第43話 少し湿ったクッキー
どうすればいいんだろう。
ここで水田さんの望む通りに、僕が手を伸ばして胸元からクッキーを取り出すのが正解なのだろうか。
もし手元が狂って、胸に触れてしまったら……。
いや、おそらく彼女は怒らないだろう。
(それより、僕の理性がもつだろうか)
正直、今日の水田さんはまるで僕を誘惑するみたいに、甘い言葉を囁いてくる。
僕好みの女の子が自らペットを名乗り、体を好きに触ってもいいと言っているのだ。
男として、心が動かない方がおかしいくらいだ。
僕が躊躇していると、水田さんは今にも泣き出しそうな顔をした。
「あ、あのぉ……。やっぱり、私がこんなことするのは嫌ですかぁ……」
「いやいや、全然そんなことないですから。その……めちゃ可愛いです」
「そ、そうなんですかぁ……? それなら、早く食べてくださいぃ……!」
水田さんは、犬の肉球グローブをはめた手を自分の胸元に押し当てた。
いや、ぎゅっと押しつけたせいか、クッキーは谷間のさらに奥へ沈んでいったけど。
これじゃあ、谷間の奥まで手を突っ込まなければ取り出せない。
そう考えた途端、ごくりと生唾を飲み込んだ。
(ここで僕が理性を失い、一線を越えてしまったら……)
もしかしたら、水田さんは拒まないかもしれない。
だけど、それは本当に彼女が心から望んでいることなんだろうか。
彼女の純粋な好意を、僕が勝手に邪な目で見ているだけなんじゃないか。
結衣の時と同じ過ちをまた繰り返してしまうのが怖い。
今回ばかりは水田さんを失いたくない。
だから、たとえ臆病で男らしくないと言われようと、関係を壊しかねない真似だけはしたくなかった。
(でも、水田さんのこういう気持ち自体は嬉しいな)
彼女の好意を無下にせず、それでいて僕も暴走しないためには、どうすればいいんだろう。
正直、彼女が作ってくれたクッキーは食べてみたいし。
ふと、一つの方法を思いついた。
これなら、彼女が推している犬と飼い主の設定を壊さずに、僕の理性が吹き飛ぶ危険も少しは減らせるんじゃないだろうか?
「水田さん、僕にその……お礼をしようとしてるんですよね? ペットとして」
「は、はいぃ……!」
「でも、僕が自分で取り出して食べるのは、少し手間じゃないですか?」
正直、自分でも今何を言っているのか分からなかった。
「た、確かにぃ……! お礼なのに、ご主人様に手間をかけさせちゃダメですよねぇ……!! ペットらしく、ちゃんとご主人様の手足にならなくちゃ……!!」
それがペットらしいことなのかは分からないが、とにかく納得してくれたようだ。
これで少なくとも、僕が水田さんの谷間からクッキーを取り出さなくても済むだろう。
ホッとする一方で、どこか残念にも思うという、矛盾した感情が湧き上がってくる。
ところが水田さんは突然、両腕で胸をぎゅっと寄せると、その谷間へ深く顔を埋めた。
(え? 何だ、急に?)
谷間にあるクッキーを取り出そうとしているのだろうか。
あまりにも刺激的な光景に、僕は思わず椅子を回して背を向けた。
僕は今日、ちゃんと眠れるのだろうか。
変に気まずい空気にならないよう、必死に心を落ち着かせていた、その時。
トントン。
何かに脚を軽く叩かれた。
「うー、うー……!」
え、鳴き声?
いや、口に何かを咥えたまま、声を漏らしているようだ。
椅子を回して振り返った僕は、再び自分の目を疑った。
(な、なんか、さっきよりエロく見えるんだけど……)
水田さんは四つん這いになっていた。
その口には、さっきまで胸の谷間にあったはずのクッキーが咥えられている。
彼女はもう一度、犬の肉球グローブで僕の脚を軽くポンポンと叩いた。
椅子に座ったまま見下ろすと、彼女は自分の首輪に繋がったリードを持ち上げた。
「……これを持て、ということですか?」
僕の問いに、彼女はすぐにこくこくと頷いた。
その瞳があまりにもキラキラとしていて、拒むことなんてできなかった。
もともと、僕が胸元に触れずに済むよう誘導した結果なのだから。
結局、僕は覚悟を決め、彼女の望み通りにリードを掴んだ。
(なんなんだ、このおかしな気分は……)
これが背徳感というやつだろうか。
女の子を犬扱いするなんて。
頭がおかしくなりそうだ。
水田さんは嬉しそうに微笑むと、クッキーを咥えたまま僕の脚の間に潜り込んできた。
そして、まるで本物の犬がじゃれつくように身を起こし、僕に抱きついてきた。
(い、いや、胸が当たってるんだけど)
心臓がバクバクとうるさい。
落ち着け、僕。
絶対に妙な気を起こすな。
一刻も早く本来の目的を果たそうと、僕は水田さんの口からクッキーを抜き取った。
「あ、ありがとうございます。いただきます」
「あ、あのぉ……」
彼女はおずおずと僕を見上げながら、言葉を続けた。
「自分のペットに敬語を使う飼い主はいないと思いますぅ……」
「……」
なんだか注文が多いな。
おかげで、さっきまでの雑念は少し吹き飛んだけど。
「ありがとう、いただくよ」
「へへ、へへへ……。で、できれば名前もぉ……」
「分かったよ、水田」
「普通のペットには苗字なんてないと思いますぅ……」
「……芽生」
「ペットはもっと可愛く呼ぶものだと思いますぅ……」
「……芽生ちゃん?」
「は、はいぃ……!」
水田さんは今日いちばん眩しい笑みを浮かべた。
言わされたような気もするけれど、ここまで喜んでくれると、つられて僕の頬も緩んでしまう。
「は、早くクッキー食べてくださいぃ……!」
「あ、うん」
僕は手の中のクッキーをすぐに口へ放り込んだ。
……クッキーの端が、少しだけ湿っている。
これ、もう間接キスの範疇をとっくに超えているんじゃないか?
「お、おいしかったですかぁ……?」
「うん、すごく。やっぱり芽生、何でも上手だね」
「へへ、えへへ……。そ、それならもっと、ほ、褒めてくださいぃ……!」
「え?」
これ以上?
僕、そこまで口が達者な方じゃないんだけど。
「ペ、ペットを可愛がるみたいに……」
水田さんは少しうつむいた。
その仕草だけで、彼女の言いたいことはすぐに分かった。
なんだか今日は、いろんな意味でいつも以上に求められている気がする。
(ああ、そうか。今日はいつも以上に大変だったからな)
もともと承認欲求の強い彼女だ。
心を許せる相手に、自分の努力を認めてもらいたいのだろう。
それをストレートに言えないから、こうして犬の恩返しという形をとっているのだ。
水田さんの頭にそっと手を置き、優しく撫でた。
「芽生、今日はいっぱい頑張ったね。偉いよ。配信もどんどん上手くなってる。料理だって、もう僕より上手だ。それに、前よりもっと可愛くなった」
「へ、へへへ……。う、嬉しいですぅ……。私、エロくもなれてますか……?」
「お、おお……。そ、そうだね。うちの芽生、どんどんエロくなってるよ」
「へへ、へへへへ……! 小町さんがいつもムラムラしてくれるように、私、もっと頑張りますぅ……!!」
努力の方向性がおかしい。




