第二十四章(4)
結局、第一回の会合は「におい」の話に脱線したまま終わってしまった。
次の会合は、五月二十二日に予定されている。
その間の平日、僕のもとに一通の手紙が届いた。
待ち望んでいた、ゼノさんからの返事だ。
そこには、僕の手紙を受け取って喜んでいることと、近況が書かれていた。
ゼノさんはマーガレットの言っていた通り軍を引退し、今はセルグにある国家監察院の長官として、双帥を補佐しているらしい。
……思っていた以上に、ずっと偉い人だった。
アレクサンドラ家の当主もそろそろ引退を考えているが、息子や娘、孫たちがいずれも優秀で、誰に継がせるか迷っている、という話も添えられている。
「マーガレットとバートの様子はいかがですか。とくにマーガレットは私に似て体が丈夫なので期待しています。もう少し学問ができれば……」
そんな一文に、思わず頬が緩んだ。
だが、次のページをめくって、僕は少し背筋を伸ばすことになる。
「ところで、気になる噂を耳にしました。風見鶏で『神子研究会』なるものが始まったそうですね。孫たちも参加していると聞いています。あなたが代表者だと思っていましたが、違うのですね。キュービット・クラウジウスという方はどのような人物なのでしょう。お恥ずかしいことながら、聞き覚えのない家名でして……」
耳が早い。
どこから情報を仕入れたのだろう。
マーガレットの言っていた通り、キュービット先生の家名はさほど知られていないらしく、ゼノさんは困惑しているようだった。
僕は新しい便箋とペンを取り、すぐに返事を書き始めた。
まずは当たり障りのない挨拶と、マーガレットが学業でも優秀であることを書き添える。彼女が当主になることを望んでいると知っているからだ。
キュービット先生については、こう記した。
「イーノスの世話をよくしてくださる、とても誠実な先生です。風見鶏の中で、彼ほど神子を気にかけている方はいないと思います」
これだけ強調しておけば、研究会の代表が彼であることを軽く扱われることもないだろう。
僕は少しだけ満足しながら、書いた文章を見返した。
――そうだ。
アイビー先生に言われていたことも、伝えておかなくては。
引き出しから彼女の手紙を取り出し、それを参考にしながら続きを書く。
「先日の研究報告会で、ハックフォード先生が奇妙な発表をしていました。私はその話を神子に伝えましたが、彼はたいへん怒っている様子でした。事情は分かりませんが、少なくともあの研究は神子の望むものではないようです。ハックフォード先生は近いうちに処罰を受けるかもしれません。クロム様にまで影響が及ぶ可能性もありますので、どうかお気をつけください」
ほとんど、でたらめだ。
それでも、僕はその手紙を封に入れ、ノギスさんに託した。
どんな結果になるのだろう。
少しだけ胸の奥がざわついたが、翌日アイビー先生に報告すると、彼女は満足そうに口元を歪めた。
「これで、あの生意気な悪ガキもおしまいね」
その言葉通り、彼女の“攻撃”は驚くほど早く効いた。
数日後、ハックフォード先生が突然姿を消したという知らせが届いたのだ。
「あんたの手紙のおかげで、ハックフォードは中央から呼び出しを食らったらしいわ。このまま風見鶏に戻ってこないといいんだけどね」
アイビー先生は、勝ち誇ったように笑っている。
あのハックフォード先生が、これで終わる人だとは思えない。
それでもこの時の僕は、胸の奥に安堵を覚えていた。
そんな中で――神子研究会の、第二回目の会合の日がやってきた。
「本日はキュービット先生からの要望を受け、聖地についてお話しします」
ハーベストがガラガラと車輪付き黒板を引き寄せ、神政学の講義のように説明を始めた。
「聖地は大陸の中心にあります。アスティリアの首都セルグの、ちょうど真東です。巨大な森林地帯に囲まれており、一般人が立ち入ることはほとんどできません。その奥に“知恵の樹”と呼ばれる大樹があり、その周囲は、天界から降りてきた神々が憩う神聖な場所だと、古くから伝えられてきました」
すでに授業で習った内容なので、皆の反応は薄い。
「しかし旧帝国ザイヴァは、そうした古い神話を排し、自分たちに都合のよい教義で国を支配しました。それが“帝国神教”です。現在のアスティリアでは禁教とされています」
帝国神教に関する書物は禁書、もしくは閲覧注意図書に指定されている。一般人がうっかり内容を知ることすら難しい。それでもハーベストは、その核心に踏み込んでいった。
「帝国神教は、今も旧帝国勢力の間で信じられています。具体的にはトゥリク帝国です。彼らはイーノスのことをよく知らず、神子を“アスティリアが作り出した偶像”だと考える人も多い」
ハーベストは帝国神教を軸に、トゥリク帝国の国民性を語った。それは最近アルヴィル先生が講義で話していた内容とよく似ている。
――帝国神教を信じる者は、神子を信じない。
――彼らの信仰する神は“創造神”という唯一神で、月の上の世界から人間界を見下ろしているだけの存在。
――創造神は帝国神教の信徒を“神の子”とし、地上の統治を皇帝に委ねている。
「帝国神教を信じる者たちは、聖地を神の土地だとは考えません。ただの“錬石資源が豊富な場所”だと見なしています。だから旧帝国時代に聖地は荒らされ、イーノスの怒りを買った。イーノスの故郷を壊したのは旧帝国勢力であり、その残党はいまもトゥリク帝国に潜み、聖地を脅かしているのです」
ハーベストはイーノスの方をちらりと見た。内容に異論がないか、確かめたいのだろう。
イーノスは首を傾げただけで、特に反応を示さなかった。ハーベストは話を続ける。
「独立戦争の後、聖地は不可侵の地と定められました。アスティリア軍が監視し、自然が回復するのを待っていましたが……一向に緑が戻らない。旧帝国勢力が密かに資源の搾取を続けているのではないか、と疑う人もいます」
似た話を、研究報告会で聞いた気がする。トゥリクの過激派がどうこう言っていたのは、たしかアルヴィル先生だった。
「ですが、私たちはそうは考えていません。聖地は確かに広大ですが、アスティリア軍が監視しています。この百年の間に、そこまで大規模な搾取があったとは思えない」
ハーベストは、少し言葉を選ぶようにして続けた。
「残念ながら、聖地はゆっくりと死に向かっています。知恵の樹は……おそらく、元には戻りません」
挙手して割り込んだのはマーガレットだった。彼女は身を乗り出して叫ぶ。
「ちょっと待って。それ、本当なの? イーノスの故郷は、もう元に戻らないっていうの?」
「このままでは難しい、というのが我々の見解です」
「そんな……。わたし、聖地はきっと復活するって信じてた。だからそれまでは風見鶏で待ってもらえばいいって……」
「俺もそう思っていたが、どうやら状況は良くない」
ハーベストは、現在の神政学研究室の公式見解を淡々と述べた。
聖地は不可侵であるがゆえに調査が進まない。
荒廃は深刻で、イーノスが気軽に帰れる状態ではない。
他国はいまだに資源地として狙っているが、そんな悠長なことをしている場合ではない。
平和的に協力して調査を進めなければ、取り返しのつかない事態になる。
「なぜ知恵の樹が枯れつつあるのか。あれは神の樹です。この世界が始まったときから存在すると言われている。その樹が衰えていることに、もっと危機感を持つべきです。イーノスの故郷という問題だけではないんです」
会場は重苦しい空気に包まれた。
けれどイーノスだけは、きょとんと目を丸くしている。まるで「知恵の樹が枯れるのは当然だろう。なぜそんなに騒ぐのか」とでも言いたげに。
――そう見えただけかもしれないけれど。
数日後の金曜日の朝、アルヴィル先生による国際神政学の授業があった。
最近の講義は、もっぱらトゥリクの話題が中心だ。
トゥリク帝国には旧帝国ザイヴァの慣習が色濃く残っており、アスティリアとは大きく異なる思想と文化を持っている――彼はそう説明していた。
「アスティリア連邦とトゥリク帝国の、過去五十年ほどの関係について、レポートをまとめてきてください」
また面倒そうな課題が出されて、授業は終わった。
ぞろぞろと退室する学生たちに続こうとしたとき、背後から名前を呼ばれて、僕は足を止めた。
「フリック・ラーベス殿。少しお時間、よろしいですかな?」
くるりとした口ひげを指でつまみながら、アルヴィル先生がこちらを見ている。
「ええと……少しだけなら……」
すぐに研究室へ行かなければならないので、僕は曖昧に答えた。
「お時間は取りません。ただ、ひとつお願いがありましてな」
「……何でしょうか」
そう尋ねると、彼はやけに嬉しそうな顔で言った。
「この小さな耳に、大きな噂が入りましてね。いま風見鶏で『神子研究会』なるものが開かれているそうではありませんか」
「ああ……まあ……」
学外のゼノさんにまで知られているのだから、アルヴィル先生が知っていても不思議ではない。
彼は警戒の薄い僕を見て、手をすり合わせながら続ける。
「その神子研究会に、私めも参加させていただけないかと思いまして」
「えっ?!」
後ろで話を聞いていたマーガレットが、思わず声を上げた。すぐに口を押さえたものの、僕に向けられた眉間の深いしわがすべてを物語っている。
――うん、わかるよ。
ハーベストをはじめ、神政学研究室の面々はアルヴィル先生を良く思っていない。彼らを説得するのも大変だし、そもそもこの先生に便宜を図る義理もない。
「申し訳ありませんが、あの会の責任者はキュービット先生です。参加については、そちらにお尋ねください」
「ええ? ですが、書類上はともかく、実質的にはあなたが主催者なのでは?」
「いえ。主催者は神政学研究室の学生たちです。僕は、ただの参加者ですよ」
狼狽するアルヴィル先生に軽く頭を下げ、僕はその場を後にした。
自分としては、ごく当然の対応をしたつもりだった。
けれどこの小さな拒絶が、アルヴィル先生の態度を大きく変えることになる。
次の授業から、彼の国際神政学は、明らかに異様な方向へと舵を切っていくのだった。




