第44話 両方の変化
渡し方は少し変わっていたけれど、貰った柴犬クッキーを食べ終え、水田さんが気が済むまで頭を撫でてから見送った。
そのあと電気を消してベッドに潜り込み、眠りにつこうとした。
(……おっぱいが邪魔で眠れない)
さっきの光景が、頭の中でエンドレス再生されていた。
くっ、人生で初めて女の子のおっぱいに触れるチャンスだったのに。
後悔はしていないが、少しだけ心残りがある。
最近、こんなふうに矛盾した感情を抱くことが増えた気がする。
(水田さんは僕のことを一体どう思っているんだろう)
本当に異性として好きなのだろうか。
どう考えても、ただの友達に対する接し方とは思えない。
恋愛経験値がほぼゼロで、失恋の記憶しかない僕には、答えは簡単には出せそうになかった。
(後で山本に相談しよう)
あいつは根っからのプレイボーイだから、僕よりは女心に詳しいはずだ。
少なくとも、第三者に客観的に見てもらう方が確実だろう。
そう考え、山本にどう相談を切り出すか、頭の中でシミュレーションしてみた。
脳裏にちらつくおっぱいの残像も、これでどうにか追い払えた。
そうして目を閉じていると——
「こ、小町さぁん……〜」
耳元で囁く声が聞こえた。
昨夜はいつもより遅く寝たせいか、疲れが抜けきっておらず、すぐには目を開けられなかった。
そのまま、寝言のように返事をしてしまった。
「あと5分……」
「え、えぇ……。だ、だめですよぉ……」
まだ頭がろくに働かないまま、「何が駄目なんだ」と小さく呟いた。
だがその直後、僕の耳たぶに柔らかく湿った何かが触れた。
「ご、ご主人様……〜 起きないと、い、悪戯しちゃいますよぉ……!」
その瞬間、ご主人様の一言に驚いて、僕はぱっと目を覚ました。
目を開けると、水田さんの顔がどアップで迫っていた。
え、耳に唇が触れるほどの至近距離で囁いていたのか?
「……あの、水田さん。すぐに起きなかった僕が悪いんですけど、ご主人様ってなんですか」
「へへ……。ご主人様ですから。ほら、今日これつけてきましたよ」
これ?
僕が呆然としていると、水田さんは自分の首元をちょんと指差した。
そこには、昨夜見たあの赤い首輪が巻かれていた。
「いやいやいや」
まさかそれを着けて、僕の家まで来たのか?
いやまあ、すぐ隣の家だけど。
「私、いいこと思いついちゃいましたよ」
嫌な予感しかしない。
「これをつけて小町さんと一緒に歩けば、ナンパ撃退も簡単じゃないですかぁ……!」
「……いや、たいていの奴はドン引きして近寄ってこないでしょうけど、下手すりゃ通報されるのは僕の方ですよ」
普段は自信なさげにしているのに、どうしてこういう時だけ自信満々なんだろう。
本気なのか冗談なのか、区別がつかない。
「で、でもやっぱりペットは野外お散歩こそが華だと思うんですよぉ……!」
「……」
そのエロゲで仕入れた常識、窓の外に投げ捨ててきてくれ。
「そ、それに、小町さん、昨日私が言ったじゃないですか。ペットには普通、苗字なんてないし、敬語も使わないって」
「え……。続けてほしい、ということですか」
「は、はいぃ……!」
それ、昨日限定じゃなかったのか?
水田さんは顔を真っ赤にしながら、もじもじと身をよじった。
「だ、だって私は小町さんにプロデュースされてるんですからぁ……!!」
なんだその理屈。
かといって、ここで拒絶すれば、水田さんはきっと目に見えて落ち込むだろう。
だが、素直に頷いてしまえば、本当にこの首輪をつけたまま学校に行きかねない。
「……水田さん」
静かに呼びかけたが、彼女は頬を膨らませるだけで返事をしなかった。
そのとき、僕は悟った。
すでに彼女の中では、僕の意思などお構いなしに話が決まっているのだと。
「芽生ちゃん」
「は、はいぃ……!」
「芽生ちゃんは僕の言うことをちゃんと聞いてくれるよね」
「も、もちろんですよぉ……!」
「じゃあ、首輪は外ではつけないでおこうね」
せめてこれだけは、なんとか阻止しなければ。
すると水田さんは「へへ、へへへ……」と笑って答えた。
「私のこんな姿は、ご主人様にだけ見せろということですねぇ……!! 心配しないでください。私を好きに触っていいのも、首輪を引っ張っていいのも、小町さんだけですからぁ……!!」
「……」
他のことはともかく、これで朝の眠気は完全に吹き飛んだ。
◇
一週間後。
昼休みになり、僕は席を立った。
「芽生」
「は、はいぃ……!」
僕が名前を呼ぶと——水田さん、いや、芽生が待ってましたとばかりにお弁当袋を手に立ち上がり、駆け寄ってきた。
相変わらず彼女の周りには、一緒に昼ご飯を食べようと誘うクラスメイトの女子が何人かいたが、芽生は頑なに断っていた。
今では僕が彼女を昼休みに連れ出そうとしても、周囲の女子たちは「またか」と呆れ顔をするだけで、あからさまな牽制はなくなっていた。
部室に到着すると、部長が僕たちを見て「ちっ」と舌打ちし、ヤンキーのような口調で言った。
「ここはラブホじゃないんだぞ!」
「何の勘違いをしてるんですか」
「そうやって見せつけるように、あ? 手を繋いで……いや、繋いでないけど!」
一体何の話をしているんだろう。
まあ、最近の芽生はなぜか僕の袖をいつも掴んで歩くようになってはいたが。
「そんなに嬉しいか!? そんなに嬉しいのか!? こんなに可愛い美少女とイチャイチャ楽しい学校生活を送れてよぉ!!」
部長が僕の胸ぐらを掴んで前後に揺さぶった。
イチャイチャなのかは分からないが……。
まあ、楽しいのは間違いないからな。
それはそうと、男子ならまだしも、どうして女子の部長にまでこんなに嫉妬されなきゃいけないんだ。
ところが、なぜか芽生が頬を膨らませた。
「ぶ、部長、そこは私もまだ掴んだことのない場所なのにぃ……!!」
一体、芽生まで何の話をしているんだろう。
今、そこが問題なのか?
それとも僕の胸ぐらを掴みたいとでもいうのだろうか。
「それにしても部長、相変わらず本当に力がありませんね。全然痛くないです」
「ふっ、小町くんも甘いね。君が怪我をしないように手加減してあげてるんだよ! 君が怪我をしたら芽生ちゃんが悲しむからさ!」
「全力でやっても大丈夫だと思いますけど」
「そんな挑発をするなんて! 怪我しても知らないからね、小町くん! さあ、いくぞ全力!!」
部長は僕の胸ぐらを掴む手にさらに力を込めた。
だが、うーん。
ほとんど力は感じなかった。
昼休みに部室を自由に使わせてもらっている恩もある。
もう少しくらい、この茶番に付き合ってやるか。
そう考え、あえて手を振り払わず、部長の動きに合わせて上体を前後に揺らしていると——
「そ、そこまでです、部長さん……!!」
突然、芽生が部長の手首を掴み、僕の胸ぐらを掴んでいた手をぐいっと引き剥がした。
え、なんだ?
僕と部長がそろって目を丸くしていると、芽生は言葉を続けた。
「に、二番目ならともかく、一番最初をネトラレるわけにはいかないんですよぉ……!!」
一体何の話をしているんだ。
本当にわけが分からなかった。
それなのに、部長はコクコクと頷いた。
「確かにそうだね。失礼した」
女オタク同士、何か通じ合うものでもあったのだろうか。
やがて、部長は部室を出ていく間際、僕に小さく囁いた。
「愛されてるね、小町くん」
「……え?」
「じゃあ、二人でごゆっくり〜」
呆然としている間に、芽生はお弁当を袋から取り出した。
どうせ深く考えても分からないのだからスルーしよう、そう考えて何気なく彼女の向かい側に座った。
だが、彼女は席から立ち上がると、僕のすぐ隣の席へと移動した。
「小町さん、私、最近同接数がバグっちゃいましたよぉ……!」
「え?」
「私、昨日はなんと——」
芽生がスマホを取り出し、画面を僕の方へと差し出した。
「40人を超えましたよぉ……!!」




