④
どれくらい時間が経ったのか分からない。
意識がゆっくりと浮かび上がる。
体が重く、自分のものではないみたいに動かない。
まぶたを開けると、薄暗い天井が視界に滲んだ。
古びた木材の軋み。
湿った匂い。
どこか腐ったような空気が、喉にまとわりつく。
「ここはどこなの…。」
状況を理解するより先に、手首に違和感が走る。
動かそうとして、止まる。
縛られている。
冷たい縄が、皮膚に食い込んでいた。
足も、同じように拘束されている。
息が浅くなる。
周囲を見回す。
ここは小さく、汚れた空き家だった。
壁はひび割れ、床は軋み、まともに手入れされた気配がない。
窓から見えるのは――ただ、深い森。
どこまでも続くような暗い緑。
人の気配は、どこにもない。
逃げ場がないことだけが、はっきりと分かる。
――私は、これからどうなるのだろう。
その考えが浮かんだ瞬間、体の奥から冷たいものが広がった。
怖い。
言葉にする前に、感情が先に溢れる。
これまでの二度の人生の中で。
こんな感覚は、初めてだった。
確かに、精神的に虐げられていた過去はあった。
心を傷つけられ、逃げ場のない日々。
それでも――ここまで“何をされるか分からない恐怖”は、なかった。
体を傷つけられるかもしれない。
踏みにじられるかもしれない。
壊されるかもしれない。
その想像が、止まらない。
呼吸がうまくできない。
声も出ない。
体も動かない。
ただ、震えることしかできなかった。
視界が滲む。
涙が、止まらない。
その中で、ただ一人の顔が浮かぶ。
――キース様。
助けてほしいと、思ってしまった。
その瞬間――ガンッ、と乱暴な音が響いた。
心臓が跳ね上がる。
次の瞬間、扉が荒々しく開かれた。
光が差し込む。
その逆光の中に、立っている影。
見た瞬間、全身の血が凍りついた。
――ジョセフ。
この世で、最も関わりたくない存在。
最も、憎悪する人物。
「目を覚ましたか。」
ゆっくりと近づいてくる。
足音がやけに大きく響く。
「やっと、見つけたよ。ルーナ。」
その声音は、優しさにも似ているのに――どこまでも歪んでいた。
「よく、生きてたね。」
「……。」
声が出ない。
喉が張りついて、言葉にならない。
ただ、体が震える。
昔と何も変わらない。
いや――あの頃よりも、もっと濃い狂気がそこにあった。
「最初はね、貴族の邸宅に火を放って、そのまま刺客に始末させるつもりだったんだよ。」
楽しそうに語る。
まるで世間話のように。
「でもさ、護衛騎士が邪魔してさ。しっかり守っちゃってさ。」
くつくつと笑う。
「しかも、それが私の息子だったんだよね。」
その言葉に、背筋が冷たくなる。
「でも今回はちゃんと強いのを雇ったよ。あいつには、もう邪魔させない。」
一歩、また一歩と距離を詰めてくる。
逃げられない。
「会いたかったよ、ルーナ。」
その言葉に、吐き気が込み上げる。
それでも、絞り出すように声を出した。
「どうして……私に、執着するんですか」
ジョセフは、一瞬だけ目を細めた。
そして、すぐに笑う。
「どうして?」
首を傾げる。
本気で分からないとでも言うように。
けれど次の瞬間、はっきりと告げた。
「そんなの決まってるだろ。」
笑みが、歪む。
「ただ、お前が幸せになるのが――許せないんだよ。」
言葉が、突き刺さる。
「……」
何も言えない。
理解も、拒絶も、追いつかない。
ただ、恐怖だけが膨らんでいく。
「さて……どうしようか。」
ゆっくりと視線を這わせる。
まるで品定めをするように。
「外道どもに回すか。」
「それとも、頭のおかしい貴族に売るか。」
軽い口調。
それなのに、その一つ一つが現実として迫ってくる。
「悩むんだよね。」
息が詰まる。
逃げたい。
けれど、逃げられない。
震えながら、問いがこぼれる。
「……殺さないんですか」
その瞬間、ジョセフは心底つまらなそうにため息をついた。
「殺すわけないだろう。」
即答だった。
「死んだら終わりじゃないか。」
一歩、近づく。
「お前の母親もそうだった。」
声が、低くなる。
「勝手に死を選んでさ。つまらなかった。」
ぞくり、と背筋が粟立つ。
「だからさ――」
顔を近づける。
逃げられない距離まで。
「ルーナのことは、ちゃんと苦しませたいんだよ。」
言葉が、耳の奥にこびりつく。
未来が、閉ざされる。
逃げ場もない。
終わりもない。
ただ、壊されていくだけの時間。
――無理。
耐えられない。
そのときだった。
次の瞬間――轟音とともに、扉が内側へ吹き飛んだ。
木片が散る。
空気が、一瞬で変わる。
ジョセフが振り返る。
私は、反射的に顔を上げた。
そこにいたのは――キースだった。




