⑥
それから、十年の月日が流れた。
私は離れから本宅へ移され、そのまま屋敷で暮らすことになった。
日々は勉学と花嫁修行に費やされる。
礼儀作法、舞踏、語学。
誰から見ても“申し分のない花嫁”になるための教育。
けれど——
その生活は、決して恵まれたものではなかった。
むしろ、形を変えた地獄だった。
「貴方のせいで、私はジョセフから愛してもらえない。」
鋭く吐き捨てられる声。
振り向かなくても分かる。
その言葉が向けられているのが、自分だということくらい。
ジョセフの妻——アイビー。
王家の血を引く、公爵令嬢。
誰もが羨むはずの立場にいながら、彼女の心は満たされていなかった。
子をなせない身体。
何度も治療を試みても、結婚して十年——子は授からなかった。
一夫一妻制のこの国で、ジョセフはそれを理由に堂々と裏切る。
愛人を囲い、婚外子を増やし続ける。
夫婦の間にあるのは、愛ではなく憎悪だった。
そしてその歪みは、行き場を失い——私へと向けられる。
理不尽な叱責。
理由のない八つ当たり。
逃げ場のない、静かな圧迫。
けれど。
身体に傷がつくことはなかった。
——壊してはいけないから。
ジョセフにとって私は、ただの“価値あるもの”。
消耗はさせても、破損はさせない。
それだけの存在だった。
それでも。
私には、まだ“外の空気”があった。
「ルーナ、会えて嬉しいよ。」
その声を聞いた瞬間、胸の奥が少しだけほどける。
変わらない声。
変わらない温度。
ソラだった。
彼はいつも同じ時間に現れる。
それが当たり前のように。
まるで、最初からそこに組み込まれていたみたいに。
「今日は少し顔色がいいね」
そう言って、何でもないことのように私の前にしゃがみ込む。
その仕草には、距離がなかった。
見上げる必要も、見下される感覚もない。
気づけば、身体がふわりと浮く。
彼はいつも、自然に私を抱き上げる。
強くもない。
乱暴でもない。
それなのに、不思議なほど落ち着く腕だった。
抱え込むのではなく、支えるように。
縛るのではなく、預かるように。
何も求めてこない。
何も奪わない。
ただそこにいるだけで、「ここにいていい」と言われている気がした。
ソラは、沈黙すら怖がらなかった。
言葉が途切れても、表情が曇っても。
急かさず、責めず、ただ待つ。
そんな人を、今世の私は知らなかった。
気づけば思っていた。
この人となら。
この人となら、壊れないまま生きられるのではないかと。
恋に溺れないように。
前世のように、すべてを失わないように。
そう決めていたはずなのに。
それでも心のどこかで。
「この人と結婚したい。」と、強く願ってしまっていた。
そして。
結婚式まで、あと一月。
秋の空はやけに澄んでいて、少しだけ冷たかった。
その日は、私の十八歳の誕生日だった。
朝から、落ち着かない気持ちがあった。
理由は分からない。
ただ、胸の奥が妙に静かだった。
静かすぎて、不安になるほどに。
一日が、長かった。
窓の外の光が傾いていくのを、ただ眺めていた。
そして夜。
彼は来なかった。
代わりに届いたのは——
死の知らせだった。
屋敷へ向かう途中、馬車ごと崖下へ転落。
即死だったと。
理解が、追いつかない。
言葉の意味は分かるのに、現実として受け取れない。
気づけば、私は葬儀の場に立っていた。
黒に染まった空間。
低く響く祈りの声。
けれど——
彼の顔を見ることは、許されなかった。
損傷が激しすぎるから、と。
最後すら、奪われた。




