⑧
それから、どれくらい時間が経ったのか。
キースは、ゆっくりと――けれど確実に回復していった。
最初は指先だけだった動きが、やがて腕へ。
途切れがちだった言葉も、少しずつ形になっていき。
焦点の定まらなかった瞳も、次第にしっかりとこちらを捉えるようになっていく。
医師は、静かに告げた。
「後遺症は、見られません」
その一言に。
ルーナは、その場で崩れ落ちそうになった。
安堵だったのか。
張り詰めていたものが切れたのか。
自分でも分からなかった。
ただ――ずっと止めていた呼吸を、ようやく思い出したみたいに。
深く、息を吐いた。
それでもルーナは、変わらず彼の傍にいた。
食事も、睡眠も、最低限。
回復していくキースを見届けることだけが、自分の役目のように。
「……ルーナ」
ある日、名前を呼ばれた。
はっきりと。
途切れない声で。
その一言に、胸が大きく揺れる。
振り向いた先で、キースがこちらを見ていた。
もう、意識の底ではない。
ちゃんと、“ここ”にいる視線。
「……はい」
それだけ答えるのに、少し時間がかかる。
声が、うまく出なかった。
「…無理してるだろう」
静かな声だった。
責めるでもなく。
ただ、見抜くように。
ルーナは、わずかに首を振る。
「してません」
けれど――その言葉は、あまりにも軽く崩れた。
次の瞬間。
視界が、大きく揺れる。
「……え……」
足元が消えたみたいに、力が抜ける。
世界が、遠のく。
「ルーナ!」
「しっかりしろ……!」
焦った声。
けれど、その輪郭さえ曖昧に溶けていく。
そのまま、意識は深く沈んだ。
次に目を覚ました時。
ぼんやりとした光が、視界に滲んだ。
見慣れた天井。
静まり返った部屋。
どこかで、布の擦れる小さな音がする。
「……ルーナ様!」
聞き慣れた声。
ゆっくりと視線を動かすと、
そこにいたのはロイだった。
張り詰めた表情の奥に、はっきりとした安堵が滲んでいる。
「……ロイ……」
声はかすれていた。
喉がうまく動かない。
「やっと……目を覚ましましたね」
ロイは小さく息を吐く。
ようやく肩の力を抜いたように。
「……キース様は……?」
意識が戻った瞬間、
自然と、その名前が零れていた。
ロイの目が、わずかに揺れる。
けれどすぐに、落ち着いた声で答えた。
「大丈夫です」
短く、はっきりと。
「順調に回復してます」
その言葉に。
胸の奥で、強く張りつめていたものがほどけた。
「……そう、ですか……」
それだけで、力が抜ける。
ようやく、息ができる気がした。
安心した途端、身体の重さが一気に押し寄せる。
「ルーナ様の方が問題です」
ロイの声が、少しだけ強くなる。
「何週間、ろくに寝てないんですか」
責めるわけではない。
けれど、抑えきれない感情が滲んでいた。
「…それでも平気だったの」
かすれた声で、そう返す。
ロイは小さくため息をついた。
「でも、倒れたのが現実ですよ」
そして、わずかに視線を逸らす。
言葉を選ぶように。
「自分のことも見てください」
その一言は、静かだった。
強く責めるわけでもなく、けれど逃がさない響きで。
ルーナは、何も返せなかった。
胸の奥が、かすかに揺れる。
分かっていたはずのことを、まっすぐ突きつけられた気がした。
ずっと、見ないようにしていたもの。
置き去りにしていた自分自身。
それが、ゆっくりと浮かび上がってくる。
けれど――同時に、別の感覚が満ちていく。
キースは、生きている。
ちゃんと、戻ってきている。
もう、それだけでよかった。
まぶたを閉じる。
張りつめていたものが、ほどけていく。
身体の力が、ゆっくり抜けていく。
抗う必要は、もうどこにもない。
ルーナは、小さく息を吐いた。
深く、静かに。
そのまま――穏やかな眠りへと落ちていった。




