⑨
それから数日。
私はしっかりと休まされ、食事も、睡眠も、半ば強制的に整えられた。
気づけば、身体の重さは消え、思考も、驚くほど澄んでいた。
そして――久しぶりに、自分の足で歩いて向かった先。
扉の前で、足が止まる。
深く、息を吸う。
ノックをする手が、わずかに震えた。
「……どうぞ」
中から返る声。
もう、遠くない声。
ルーナは、ゆっくりと扉を開けた。
そこにいたのは――立っているキースだった。
まだ万全ではないのが、わかる。
わずかに残る疲労。
完全には戻りきっていない気配。
それでも自分の足で、確かに立っている。
「……ルーナ」
その一言に、胸の奥が、静かに揺れる。
「……はい」
短く答える。
それだけで、十分だった。
もう、あの時のように遠くはない。
触れられる距離にいる。
失いかけたものが、確かに、ここに戻ってきている。
それでも――
あの時間は、消えない。
あの恐怖も。
あの後悔も。
胸の奥に、形を変えず残っている。
だからこそ、二人の間に流れる空気は以前とは少し違っていた。
静かで。
壊れやすくて。
不用意に触れれば、すぐに崩れてしまいそうなほどに繊細で。
それでも――確かに、繋がっている。
その、曖昧で頼りない“繋がり”を確かめるように。
私は、一歩だけ踏み出した。
キースもまた、ほんのわずかに視線を上げる。
しかしそれ以上、距離は縮まらなかった。
「……ルーナ。体調は?」
先に口を開いたのは、キースだった。
いつもと変わらない声音。
けれどどこか、慎重に言葉を選んでいるような間がある。
「もう大丈夫です。キース様は……?」
「私も大丈夫だよ」
短い返答。
それ以上、続かない。
沈黙が落ちる。
本当は、もっと話したいはずなのに。
伝えたいことも、聞きたいことも、
いくらでもあるはずなのに。
言葉だけが、見つからない。
私は、そっと彼を見つめる。
生きている。
ここにいる。
それだけで、十分だったはずなのに。
――足りない。
その感情に、自分で戸惑う。
「……あの」
声を出す。
けれど、続ける言葉が見つからない。
あの夜のことも。
自分の気持ちも。
全部――胸の奥で絡まったまま。
「……キース様が無事で、本当によかった」
やっと出たのは、その一言だった。
キースは一瞬だけ目を伏せ、小さく頷く。
「……ああ」
それだけ。
それだけなのに。
それ以上踏み込ませないような、静かな壁が、そこにあった。
胸が、わずかに痛んだ。
「……ルーナ」
再び名を呼ばれる。
その声は、どこまでも穏やかで。
「本当にすまなかった」
静かに告げられる。
「どういうことですか?」
キースは、わずかに視線を落とした。
「……最近」
低く、言葉を落とす。
「妙な動きがあるのは、分かっていた」
ルーナの指先が、ぴくりと震える。
「警戒をしていた」
淡々としているのに、
その奥に押し込めたものが滲んでいる。
「しかし――」
一瞬、言葉が詰まる。
「間に合わなかった」
静かに、落ちる。
「もっと早く動けていれば」
「もっと確実に、潰せていれば」
わずかに、拳が強く握られる。
「ルーナをあんな目に遭わせずに済んだのに」
責める声じゃない。
ただ、自分に向けている。
「……辛い思いをさせて、申し訳なかった」
キースは泣きそうな顔をしていた。
「だから」
小さく、息を吐く。
「同じことは、もう繰り返さない」
顔を上げる。
その目は、もう揺れていない。
「距離を置こう」
静かに告げる。
「俺はルーナを守れない」
その言葉が落ちた瞬間、
空気がすっと冷たくなる。
私は、すぐには意味を受け取れなかった。
理解したくないのに、
言葉だけが、ゆっくりと胸の奥に沈んでいく。
――距離を置く。
それは、守るための言葉のはずなのに。
どうしてこんなにも、
遠ざけられる音がするのか。
胸の奥が、静かに軋んだ。




