第二十五章(1)
アルヴィル先生の次の授業でのことだ。冒頭で、前回のレポート課題の解説がなされた。
「この五十年間、トゥリク帝国と我が国は、ほとんど国交を持っていませんでした。裁きの光によって生じた荒野を境に、完全に交流を断っていたのです。
もっとも、国としての交流はなかったものの、我が国の北隣にあるバルハート公国でバルハート公爵の跡目争いが激化した際には、西軍と東軍をそれぞれ支援する形で、両国は長く争うことになりました」
それは、おそらくゼノさんが活躍した代理戦争の話だ。マーガレットのレポートが非常に詳しくて良かったと先生が述べたので、マーガレットは誇らしげに胸を張っていた。
「アスティリアが支援した西軍が勝利したのち、当時のトゥリク皇帝は退位しました。その後、即位した現皇帝と平和条約を結び、現在に至っています。現在は、年に一度ほどの使節の往来と、わずかな交易があるのみです」
そうした説明を一通り終えると、先生はカツンと杖を鳴らし、生徒たちの視線を集めた。
「このような関係にある以上、トゥリク帝国の真の姿が国内に正しく伝わることはほとんどありません。しかし、我らレイス家は独自のルートを持ち、帝国の最新情報を入手しております」
――本日は、未来のアスティリアを担うあなた方に、極めて重要な情報をお伝えします。
アルヴィル先生はそう宣言し、教卓に両手をついて、切迫した表情で僕たちを見回した。
「この話は、私めの独断で行うものです。場合によっては、命の危険にさらされることになるかもしれません。しかし、私めは、この話をするためにこそ風見鶏に呼ばれたのだと考えています。――これは、使命なのです!」
血走った目。いつも整えられている髪も、今は乱れかけている。教室には、目に見えない緊張が走った。
——どんな話が出てくるんだ?
——聞いてしまった僕たちも、危ない目に遭うんじゃないか?
誰もが息を詰めて見守るなか、先生はついに口を開いた。
「トゥリク帝国には、現皇帝に反する勢力が存在します。彼らは長く沈黙していましたが、近年、突如として不穏な動きを見せ始めました」
先生は一枚の写真と、錬石を取り出す。石をパキリと割ると、写真が宙に浮かび、拡大された映像となって教室に映し出された。
そこに映っていたのは、一人の少女だった。無彩色の映像なので細部はわからないけど、全体的に色の薄い、儚げな容姿をしている。車椅子に座り、ぼんやりとどこかを見つめていた。
「あやつらは、この少女を『真の神子』として祭り上げるという暴挙に出ました。
『真の神子』……明らかに、アスティリアの神子様に対抗する意図です。我らのイーノス様を偽物と呼び、トゥリクこそが大陸統治を託された正統国家であると吹聴して回っている。許されざる冒涜、即刻排除されるべき愚行です!」
真の神子……?
僕は、映像の少女から目を離せなくなっていた。
見覚えがあった。
以前、学長の部屋に呼ばれたとき、机の上の封筒からこぼれ落ちた写真——そこに写っていた少女と同じだ。
僕は思わず両手を握りしめた。前と同じように、激しい震えが起きるのではないかと身構えたからだ。
だが、僕の身体は何も反応しなかった。
そのおかげで、冷静に少女を観察できた。
僕と同じくらいの年齢に見える。十代半ばほど。活発そうには見えず、表情は沈んでいる。車椅子に乗っていることから、脚に何らかの障害があるのだろう。
「私めは、この女を『トゥリクの魔女』と呼んでおります。どのような魔術を使っているのかは不明ですが、帝国民の一部から、熱狂的な支持を集めているのです」
『トゥリクの魔女』。
それは、アルヴィル先生が研究報告会で繰り返し語っていた存在だった。
学長室で見た“あの写真の少女”が、その魔女だとは——。
そう思った瞬間、僕の中で、言葉にできない動揺が広がった。
授業のあと、マーガレットが僕たちの腕を引いて教室の外へ連れ出した。
「ねえ、さっきの話。どう思う?」
「どうって……」
「『真の神子』なんて、どう考えてもおかしいけど……あの女の子、魔女なんて呼ばれるような悪い子には見えなかったわ」
「……そうだね」
映像の中で虚空を見つめていた少女は、あまりにも幸薄そうだった。
自分から国民の前に名乗り出たというより、イーノスと同じように、大人たちに無理やり前へ引き出されたように見えた。
「あの子、すごく気になるの。わたし、ハーベストに話してくる。次の神子研究会の議題にしてもらいましょ!」
そう言い残し、マーガレットは駆け足で去っていった。
その直後、アルヴィル先生が廊下を通り過ぎ、すれ違いざまに軽く会釈してきた。
どこか機嫌が良さそうな足取りだった。
それを見て、僕の胸の奥に嫌な感覚が広がる。
——もしかして、僕たちは彼の思惑にはまったのではないか?
神子研究会で話題にできないから、わざわざ授業で火をつけた……そんな気がしてならなかった。
だけど、マーガレットを止める言葉は見つからなかった。
案の定、次の神子研究会の議題はその話になった。
「先日のアルヴィル先生の講義で、『トゥリクの魔女』についての話が出たそうですね。実はこの件は、すでに半年ほど前から一部の国営党員のあいだで噂になっています」
ハーベストはそう言って、キュービット先生から一枚の写真を受け取り、黒板に貼り付けた。
「皆さんには伏せていましたが、神政学研究室ではすでに議題に上がっていました。ただ……国民感情を刺激しすぎる話でして、扱いに困っていたのです」
「実際、あの授業のあと、みんなすごく動揺してたわ。二年生なんて特に……正直、ちょっと怖かった」
マーガレットの言う通りだった。
あの講義以降、二年生を中心に不穏な空気が広がっていた。イーノス信仰の強い学生たちは、
「イーノス様を侮辱するとは何事だ」
「トゥリクはアスティリアを挑発している」
と、感情的な言葉を口にしていた。
「私たちも、この少女について独自に調査していました。彼女は何者なのか。なぜ『真の神子』などと名乗り、国民を扇動しているのか」
トゥリク帝国は、もともとアスティリアの神子を信じていない国のはずだ。
自国民こそが神の子だという思想を持っていたはずなのに、なぜ今になって“神子”という偶像を作り上げているのか。そこには、何か大きな歪みがある。
「調査によれば、この少女は『裁きの光』によって立ち入り禁止となった区域の土砂の中から発見されたようです」
ハーベストは淡々と語った。
アスティリアとトゥリクの国境付近——いや、正確には“発見”ではなく“発掘”だった。
彼女は土の中に埋もれており、まるで錬石のように掘り出されたという。
「発見時、彼女は手足を欠損していたそうですが、命に別状はありませんでした。その異様な光景を見た人々が、神秘的な存在だと騒ぎ立てたのです」
どこまでが事実かは分かりませんが、と前置きしてから、ハーベストはさらに言葉を重ねた。
「彼女は、何も食べず、一睡もせずに生き続けているとも言われています。欠損した手足は光に当たると発光し、少しずつ再生しているという噂まである」
ハーベストの視線が、イーノスに向いた。
それにつられて、皆の目が静かに彼に集まる。
イーノスだけが、ただ写真を見つめていた。
「イーノス。この少女はお前の仲間なのか」
口火を切ったのはコリウス先生だった。
普段ならここまで集中することのないイーノスが、写真から目を離さずにいる。その様子に、円卓の全員がある答えを予感していた。
「こいつは俺様の仲間だ。エルフルトだ」
やっぱり、という空気が一斉に広がった。
だけど、その中でマーガレットだけが、違う角度から問いを投げる。
「イーノス。エルフルトって……あなたのお姉さまじゃなかった?」
「お姉さん?」
「イーノス様に姉上が?」
「それは大変なことじゃないか! イーノス様の姉上が敵国に囚われているなんて!」
騒然とする円卓を、僕は少し距離を置いて眺めていた。
イーノスの仲間が生きていたこと自体が衝撃なのに、それがエルフルト……彼が最も大切にしていた存在だなんて。
「イーノス様。本当なんですか。このお方が、あなたのお姉さまだというのは」
「うん。俺様の世話を焼いてくれていた仲間だ」
誰もが言葉を失った。
これはもはや、「トゥリクがアスティリアを挑発している」などという次元の話ではない。
国家間の平和条約を守るために、見なかったことにできる問題でもなかった。
二年生の噂話どころか、この円卓そのものが荒れに荒れた。
誰もが口々に言う。
――なんとしても、イーノスのお姉さんを救わなければならない。
その喧騒の中で、ただ一人、イーノスだけが無表情で写真を見つめ続けていた。
それが、ひどく不気味で、ひどく印象に残った。
「なんだか……とんでもない話になってきたわね」
その日の夜、三人で食事をしているとき、マーガレットが沈んだ声で言った。
「とんでもない話?」
ライズが聞き返すと、彼女は今日の出来事を小声でかいつまんで説明した。
食堂のあちこちでも、『トゥリクの魔女』の話題で持ちきりだった。
彼らはまだ、その少女を“神子の偽物”だと思っている。
それが“神子の姉”だと知ったら、この学校はどうなるのだろう。
今以上に混乱すれば、授業どころではなくなるかもしれない。
「そういえばさ、今日の昼間にサファーが寮を回ってたよ。次回からしばらく、国際神政学は休講になるって」
「え? どうして?」
「そりゃ、あの教授だよ。あんな爆弾を落としたんだから、呼び出されて当然でしょ」
「呼び出し? 中央から? また?」
つい先日も、ハックフォード先生が呼び出され、講義が止まったばかりだった。
マーガレットは眉間に深いしわを刻む。
「もう……どうなってるのよ。このままじゃ単位が取れるかも怪しいわ」
彼女と同じように、僕も日常が崩れていく予感に胸騒ぎを覚えていた。
その夜、久しぶりに——奇妙な夢を見た。




