第28話 運動とラブコメのお約束
「あ、あえて現代人が運動する必要ってあるんでしょうかぁ……? 私たちには現代文明があるんだから、わざわざ貴重な時間を使って、汗水垂らす必要なんてないんじゃないでしょうかぁ……? そもそも現代文明って、楽をするために発達してきたものなのに、運動するなんて、その恩恵を自分から拒んでいるようなものというか……。現代人に求められるのって、身体能力よりやっぱり頭脳じゃないでしょうかぁ……?」
水田さんの見苦しい言い訳が延々と続いた。
彼女がこれほど早口になるのは初めてだった。
ラッパーにでもなれそうだな。
「大変申し訳ないんですが、水田さん」
「はいぃ……?」
「身体能力より頭脳とは言いますけど、水田さん、肝心の勉強のほうは……」
「うっ……。ひ、卑怯ですっ、事実を突きつけるなんてぇ……!」
卑怯なのか?
「と、とにかくぅ……! 勉強もできないのに運動なんてさらに無理ですぅ……!!」
勉強と運動に何の関係があるのかは分からないが、彼女が本気で嫌がっていることだけは伝わってきた。
やはりVTuber関連の話で説得するしかないだろう。
「よく考えてみてください、水田さん。VTuberを始めてまだ1年ちょっとだから、今のところは夜に長時間配信しても、そこまで無理はありませんよね?」
「はいぃ……」
「でも、VTuberを始めてから、少しずつ疲れがたまって、身体のあちこちが痛むようになったりしていませんか?」
「そ、それは……。確かにぃ……」
僕は加齢とともに高まる健康リスクを、これでもかと並べ立てた。
不眠症、脂肪肝、高脂血症、胃痛、首や腰のヘルニア、めまいなどなど。
ついには、急死の事例まで引っ張り出した。
「もちろん、運動だけで全部解決するってわけじゃないですけど」
「ひいぃっ……。VTuberって命がけでやらなきゃいけないものだったんですかぁ……?」
「だから普段から体力をつけて、健康的な生活習慣を身につけておかないと長く続けられないって話です。せっかく頑張ってチャンネルを大きくしても、その頃になって病気になったら元も子もないじゃないですか」
少し年寄りくさい考えだとは思うが、結局何をやるにしても健康第一なのだ。
特にVTuberをはじめとする配信者は、どうしても生活が不規則になりがちだ。
だからこそ、なおさら気を付けなければならない。
「なんだか最近思うんですけど、小町さん、何でもVTuberの話に持っていけば私がOKすると思っていませんかぁ……?」
僕は内心、ぎくりとした。
「ち、違いますよ。まあ……ほんの少しは思ってましたけど」
「どうして目を逸らすんですか!? ほんの少しじゃない気がするんですけどぉ!?」
水田さんは、こういうときだけ妙に勘が鋭い。
◇
それでも僕の説得が効いたのか、水田さんは渋々ながら運動することに同意してくれた。
というわけで、今日から放課後、夕食前の15分だけでも簡単な運動をすることになった。
運動は何よりも継続することが大事なのだから。
「うへぇ……。もう疲れましたぁ……」
「いくらなんでも、まだ5分も経ってないですよ」
しかも、まだストレッチをしただけだ。
水田さん、想像以上に体力がなかった。
こんな調子で、以前はどうやって弁当作りに5時間もかけ、夜には配信までしていたんだろう。
「じゃあ今日は、比較的負担の少ない長座体前屈と、上体起こしくらいにしておきましょうか」
「ひえっ……。小町さん、スパルタすぎますぅ……」
これくらいでスパルタなら、運動部の連中は毎日地獄を見ていることになるんじゃないか。
「さあ、座ってみてください」
「は、はいぃ……」
リビングの床に敷いたマットの上で、互いに膝を伸ばして向かい合い、足の裏を合わせた。
そのまま、両手を軽く握り合う。
「じゃあ、いきますよ」
「や、優しくぅ……」
「もちろんです」
あくまで水田さんの健康のためだ。
当然、無理させるつもりはない。
僕はゆっくりと上体を後ろへ倒しながら、握った彼女の両手をこちらへ引き寄せた。
「んんっ……!」
彼女の上体が少しずつ前へ倒れ、ぶるぶると震え始めた。
それに合わせて、白いTシャツ越しの豊かな胸が小さく揺れた。
「ふんっ……!!」
なんだか、声がだんだんエロく聞こえてくる。
僕の脳が腐っているせいだろうか。
というか僕、今、ごく自然に水田さんの手を握ってるじゃないか。
手のひら越しに伝わる無駄に柔らかな感触と、目の前で揺れる胸。
その両方が、僕の思考を容赦なくかき乱してくる。
「ど、どうですかぁ……!?」
「あ、はい」
すっかり気を取られ、水田さんの様子を確かめるのを忘れていた。
しっかりしろ、僕。
このままでは彼女の信頼を裏切ることになりかねない。
水田さんの上体をゆっくり元の姿勢へ戻してから、僕は言葉を続けた。
「本当に身体硬いですね」
「うぅっ……」
彼女の指先はつま先にすら届いていなかった。
お腹にお肉がついているわけでもないのに、どうしてここまで硬いのか不思議なくらいだ。
「そ、そういう小町さんこそ、どれだけできるのか見せてもらいますぅ……!」
「あ、はい。じゃあ次は水田さんが引っ張ってください」
正直、僕もそんなに運動が得意なわけじゃない。
これまで放課後も休日も、その大半を結衣の手伝いに費やしてきたせいで、まともに運動する時間は取れていなかった。
記録も以前よりだいぶ落ちているはずだ。
さっき僕がやったように、水田さんはゆっくりと上体を後ろへ倒しながら、僕の両手を引いた。
僕は頭を下げながら息を吐いた。
(あ、やっぱりすぐに限界が来るな)
もともと平均より少し上くらいの記録だったが、今は良くて平均レベルだろう。
そう思っていると、突然水田さんが力いっぱい引っ張った。
「うわっ!」
「ふんぎゃっ――!?」
僕と水田さんの悲鳴が、ほとんど同時に上がった。
握り合っていた手が離れ、その直後、
――ドンッ!
床に鈍い音が響いた。
何が起きたのかと、僕は顔を上げた。
「……え? 水田さん?」
「す、すみませんっ……」
水田さんは、ひっくり返ったカエルのように仰向けで転がっていた。
どうやら、少し上体を後ろに反らしただけでバランスを崩してしまったらしい。
「ふえぇ……。小町さん、すごく身体柔らかいですねぇ……」
「そんなことないですよ。僕もかなり硬くなりましたし、水田さんと一緒に、こうやって練習しないとダメですね」
「小町さん、本当に何でもできちゃうみたいですぅ……」
別にそんなことはないんだけど。
結局、僕は何をやっても平均より少し上。
いつも、そこ止まりだ。
水田さんも、僕と過ごしていくうちに、いずれその限界に気づくだろう。
「じゃあ、次は上体起こしをしましょうか」
「うげっ……。私にとってそれは完全な地獄ですぅ……」
「それでもやらなきゃいけないことですから。まあ、最初はあまり無理せずに10回を目標にしましょう」
「は、はいぃ……!」
水田さんが再びリビングの床に横になり、今度は膝を曲げた。
僕はあぐらをかき、彼女の両脚を自分の脚と腕でしっかりと固定した。
水田さん、脚も柔らかいな、なんていう気持ち悪い感想は慌てて頭から振り払った。
「じゃあ、始めますよ」
「ふぅーっ……!」
水田さんは両手を頭の後ろで組み、小さく気合いを入れると、上半身を起こし始めた。
マナーモードのスマホさながらに全身をぶるぶる震わせながらも、どうにか僕の顔の近くまで上体を持ち上げた。
その動きに合わせて白いTシャツ越しに大きく揺れる胸から、僕は必死に目を逸らした。
「はぁ、はぁ……。す、すごくきついですぅ……」
「……まだ1回ですよ? さあ、2回目いきましょう」
「お、鬼ぃ……!」
水田さんは再び背中を床につけ、今度はさらに激しく全身を震わせながら、上半身を起こした。
1回ごとに要する時間が倍増している気がしたが、とにかく時間をかけてでもやり遂げることに意義があるはずだ。
「よ、よんっ……!!」
「よくやってますよ。とりあえず5回にしましょうか」
10回は到底無理そうだった。
……水田さん、本当に運動オンチだな。
おまけに、傍から見ればすでに五十回はこなしたかのように汗だくだった。
それでもどうにか「ご、ごかぁい……!!」と声を絞り出し、僕が下方修正した目標を達成した。
「うはぁぁ……」
「お疲れ様でした。じゃあ次は僕がやりますね」
「はいぃ……」
僕が水田さんの脚を離すと、今度は彼女が僕の脚を押さえようと少し腰を浮かせた。
その瞬間、「え……?」と声を漏らし、身体をぐらりと傾けた。
「水田さん!」
危ない――そう思った瞬間、僕は彼女の身体を受け止めようと手を伸ばした。
けれど、間に合わない。
僕までバランスを崩し、二人でもつれ合うように床へどたんと倒れ込んだ。
その時だった。
「よお、翼! 今日も隣のお嬢さんと一緒に――」
いつの間にか、父さんが家に帰ってきていた。
父さんは僕たちの姿を見るなり、言葉を失った。
……もつれ合って倒れた拍子に、僕は水田さんに押し倒されたような格好になっていたのだ。
僕たち3人が揃って凍りつく中、父さんはくるりと背を向けた。
「あ、ああ、そういえばやらなきゃいけない仕事を忘れてそのまま帰ってきちゃったな。残業してくるから、なんだ、その……あれだ。うん」
「いや誤解だから!」
まさか自分が、こんなラブコメのお約束みたいな場面の当事者になるとは思ってもみなかった。




