【I-000】プロローグ〜【I-001】悲運の女帝
世界が混沌に陥る時、伝説の神器が目覚める。
そして、神器はその使い手を自ら選び出す。
神器は、その時を待ちわび、形を変え、眠り続けている。
神器が目覚めし時、選ばれし者により、正しくそれが使われたなら、世界は平穏を取り戻すであろう。
しかし、そうでなければ、世界はより一層の混沌に陥るであろう。
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グランフェルテ帝国──その名とは裏腹に、実態はきわめて特殊な国家だった。
帝国と呼ばれながらも、皇帝にはほとんど権力が与えられていなかった。代わりに実権を握っていたのが、今や世界をも支配する強大な勢力、エクラヴワ大王国である。
もっとも、かつての「帝国」が名ばかりの存在だったわけではない。初代皇帝バルタザールは、野心に満ちた男だった。「ラルム・デュ・シエル」と呼ばれる奇跡の剣を携え、かつて世界統一を成し遂げたと語り継がれている。
だが、それも今や二百年以上も昔の出来事である。
バルタザールの死後、世界は再び分裂の道をたどる。幾多の国際紛争と内乱、大国間の権力闘争が、長きにわたり繰り返された。
そんな混迷の時代に現れたのが、マクシムという男だった。彼は己の率いる集団を糧に、道中の国々を次々と制圧し、やがてエクラヴワ大王国を築き上げる。かつては無敵を誇ったグランフェルテ帝国でさえ、エクラヴワの軍門に下るのに時間はかからなかった。
しかし、グランフェルテの皇帝は地位を剥奪されなかった。むしろエクラヴワ大王は、あえて帝国の存続を許したのだ。征服の証としてその名を掲げ、己の覇権を世界に誇示するために。
こうして、かつては世界随一の繁栄を誇ったグランフェルテは、大王国の“奴隷国家”へと成り下がった。城下ではエクラヴワの兵士や役人が我が物顔で権力を振るい、逆らう者には容赦のない拷問と処刑が待っていた。皇族や貴族、帝国の役人たちは次々と政から遠ざけられ、その役目を大王国の人間が担うようになった。
バルタザールの血を引く皇家の血筋は、かろうじて絶やされることなく存続を許された──だが、その者に実権が与えられることはなかった。むしろ、その逆で……彼らには、大王国への服従を象徴する“奴隷”としての役割が課され、美しく優雅な佇まいを持ち、まるで愛玩動物のように振る舞うことが求められたのだ。
それこそが、皇帝としての“ふさわしさ”と見なされていたのである。
*
第六代女帝、イザベル・オリアーヌ・ド・グランフェルテが即位したのは、十八歳の時だった。長く波打つ金髪に、見る者の心を離さない神秘的な琥珀色の瞳──彼女は、誰もが息を呑むほどの美しさを宿した、まさに絶世の美女であった。
イザベルの母、アドリーヌは、かつて宮廷で美貌と優雅な舞をもって高貴な者たちを癒した踊り子だった。その美しさが五世皇帝アルフォンスの目に留まり、妃として迎えられたのち、すぐに授かったのが、イザベルである。彼女は、母の優艶さと父の温厚さを受け継ぎ、秘めた強さを宿した凜とした佇まいで、多くの国民から熱い憧憬のまなざしを向けられる姫君となった。
しかし、彼女の即位を目前に控えたある日、両親は相次いで突然この世を去ることになる。
皇帝としてのイザベルは、大王国が課した“象徴”の役割を忠実に、完璧に果たしていた。だが、その日常は決して幸福と呼べるものではなかった。
十九歳の誕生日、イザベルは政略によって結婚を強いられる。その相手は、エクラヴワ大王国で子爵の地位にあるデュヴァル家の御曹司、十五歳年上の男──アルマンだった。
アルマンは、人前に出ることを嫌い、眼鏡の奥で哲学書に耽る内向的な人物であった。だがその父親は、まるで対照的に、野心と打算に満ちた男だった。中流貴族にすぎなかったデュヴァル家は、息子と女帝との政略結婚を通じて、貴族社会の階梯を駆け上がろうとしていたのだ。
しかし、イザベルの心には、別の男性がいた。帝国騎士兵団の元帥にして、代々皇家に仕えるローラン候家の現当主、フェルディナンだ。女帝の護衛として、彼はいつもイザベルの傍らに控えていた。
彼もまた、妻オーレリアが第二子の出産で命を落とす以前から、イザベルに対して抱いてはならない想いを密かに抱えていた。だが──イザベルのアルマンとの結婚を機に、その想いにも終止符を打たねばならなかった。
結婚から四年。日々を虚ろに生きるイザベルを案じた侍女カトリナは、彼女に初めて“休暇”を勧めた。
イザベルは迷った。昨年、アルマンとの間に娘が生まれていたからだ。だが、カトリナの熱心な説得に心を動かされ、彼女は信頼できる乳母に娘を託し、短期間の休暇を受け入れることにした。
彼女に許された滞在先は、海を越えた先にある、エクラヴワ領ミリエランスの街──そこには、夫アルマンの実家であるデュヴァル家が所有する別荘があった。
「姫様、今日はずいぶんとご機嫌麗しゅうございますね」
イザベルが即位してから幾年もの月日が流れていたが、カトリナにとって彼女は、今も変わらぬ“姫様”だった。幼少のころからの親友であり、まだ二十三歳のイザベルをそう呼ぶのが、彼女にとっていちばん自然なことだった。
「久しぶりのお休みですもの。楽しまないなんて、もったいないでしょう?」
イザベルは、長く封じていた笑みをカトリナに向けた。まるで、陽光にきらめく宝石が零れ落ちたかのように、眩しく、美しかった。
ミリエランス郊外、森の中にひっそりと佇む別邸の庭。たとえそれが、大王国のものであり、夫の実家が所有する場所であったとしても……日も差さぬ裏邸で監視されながら過ごすグランフェルテの暮らしに比べれば、ここははるかに開放的で、心を晴れやかにすることができた。
手入れの行き届いた芝の上でイザベルが小さく伸びをすると、蜂蜜色の髪が陽の光を浴びて、きらきらと輝いた。その光景に見とれながら、カトリナはふと、心の重さがほどけていくのを感じた。まるで、自分の疲れまでもが陽だまりに溶けていくようだった。
イザベルの心を少しでも癒したい。そんなカトリナの切なる願いが、大王国の決まりに小さな“例外”を生んだ。この別邸には、大王国の見張りの兵は同行せず、わずかな侍女と、帝国籍の騎士のみが帯同を許されたのである。ただし、ただ一人──護衛騎士フェルディナンの同行だけは、夫アルマンの厳命によって禁じられていた。彼はふたりの関係を、常日頃から訝しんでいたのだ。
「姫様……ひとつだけ、気がかりなことがございます。お嬢様のこと、お城に……」
「心配いらないわ、カトリナ。私はディアーヌを心から愛してるのよ。……でも……」
イザベルの美貌が、ふと陰る。
アルマンとの間に生まれたひとり娘──一歳になるディアーヌは、父譲りの深い茶の髪と色味のある肌を受け継いでいた。だが、その小さな表情の端々には、早逝したアルフォンスの、あの優しさが確かに宿っていた。愛する父を彷彿とさせるディアーヌの一挙手一投足は、イザベルにとって何よりも愛おしく、この苦しみに満ちた日々のなかで、たったひとつの慰めとなっていた。
けれど──夫アルマンに対して、娘と同じ愛情を抱くことは、どうしてもできなかった。それは、大王国によって無理やり押しつけられた結婚という屈辱だけではない。彼の傲慢さ、独善的な性格……イザベルには、それらすべてが耐え難かったのだ。
「……わかります。姫様は本当は、とても情熱的なお方。もしご身分が違っていたなら……お相手は、アルマン様ではなく──」
「……やめて、カトリナ」
イザベルは、苛立ちを隠せぬまま立ち上がった。せっかくの休暇にまで、あの男の話を持ち出されるなんて……耐え難い。それに、今カトリナが口にしようとしていたことこそ、本来なら、心の最も深い場所へ封じておかねばならないはずのものだった。
「少し、散歩してくるわ。……一人になりたいの。誰もついてこないで。カトリナ、あなたもよ」
「えっ、姫様……!」
イザベルは、カトリナの呼びかけに応じることなく、庭の小さな門の鍵を開け、森へと続く小径を歩き出した。穏やかで従順な彼女が、まさかこんな行動に出るとは……カトリナは思いもしなかった。イザベルが息苦しくならぬよう、この扉の周囲の見張りを外していたのは、ほかならぬカトリナ自身だったのだ。
カトリナは慌てて門の外へと駆け出した。だが、怒らせてしまったという後悔と気まずさが入り混じり、その背を追う足は、とうとう止まってしまった。
……森の向こうは、実質的にはデュヴァル家の庭の延長のようなものだ。出てくるのは、小鳥か栗鼠くらい。それにイザベルは、身の危険すら察知できぬような愚かな人ではない。
そう遠くには行かないはずだ。すぐに、戻ってくるはず……カトリナは、そう信じていた。
けれど──イザベルは、明け方になるまで戻らなかった。
あの休暇から、いくらかの時が流れた頃……イザベルの異変に、最初に気づいたのはやはりカトリナだった。
晩餐の席では、食欲がないと言って、野菜の酢漬けや果物ばかりを口にする。些細なことでカトリナに当たり散らし、かと思えば、ディアーヌをあやす声がやけに高らかに響き、次の瞬間には涙ぐむような悲しげな調子へと変わる……。
その不安定な情緒は、日ごとに色濃くなっていった。
カトリナに医学の知識はなかった。だが、ディアーヌの誕生よりもずっと前からイザベルを見守り続けてきた彼女には、この不調の“理由”が、直感で分かってしまった。
カトリナはイザベルを人気のない小部屋へ連れ出し、すぐに夫アルマンに伝えるよう勧めた。喜ばしいはずの知らせだった。それでも、イザベルは頑なに首を振り、その提案を拒絶した。
カトリナは困惑し、迷い──そして、つい、信頼していた女中の一人にその秘密を漏らしてしまったのだった。
イザベルの妊娠の噂が、夫アルマンの耳に届くまでに、そう時間はかからなかった。「太陽の間」に現れたアルマンの、もともと神経質な顔が、さらに引きつっていた。明らかに──怒りと猜疑に満ちて。
「……あなた……」
「……イザベル。あの出しゃばりな騎士を、わざわざ遠ざけさせたというのに……! お前という女は、いったいどこまで……!」
震えながら、アルマンは壁に掛けられた装飾剣へと手を伸ばした。一瞬でそれを握りしめ、怒りを宿した目でイザベルを睨みつける。そして、次の刹那──その細身の身体からは想像もつかないほどの凄まじい力で、彼女へと襲いかかったのだった。
喜ばしい報せだと信じ込んでいた近衛騎士たちが、ようやく異変に気づき、慌ててアルマンを制止しようと動き出した。だがその時にはすでに──彼の剣は空を裂き、イザベルめがけて振り下ろされていた。
……彼が怒り狂ったのも、ある意味では当然だった。イザベルとの関係はもとより形だけのもの。娘ディアーヌの誕生からの一年で、さらに冷えきっていた。そして、妻の様子に異変が現れ始めたのは……あの休暇から、ちょうど半月ほどが過ぎた頃のことだったのだから。
アルマンは、妻を本当に愛していたわけではなかった。だが、せっかく手に入れた皇婿という地位。──そして、世界で唯一の美貌を持つ姫君を“所有した”という誇り。それらすべてを一瞬で踏みにじられたかと思うと、彼は耐えがたい屈辱に震えた。
アルマンは、近衛との激しい揉み合いの末に剣を奪い返すと、呆然と立ち尽くすだけの妻へと切っ先を向けた。そして──一切のためらいもなく、その非情な刃を突き立てた。
……かのように、見えた。
だが、剣先が突き刺したのは──イザベルの胸ではなかった。
彼女の前へ、一人の騎士が飛び出した。彼は、彼女が夫と心置きなく言葉を交わせるよう、あえて部屋の外に控えていたのだ。その身を盾にした騎士の、金色に輝く髪──誰のものかなど、イザベルに分からぬはずがなかった。
「フェルディナン……!!」
生まれて初めて感じた、肉を貫く感触。それに我を取り戻したアルマンは、手から滑り落ちた剣と同じように赤く染まった自らの手を、呆然と見つめた。そしてようやく、足元から震え出す身体を引きずるように、後ずさりを始めた。
すべてを怒りに支配されていた己の行為を悔いる間もなく──背中に、何かがぶつかる鈍い感触を覚えた次の瞬間。
彼の脳天に、重く鋭い衝撃が走った。
……額から鮮血を流して倒れ伏したアルマンの背後には、近衛との揉み合いの最中に鋲が緩んだのだろうか、前帝グランフェルテ五世・アルフォンスの巨大な肖像画が、無残に落下していた。
剣先に貫かれたままの、勇敢な騎士フェルディナンは──守るべき主君をかばい、その身を覆いかぶせた姿のまま、静かに命の灯を閉じた。
……イザベルの瞳には、もはや涙すら残っていなかった。
「太陽の間」に響いていたのは、何も知らぬ幼子の泣き声だけだった。母の命が狙われ、騎士が倒れ、父が血を流すこの場所で──乳母にしがみついたディアーヌは、ただ怯え、泣くことしかできなかった。
翌日──
女帝イザベルは姦通の罪に問われ、帝位を剥奪された。そして、その身を国外へ追放されることが、即座に決まった。
その腕に愛娘ディアーヌを抱いたまま去ることすら、彼女には許されなかった。
次代の女帝……グランフェルテ七世となるはずだったディアーヌは、なぜかその冠を与えられることなく、皇族の一員として宮廷に留め置かれた。
こうして、グランフェルテ帝国には皇帝不在の時代が、五年にわたり続くこととなった。




