③
そして、帰りの馬車の中。
規則正しく揺れる振動に身を預けながら、私はただ静かに座っていた。
外の景色は流れているのに、思考だけがどこかに取り残されている。
頭の中にあるのは――キースのことばかりだった。
ソラのことを、ずっと隠していたこと。
それでも最期に、私をソラに会わせてくれたこと。
そして今、何も言わずに、私に“これから”を選ばせていること。
あのときの声が、何度もよみがえる。
押しつけることも、引き止めることもせず。
ただ静かに、選択だけを差し出した声。
思い出すほどに、胸の奥が締めつけられる。
――きっと、理由があった。
私の知らないところで。
私に言えなかった何かが。
それなのに私は。
何も知らないまま、拒絶した。
遠ざけた。
あの距離を、自分で選んでしまった。
小さな記憶が、ひとつ、またひとつと浮かび上がる。
隣を歩いた時間。
何気なく交わした言葉。
何も話さなくても、ただ隣にいられた静けさ。
そして――あの夜空の下。
同じものを見上げて、同じものを願っていた時間。
言葉にはしなかったはずなのに。
確かに、同じ方向を見ていた。
それらが、まるで走馬灯のように巡っていく。
――逃げる前に。
――選ぶ前に。
ちゃんと、向き合わないといけない。
キースと。
そう、思った――その瞬間だった。
不意に、馬車が激しく揺れた。
体が大きく前に投げ出される。
鈍い衝撃音が、外から叩きつけられるように響いた。
次の瞬間、怒号が飛ぶ。
「――襲撃だ!」
その一言で、空気が一変する。
馬がいななき、蹄が乱れる音。
馬車が無理やり止められ、きしむ音が耳に残る。
何が起きているのか理解する前に、扉が勢いよく開いた。
「ルーナ様!」
ロイだった。
その顔は、見たことがないほど張りつめている。
「こちらへ!」
強く手を引かれる。
ほとんど引きずられるようにして、外へと連れ出された。
夜の空気が、鋭く肌を刺す。
外ではすでに剣がぶつかり合っていた。
金属の擦れる音。
短く切り裂かれる叫び。
火花が散り、闇の中で光が瞬く。
現実が、急に遠のく。
「離れないでください!」
ロイの声だけが、はっきりと聞こえる。
その手を、必死に握り返すし、走る。
ただ、それしかできない。
足元が不安定で、うまく踏みしめられない。
それでも前へ。
背後で何かが崩れる音がした。
振り返る余裕はない。
暗がりの中を、ただ逃げる。
「……っ!」
突然、体が強く引き戻された。
腕を掴まれる。
違う。
ロイじゃない。
知らない力。
強引に、後ろへ引かれる。
「ルーナ様!」
ロイの声が、遠くなる。
一瞬で距離が開く。
複数の気配が、同時に迫る。
押さえつけられる。
肩を、腕を、容赦なく掴まれる。
息が詰まる。
抵抗しようとしても、力が違いすぎた。
「離して……!」
声にならない。
体が持ち上げられる。
足が地面から浮く。
視界が大きく揺れる。
何も掴めない。
「ロイ……!」
名前を呼んだはずなのに、音にならない。
視界の端で、剣の光が一瞬だけ走る。
そのすぐ後――背後から、何かが首元に触れた。
冷たい感触。
ぞくりと背筋が震える。
次の瞬間、意識がぐらりと傾いた。
力が抜けていく。
抗えない。
視界がぼやける。
音が遠のく。
光が滲む。
崩れていく意識の中で――
ふと、何かが“重なった”。
夜の闇ではない。
血の匂いでもない。
もっと、遠い記憶。
それは闇ではない。
今いる場所でもない。
どこか、もっと遠い場所。
冷たい地面に横たわる感覚。
呼吸が浅い。
胸が、うまく動かない。
視界の端に、赤が滲んでいる。
――これは、誰の。
そう思うより先に、すぐ近くで、声がした。
「……しっかり……」
かすれているのに、必死な声。
誰かが、私を抱き起こしている。
腕の中に支えられている感覚。
温かい。
けれど、その温度が少しずつ遠のいていく。
「目を……開けて……ください」
その声に応えようとしても、体が動かない。
視界が、ゆっくりと揺れる。
ぼやけた中で、誰かの顔が近づく。
――知らないはずなのに。
どうしてか、胸が痛いほど締めつけられる。
その人の手が、頬に触れる。
震えている。
必死に、何かを繋ぎ止めようとするように。
でも――もう、届かない。
その温度が、離れていく。
「……守れなかった……」
最後に聞こえたのは、絶望の声だった。
次の瞬間、すべてが闇に沈む。
現実に引き戻される。
何もないはずなのに、胸の奥だけが熱を残している。
理由の分からない、痛みと――消えない、温度。
私は、そのまま意識を手放した。




