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絶命のユーフォリア  作者: 柏木むし子
二章 観察迷宮オギアム
16/31

2-1 無力な手

 ひとり、馬車に揺られていた。

 檻として作られた荷台の隅に座り込み膝を抱えている。幾度となく乗せられたことのある遊畜(おもちゃ)運搬車は、以前と比べてすっかり広くなってしまっていた。

 かつて共に詰め込まれていた同胞たちはもういない。みな死んだ。嫉妬、慰めあい、ささやかな交歓、すべてが過去のものとなってしまった。

 痩せた少年は虚ろな目で床を見つめている。荷台に身体を揺さぶられながら、先に逝っただろう同胞たちについて考えていた。彼らは、彼女らは、どのような気持ちでこの車に揺られ、屠畜場へと運ばれていったのだろうか。

 口つぐみの令を破って泣きわめく者がいたに違いない。力なく嗚咽を洩らしてただ死を待つ者もいたに違いない。最後の少年は涙すら流せないまま己の死を想っていた。

 抗う気力はすでになかった。どうにか檻を抜けて逃げ出したとしても、屠殺よりも凄惨な死が待っているだけだ。

 馬車はいつもより長い道のりを走り、動きを止めた。ほどなくして荷台の扉が開けられる。出迎えたのは屠畜場の者と思しき魔力持ち(しはいしゃ)の男で、すぐに荷台から降りるよう指示をしてきた。少年はそれに従い歩みだす。自分を殺すための建物へ向かって。

 しかし檻から飛び降りた先は、つい先ほどまで見えていた屠畜場の搬入口ではなかった。見知らぬ廃墟に降り立った少年を、飛来する臓物が襲う。

 乱暴に命を賭した殺し合い(まぐわい)が脳を揺さぶり、しなびた魂に血の快楽を注ぎこんだ。

 それからは――まんざらでもなかったように思える。死生匣(テラヴァイス)が支配する世界は横暴に満ちているが、少年のかつての主人たちと違い、仲間と結託して行動することを好しとしていた。

 先輩たちは知識を惜しみなく分け与えてくれる。寝食を共にしてくれる。身体を重ねる際に労わってくれる。彼らの言う『人として当たり前のこと』は、少年にとっては目新しいものだった。

 自分に笑いかけてくれる仲間たちの顔が次々と浮かぶ。ひとりひとり、ゆっくりと、何かを語りかけるように――いや、思い出させようとするかのように――


「……ぁ、……」

 束の間の気絶から覚めたモーリェは、腹をかき回される痛み(かいかん)に顔を歪めて呻いた。

 脳裏に浮かんだ映像の数々は自身の記憶だ。命がやばいときに脳が解決策を探してるらしいよ、とフォグが教えてくれたことがあった。

 しかし今しがた浮かんだ記憶たちは役に立ちそうにない。巨大な蟹に内臓をほじくられながら起死回生を果たした記憶などあるはずもなかった。

「ぁ……ぅ、っぐ……」

 武器は弾き飛ばされ、片足の骨を砕かれている。〈深海抱擁譚クリノイディア・スクリプト〉の力で足掻いてはみたものの、地面に溜まっていた水をかけられた程度で蟹がひるむはずもなかった。敵の体高は少年の倍はあり、頑健で好戦的だった。

 蟹は身動きが取れなくなった獲物を前に、交戦時とは打って変わったのんびりとした動きで、器用に内臓を抉り口元に運んだ。引き千切られた腸から内容物がこぼれ、湿地に生えた草へとぶちまけられた。

 血が食道を逆流し、喉奥に溢れる。咳きこんでどうにか血を吐き出すことで、ほんの僅かながら苦しみから逃れることができた。痛みが快楽を呼ぶ身体をもってしても、気管が血で詰まる辛さは悦べそうにない。少なくとも今はまだ

「ご、め……ん……」

 言葉を聞き届ける者はいない。懺悔のうわ言は、留守番すらまともにこなせなかった自分への憤りを含んでいた。外の空気を吸いたいと、今回の拠点となった洞窟から出た途端に襲われたのだ。

 死生匣(テラヴァイス)の周囲は殲獣(ホイル)が入りこめない安全地帯となるが、洞窟の出口がその範囲に含まれていなかったらしい。待ち伏せをしていた蟹に頭を殴られ、あとはなすがままだった。

 少年のはらわたを奪い去った蟹は、続いて獲物の肋骨を鋏で打ち据えた。ひどく重たい衝撃は容赦なく骨を砕いてゆく。呼吸もままらなくなり、急速に意識が薄れだした。

 ――みんなが帰ってきたらなんて言うだろう。慰めてくれそうだけど恥ずかしいな。本当に情けない――

 視界が光を失ってゆくのを感じながら、モーリェはがくがくと腰を痙攣させて、命が潰える感覚に溺れていった。

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