも簡素で、「小屋」という言葉がふさわしい代物だった。


 それまでイザベルが暮らしていた城と比べれば、あまりにも狭く、粗末な空間だった。下僕同然の扱いを受けていたとはいえ、彼女は絹のドレスをまとい、静謐な室内で贅を尽くした食事を享受していたのだ。


 そこから一転したこの暮らしに慣れるまでには、当然ながら多くの苦労を伴った。


 けれど──イザベルはこの場所で、かつてないほどの幸せを知ることになる。




 勿論、そう思えるようになったのは、最初からではない。国外追放が言い渡されたその日から、絶望が心を覆い、彼女はただ命を絶つことばかりを考えて過ごしていた。


 ……長い旅路の果て。罪人を乗せた船がたどり着いたのは、誰の気配もない寂しい海岸だった。その向こうには、鬱蒼とした森が広がっていた。


 イザベルをここまで連れてきたのは、みすぼらしい服をまといながらも、男と見紛うほど屈強な身体つきの、民兵風の女だった。男性の見張りでは、イザベルの美貌が問題を引き起こすと考えられたのだろう。その女傭兵は、道中の数ヶ月ものあいだイザベルとほとんど口を利くこともなく、そのまま森の奥へと彼女の華奢な身体を乱暴に引きずっていった。そしてついには、まるでその場で急ごしらえされたかのような、この小屋に無理やり押し込んだのである。


 女傭兵の足音が遠ざかってから、丸一日が過ぎても……イザベルは、何をすべきかも分からぬまま、ただ暗闇の中に立ち尽くしていた。小屋には最低限の食料と生活必需品が備えられており、すぐに飢える心配はなかった。


 だが──生き延びる手段が整っているからこそ、突きつけられた現実がより鮮烈に胸を刺した。そして、それと共に様々な感情が彼女を襲い始める。


 愛する騎士フェルディナンを失った深い悲しみ。不貞の罪により、祖先から受け継いだ国を追われたという慚愧。惜しみない愛情で育ててくれた両親への後悔、何も為せぬ自分を、それでも慕ってくれた国民への罪悪感。


 ──そして、何よりも、娘ディアーヌとの別離がもたらす絶望。それらすべてが、夜ごとの悪夢となって彼女を苛んだ。


 さらに……あの旅先で、運命のように出会ってしまった男とのあいだに、子を宿しているという事実もまた、彼女の心を押し潰していた。


 この見知らぬ土地で、たった一人で出産できたとしても……その子を、ディアーヌのように愛し、育てていける自信が、どうしても持てなかった。


 ──腹の子は、おそらく、異形の姿でこの世に生まれてくる。


 母親でさえ愛しきれない子に生を与えることは、あまりに酷だ。……そう思い至ったイザベルは、赤ん坊を抱いてこの世を去る決意を、静かに固めた。


 それを胸に、小屋の裏手から聞こえてくる水音に導かれるまま、夕暮れの斜面を登る。そして彼女は、高い崖の縁に立った。だが、眼下の濁流を見下ろした瞬間、予想を遥かに超える恐怖がイザベルを襲い、足がすくんだ。


 崖の縁に生えた細い木に必死でしがみつきながら、一歩を踏み出せずにいたイザベルであったが……足元から転がり落ちた小石が無慈悲な流れに呑み込まれていくのを目にし、それに続こうと右足をわずかに浮かせた──その瞬間。


「なにしてんの! やめなさい、あんた……!!」


 突然、背後から誰かに抱き締められるようにして、イザベルの身体は視界ごと激流とは逆の方向へ引き戻された。その勢いのまま、彼女を抱えた人物とともに、草むらの斜面へと転がり落ちる。


 このあたりには誰もいないと思い込んでいたため、イザベルはそうされながらも、恐怖より先に強い驚きに襲われた。ようやく平地で動きが止まると、彼女は荒く息をつきながら、そっとその人物を見上げた。


 ……目の前にいたのは、イザベルと同じくらいの年頃と思われる女性だった。そばかすの散りばめられた丸顔が、どこか親しみやすさを感じさせる。全身は草と泥にまみれ、その表情にも、目の前のイザベルに対する驚きが色濃く滲んでいた。


「はあ……なんて綺麗な顔してんの……」


 そう呟いた彼女は「よっこいしょ」と小さく声を上げながら立ち上がり、掌についた土を払った。次いでイザベルに手を差し伸べ、草の絡まった彼女の髪をそっと撫でるようにして整える。


「その顔で、どうしてそんなにつらそうなのさ。……しかも、お腹に……」


 女性は、イザベルのわずかに膨らんだ腹部に気づくと、途端に心配そうな声色になる。


「……なおさら、駄目じゃない。あっ、今ので何かあったら大変。抱えてってやるから、ほら、つかまって!」


 そう言うや否や、彼女はイザベルの手をぐいっと掴むと、また「よっこいしょ」と掛け声をあげながら背中に背負い上げる。ふらつきながらも、そのまま森の奥へと歩みを進めていった。




 サラと名乗ったその女性は、イザベルを小屋のさらに奥……森の深部にある自宅へと案内した。彼女は、夫のユーグと二人、この森でひっそりと暮らしているのだという。イザベルは、自らの運命に勝るとも劣らぬ複雑な背景を持つサラ夫妻の話に、新たな驚きを禁じ得なかった。


 それが偶然だったのか、それとも彼女を追放した者の意図によるものなのか……この森は、あのときイザベルが休暇で訪れた大国ミリエランスの、その果てに広がる深い樹海だというのだ。地図の上では、グランフェルテとは内海を隔てた遥か彼方。むしろ、世界を支配するエクラヴワ大王国にほど近い場所に位置していた。


 サラとユーグは、かつてミリエランスの城下町で、何不自由ない暮らしを営んでいたという。ふたりの間には、歩き始めたばかりのひとり息子がいた。だがある日、その子が誤ってエクラヴワ大王の視察の列の前に飛び出してしまい──無慈悲にも、その場で処刑されてしまったのだという。そして、それがきっかけで、彼らはこの森に身を隠すようになったのだ。


 そんな過去を背負いながらも、明るさを失わないサラとユーグは、イザベルの素性や複雑な事情を理解し、あたたかく迎え入れてくれた。


「どんな姿で生まれようと、母親がその子を愛せないはずがない」


 ……そう語りかけた彼らの言葉は、死を望んでいたイザベルの心を、少しずつ引き止めていった。


 逞しいユーグは多忙な仕事の合間を縫って、自宅のすぐ近くに、小さいながらも、イザベルと子供が暮らせる家を建ててくれた。それ以降も、世間に姿を見せられないイザベルの暮らしを、サラとユーグは変わらず支え続けてくれたのである。




 そして半年が過ぎ、サラの手厚い支援を受けながら、イザベルは男の子を出産した。


 彼女の予感どおり、赤ん坊は人間離れした特徴を備えていた。肌はまるで色素を欠いたように白い。そして、まだ産毛のような髪と、初めて目を開いたその瞬間、明らかになったその瞳の色は──父親譲りの、深く燃えるような真紅だった。


 だが彼女の心配をよそに、息子はそれ以上の“異形”にはならなかった。日が経つにつれ、当初は陶器の人形のようだったその容貌にも愛嬌が芽生え、どこか自分にも似てきたようで……イザベルは気づけば息子を「愛せない」どころか、狂おしいほどの愛しさに、心を焼かれるようになっていた。


 ……だが、この姿に生まれ、この環境に立たされた以上、我が子を待ち受けるのは、予想もつかぬほど過酷な運命に違いない。


 できることなら──この森で、静かに、目の届く場所で、この命が尽きるまで育て上げたい。イザベルはそう願っていた。けれど、未来はあまりに不確かで……ディアーヌの時と同じように、どんな不測の事態が母子を引き裂かぬとも限らない。


 たとえ、どれほどつらく、困難な道がこの子の前に立ちはだかろうとも。


 どうか、自分のように運命に翻弄されることのないように──すべての出来事に、打ち勝つ強さを持っていてほしい。


 そんな願いを込めて、イザベルは我が子に……勝利の神にちなんだ、「ヴィクトール」という名を授けた。




 それから数年が過ぎ、相変わらず息子と共に身を潜める日々。城に残した娘への想いを胸に抱えながらも……イザベルは、かつて味わったことのないほどの充実を感じていた。


 息子のヴィクトールは、サラ曰く「まるで妖精のお姫様みたい」と評されるほど、愛らしい姿に育っていった。透き通るような白い肌に、穂先につけた紅を一滴溶かしたような頬。ふわりとそこにかかる髪は、柘榴の実で染めた絹糸のようで……その中には、不思議なことに、母から受け継いだ蜂蜜色の房がいくつも流れていた。


 大きな瞳は、窓の外に広がる森のすべてに興味津々で、この世にふたつとない紅玉のように、きらきらと輝いていた。そして──彼のまとう空気は、母親であるイザベルでさえも、軽々しく穢してはならないと思えるほど、どこか高尚な神秘性を放っていた。


 だが好奇心旺盛な彼は、ディアーヌとは違い、与えられた玩具だけではなかなか満足できなかった。四つん這いができるようになると、いつの間にかちょろちょろと母の目の届かない場所へ移動しては、いたずらを繰り返すようになった。


 ある日、まだ慣れない夕食の支度に手間取っていたイザベルは、つい少しばかりヴィクトールから目を離してしまっていた。……すると、ぽん、ぽんと、小さな爆発のような奇妙な音が聞こえてきた。


(何の音かしら……?)


 不安を感じて、イザベルは慌てて息子の姿を探す。食卓の陰で、紅色のふわふわした髪が揺れているのが見えた。息子はそこで遊んでいるらしい。


 けれど、その音の正体には見当がつかない。鼻をくすぐるような焦げ臭さも漂ってきた。まだ調理台では火を使っていないはずだと横目で確認しつつ、彼女は足早に息子へと近づく。


 火打ち石のような危険なものは、ちゃんと彼の手の届かない場所にしまったはずだ。……だが念のために。


「ヴィクトール、何をしているの?」


 覆いかぶさるように、イザベルは床に座っている息子の前へ回り込んだ。ヴィクトールは、きゃっきゃと声をあげながら、手作りの積み木を楽しそうに並べている。……火種になりそうなものは、やはり見当たらない。焦げ臭さも、ここではないのか。


 安堵と、原因を探さなければと新たな不安をよぎらせた母の顔を見て、ヴィクトールはまた喜んだような声を出す。そして……得意げな表情すら見せながら、木の葉より小さな両手をぱっと積み木のほうへ差し出した。


 ……ぽんっ!


「……え?」


 音とともに、積み木のひとつが小さく弾けた。


 錯覚か。目の前で起こった出来事に、イザベルは思わず呆気にとられてしまう。その様子が面白かったのか、ヴィクトールはきゃははと嬉しそうに笑って、再び掌を積み木へ向ける。ちょうど、木の実を鍋で炙っているように、またひとつ積み木が弾けた。焦げた匂いの正体は……これだったのだ。


(これは……魔術?)


 またしても積み木へ両手を突き出そうとするヴィクトールの手を、イザベルは思わずぎゅっと握り締めた。反射的なその行為に、自分でも驚きながら。


(こんな幼い子が……魔術を?)


 魔術の素養など自分には無縁だが、それでも一般常識として知っている。魔術とは、本来……呪文を唱え、術具を用い、長年の修練を積んだ魔術師のみが行使できる神秘の技。ましてや、言葉もおぼつかない赤子が、無詠唱で、杖も持たずに……。


(ありえない……でも、今、確かに……!)


 自分の目が見たものが現実であるならば──それは、不可解な現象などではなく、“この子がそれを生み出した”という事実。


 イザベルは心の奥に冷たい不安を感じつつも、息子の小さな身体を、強く、抱きしめた。




 やがて歩けるようになったヴィクトールは、家の中にじっとしていることを好まなかった。そのためイザベルは、サラ夫妻と自分の目の届く範囲であれば……ときおり、息子を外で遊ばせたり、一緒に散歩に出かけるようになった。


 そうした日々のなかで、イザベルはまた、ある異変に気づく。ヴィクトールが野兎や小鳥に近づくと、どこからともなく次々と動物たちが集まってくる。そして彼は、それらの動物たちとまるで言葉を交わすかのように、意思疎通を図っていたのだ。


「ヴィクトール、鳥さんと何をお話ししているの?」


 ある日、イザベルは彼の隣にそっと屈み、そう問いかけた。……普段であれば、イザベルが近づくだけで小鳥たちはすぐに飛び去ってしまう。しかし不思議なことに、ヴィクトールの周りでは、まるで安らいでいるかのように、鳥たちはその場に留まり続けていた。


「今ね。あのおっきい木の下にあるきれいな石を、この鳥さんのおともだちがもってきてくれるって“やくそく”してるの」


 幼い息子は大きな真紅の瞳を輝かせ、木々の合間、遠くにそびえる大樹を指さして、舌足らずな言葉でそう答えた。……イザベルも知っている。あの大樹の根元では、滴る樹液と朝露が混じり合い、まれに鉱石が育つ。サラはそれを「星の雫石」と呼び、ユーグが街へ運ぶ薪とともに繕い物の包みに紛れさせ、生活の糧にしているのだ。


(でも……その話を、ヴィクトールにはまだしていないはず)


 イザベルは首を傾げ、また息子の顔を覗き込んだ。


「サラおばちゃんが、そう教えてくれたのね?」


「ううん、鳥さんが言ってたの。それでね、いま、もってきてくれるのをまってるんだ」


 イザベルはふっと微笑んだ。息子の話にもう少し付き合いたい気持ちもあったが、そろそろ陽が落ちる頃だ。


「ヴィクトール、せっかくだけど、遊ぶのはまた明日にしましょう。暗くなってしまうわ」


 そう言って息子の手を取り立ち上がろうとすると、ヴィクトールはぷうっと頬を膨らませ、懸命に首を横に振った。


「……お願いよ。お母さんの言うこと、聞いてちょうだい」


「やだ! 鳥さんとやくそくしたもん! まってるんだもん」


 イザベルは困った末に、無理やりヴィクトールを抱き上げようとした。だが、彼は紅玉のような瞳からぽろぽろと涙をこぼしながら、母親に駄々をこね、その胸を小さな手で叩き始めた。


 ……息子は機嫌の良い時には驚くほど素直なのに、ディアーヌに比べると感情の起伏が激しく、こうしてたびたび彼女を困らせるのだ。反抗期の兆しかもしれない──そう思いつつも、このときイザベルはどうすることもできず、ただ夕焼け空へ視線を向けた。


 その時だった。


「あ……」


 思わず小さく息を呑み、イザベルはその光景に目を奪われた。空から、数羽の鳥たちが群れをなしてこちらへ飛んでくる。そしてその先頭にいる一羽のくちばしには、七色の彩りを放つ鉱石……「星の雫石」が、確かに咥えられていた。


「もどってきた! おかあさん、おろして!」


 悲しみの感情など一瞬で吹き飛んだように、ヴィクトールははしゃいで身を乗り出す。イザベルがそっと腕から下ろしてやると、鳥は彼の小さな手のひらに、宝石をそっと渡した。


「ちゃんと鳥さん、もってきてくれたでしょ。だって、やくそくしたんだから! おかあさんに、あげるね!」


 そう言って、譲り受けたばかりの石を、ヴィクトールは嬉しそうにイザベルへ差し出した。


「……ありがとう、ヴィクトール」


 イザベルは宝石を受け取りながら、胸の内に複雑な想いを抱えていた。


 この子は、やはり──外見だけではなく、言葉にできない何か特別な力を、その身に宿している。


 それは決して、喜びだけをもたらす贈り物ではない。むしろこの先、彼の特異さは、数え切れぬほどの困難や試練を呼び寄せてしまうだろう。彼女には、その予感が拭えなかった。


 ……だからこそ、なおさら。


 イザベルは、動物たちに手を振るヴィクトールを再びしっかりと抱き上げ、その命をこの腕で、何があっても守り抜こうと強く心に誓いながら──夕暮れの森を抜け、静かに家路へとついた。


 それからもヴィクトールは、ユーグが仕事で運ぶ薪を、木陰に隠れてこっそり動かしては悪戯を仕掛けたり、サラやイザベルが繕い物で指先を傷つけると、まるで当たり前のように手を当てて癒してみせたりと……常識では考え難い、不思議な力で周囲を驚かせてばかりいた。


 それでも、イザベルが懸念していたような不幸な出来事は何ひとつ起こらず──木漏れ日がふたりを優しく包む、穏やかで満ち足りた日々は、まるで夢のように、あっという間に過ぎ去っていった。




 そしてヴィクトールは、いよいよ五歳の誕生日を迎えようとしていた。イザベルは翌日に控えたささやかな祝いの準備を進めるあいだ、サラに頼んで彼を散歩に連れ出してもらっていた。


 夕暮れが近づく頃、「キィ……」と木製の扉が軋む音に、イザベルは小麦粉を練る手を止めて、ふと玄関の方へ視線を向けた。幼いヴィクトールが背伸びをしながら、小さな体で重たい扉を必死に開けようとしている。イザベルは軽く手を濯ぎ、急いで息子のもとへ駆け寄ると、微笑みながら扉を押し開けてやった。


「おかあさん、ただいま」


「お帰りなさい。どうしたの? サラおばちゃんと離れちゃ駄目って言ったでしょう」


 サラには、いつも万が一に備えて息子を家まで送り届けてもらうよう頼んでいる。けれど活発なヴィクトールは、時折ひとりで勝手に帰ってきてしまうことがあった。今日もきっとそのひとつだろう……と、イザベルは軽く叱るように言った。


「お母さんの言うこと、ちゃんと聞かないと、明日のお誕生日はお祝いしてあげないわよ?」


 穏やかな表情ながらもヴィクトールを戒めると、幼い息子はぶんぶんと首を横に振った。


「ちがうもん。ぼく、ちゃんとおばちゃんと手、つないでたんだけど……」


 息子の上目遣いの言い訳に、イザベルは少し呆れながらも、口元を綻ばせる。──だが、その微笑は、ヴィクトールが次に紡いだ言葉で音もなく消え去った。


「……知らないおじちゃんたちが、木のむこうにいて……ずっと、こっちを見てたの。それでね、『サラおばちゃんにご用があるから、ひとりでおうちにかえりなさい』って……」


 イザベルの背筋に、ぞわりと冷たいものが走る。息子がすべてを語り終える前に……彼女の腕は、無意識のうちにヴィクトールの華奢な身体を抱き上げていた。


(この子の身を、隠さなければ──!)


 突然に緊張を帯びた母の表情に困惑し、息子は不安げにしがみついてくる。その小さな背を強く抱き締めながら、イザベルはおろおろと家の中を見回した。


 けれど。


 ……もはや、遅すぎた。


 軋む音ひとつ立てることなく、木製の扉が弾かれる。鍵すらかけられぬその家に、どかどかと無遠慮に踏み込んできたのは、数人の屈強な軍服姿の男たちだった。


「あなたたちは……!」


 その緑の軍装に、イザベルは見覚えがあった。……もう二度と見たくもない、エクラヴワ大王国の兵士たちの制服だった。


 無言で圧をかけてくる兵士たちの間から、禿げ上がった、恰幅の良い男が進み出てくる。……エクラヴワ大王国の外交官にして、支配下にあるグランフェルテ帝国で、イザベルがまだ女帝であった頃から摂政の一人を努めていた人物――デジレという男である。


「イザベル殿。お久しゅうございますな……」


 彼は、独特のいやらしさを滲ませた笑みを浮かべると、その視線をイザベルの腕に抱かれた真紅の少年へと移した。


「ほう、皇太子殿下は……噂通り、実に珍しいお姿をしていらっしゃる」


「何のこと!」


 イザベルは無意識のうちに息子を胸元に抱き寄せ、デジレから遠ざけるように一歩、後ずさる。


「“皇太子”ですって……? ヴィクトールは、グランフェルテ帝国とも……あなたたちエクラヴワ大王国とも、何の関係もありません!」


「そうかそうか、ヴィクトール様と仰るのですな。母上様、あなたは皇室規定をご確認なさっていなかったのですかな? ……追放処分にされた身であっても、ご子息に帝位継承権がないとは、どこにも定められておりませぬぞ」


 その言葉に、イザベルは呆然とした。ディアーヌが即位しないと知った時、彼女は従弟ジルベールに後を託していたはずだった。だが、彼が帝位を継いだという報せもなく……この五年間、グランフェルテでは皇帝不在が続いているという。


 あの時から、どこか……おかしいとは思っていた。だが、まさか──このような形で答えを突きつけられるとは。


「さて、時間がない。皇太子殿下を、お渡し願えませんかな」


 デジレが手を伸ばす。イザベルはさらに数歩を下がり、彼を鋭く睨みつけた。だが、ここはもともとユーグがただ母子ふたりのために手作りで建ててくれただけの狭い空間。逃げ場などどこにもない。……事態を理解できないヴィクトールは、ただ真紅の瞳を見開き、母の首筋にぎゅっと抱きついて怯えている。


「出て行って……」


 か弱いイザベルにできたのは、震える声で必死に拒絶の意思を伝えることだけだった。


「私の命に代えても、息子は渡しません……!!」


「あなたの命など、要らぬ!」


 デジレが怒鳴った次の瞬間、兵士たちが一斉に動いた。イザベルを取り囲み、必死の抵抗を押し切って、その腕の中からヴィクトールを乱暴に奪い取る。


「おかあさん!!」


 揉み合いの末、床に倒れ込んだイザベルの耳に、息子の悲痛な叫び声が突き刺さった。


「やめて……やめて!! ヴィクトールを返して……!!」


 縋りつこうとしたイザベルは、容赦なく足蹴にされる。兵士たちは、泣き叫ぶヴィクトールを無理やり抱えたまま、家を後にしようとしていた。


「いやだあ!! たすけて、たすけて! おかあさん……!!」


「ヴィクトール……!!」


 何度振り払われても、イザベルは必死に立ち上がり、よろめきながら彼らを追おうとする。その姿に、デジレはついに嫌悪をあらわにし、蔑むような目で見下ろした。


「ええい、しぶとい女だ。貴様は追放された罪人だ。何を主張しようとも──その資格など、ない!」


 忌々しげに振り上げた足で、イザベルの腹を思いきり蹴りつける。イザベルは呻き声とともに崩れ落ち、咳き込みながら床に伏した。


「や……やめて! やめてよ!!」


 兵士に抱えられたヴィクトールが、身を捩りながら叫ぶ。


「おかあさんに……おかあさんに、何するんだっ──!!」


 ……その直後。


 ボン、と、まるで爆発のような音が、小さな家の中を揺るがせた。


「うわあっ!!」


 ヴィクトールを抱えていた兵士が、突然悲鳴を上げてのたうち回る。


「あちっ、あちっ!! 助けてくれえっ!!」


 デジレをはじめ、周囲の兵士たちが驚愕して彼の方を振り返った。見ると、燃え上がっているのは――堅牢なはずの軍服だ。鎧をも貫く熱が、彼の身体を容赦なく包み込んでいた。


「け……消せっ! これで叩けっ!!」


 デジレが玄関脇の棚にあったイザベル手作りのクッションを放り投げると、兵士たちは慌ててそれを掴み、炎に包まれた仲間を必死に叩いて鎮火しようとする。その混乱の中、床に投げ出されたヴィクトールは、痛みを訴える暇も惜しんでいた。ただ──呻きながらも、倒れた母のもとへ這い寄ろうと、懸命に手を伸ばす。


「待てっ!!」


 真紅の髪を乱暴に掴まれ、彼の身体は再び引き戻された。屈強な兵士の手が彼の自由を奪う。


 ヴィクトールは……まだ、この時はこの乱暴な不審者たちを懲らしめようとした訳でもない。大切な母を守ろうと、明確な意思を抱いた訳でもない。


 ただ、恐怖と混乱に打ちのめされ、無意識のうちに……その小さな手を、男たちへと翳したのだった。


 その瞬間。


「うっ……!」


 美しく可憐な幼子の顔が、苦悶に歪む。……太腿に、これまで感じたことのなかった激しい痛みが走った。彼は立っていられず、その場に倒れ込む。


 そこをすかさず、デジレの手が掴み取った。腕の中に抱えられた彼の目の前に突きつけられたのは──血に濡れた、ぎらりと光る短剣。


「や……やめて!! お願い、やめてっ!!」


 朦朧とする意識の中、イザベルが必死に叫ぶ。その声には一瞥をくれただけで、デジレはヴィクトールの耳元へと口を近づけ、低く囁いた。


「……魔法か。それも、ただの魔術ではないようだな。……その力を、もう一度使ってみろ。今度は──この短剣を、お前の脚ではなく腹に。それと、貴様の母親の背に、突き立ててやる」


「! ……」


 頬に触れる、冷たく鋭利な刃。……その言葉と感触に、ヴィクトールは完全に凍りついてしまう。あまりの恐怖に、もはや抵抗するどころか、身動きする術までを失ってしまった。


「……火は消えたか? 予想より手間取ってしまった。急いで戻るぞ」


 デジレの言葉に兵士たちは無言で敬礼し、幼い皇太子の体を彼から引き取る。しっかりと抱えられたヴィクトールは、激しく抗うこともできず、そのまま扉の外へと連れ去られようとしていた。


「たすけて……」


 大粒の涙をこぼしながら、彼は震える声で懇願する。


「やめてよ……いやだ、いやだ!! おかあさん! おかあさああんっ──!!」


 泣き叫ぶ声は、扉の向こうへと遠ざかっていく。


 イザベルは、薄れゆく意識の中で、それを聞いていた。涙で揺れる視界には、もはや愛しい息子の姿すら、はっきりと映らなかった。


(ヴィクトール……!)


 奴隷国家の姫君として生まれて以来、イザベルは何度も何度も……言葉にするのも忌まわしい屈辱を、大王国から受け続けてきた。あまりにも日常化したその理不尽に、やがて怒りすら湧かなくなっていたというのに。


 だが──いま。この日。


 彼女は、過去のどの瞬間よりも深く、大王国への激しい憎しみに囚われた。


 無力な自分をこの上なく恥じ、己の身を裂くように、責め立てた。


(ヴィクトール……ヴィクトール……! ごめんなさい──)


 娘に続いて、今度は息子まで。


 大切な我が子を、自らの手元から奪われてしまった。


 深い悲しみ。絶望。そして……子供たちへの懺悔と、哀れみ。


 イザベルの意識は、それらに打ちのめされながら──静かに、崩れ落ちたのだった。

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