第二十四章(3)
神子研究会の第一回会合は、次の白曜日――五月十五日に開かれた。
参加者は十四人。円卓をぐるりと囲む光景は、なかなかの迫力がある。ライズは来なかったので、僕の隣にはイーノスが座り、反対側の隣にはマーガレットがいる。向かいにはコリウス先生、その左右にレウィシア先生とハーベストが並んでいた。
「皆さま、本日はお集まりいただきありがとうございます。イーノス、騒がしくしてすまない。これからこのメンバーで、週に一度、有益な議論ができればと思っています」
定刻の一時ちょうど、ハーベストの挨拶で会合が始まった。
「この会は、神政学研究室の研究活動の一環です。私たちが集めた情報を皆さまに提供し、イーノスと我が国のより良い関係について議論していきます」
もしこの場で何かが決議されれば、しかるべき機関へ提案書として提出される。ただの雑談ではなく、神子のために実際に前へ進む場にしたい――ハーベストはそう抱負を述べた。
「まずは、イーノスの前で改めて、彼が置かれている状況と、これまでの経緯を整理しましょう」
そう言って、ハーベストはガラガラと車輪のついた黒板を引き寄せ、チョークで丁寧に文字を書き始めた。
神子がアスティリアの歴史に現れたのは、百年前の独立戦争の時である。帝国の圧政に苦しんでいた地方貴族たちを率い、独立と聖地奪還のために戦いを起こした。
傍若無人な帝国軍に激怒した神子は、当時の最前線だったスフォルド州東端、スヴァンブール市に『裁きの光』を下した。
それをきっかけに帝国はあっさり降伏し、アスティリアは大陸西部を治める国――「アスティリア連邦」となった。
「神子は建国を見届けたあと、統治を首都セルグの双帥に任せて眠りについたとされています。長い年月のうちに、当時を知る者も資料も失われ、神子がどこへ消えたのかを気にする人はいなくなりました」
神子は天上の神々の世界へ帰ったのだ、という考えや、そもそも神子など昔の人間が作り出した偶像にすぎないのでは、という認識が一般化していった。
そうなった理由は単純だ。
アスティリアにとって本当に必要だったのは神子そのものではなく、「神子から正式に統治を委託された」という物語だったからである。
「恥ずかしい話ですが、私がイーノスがこの部屋で眠っていたことを知ったのは、去年のことでした。この国で、彼の実在を知っていたのは、ごく一部の人間だけだったのです」
ハーベストは円卓を一巡するように視線を巡らせた。ここまでの説明に、異論は出なかった。
僕たちより前からイーノスの存在を知っていた先生方も、神妙な面持ちで沈黙している。
それを確認してから、ハーベストは再び黒板に書き込んだ。
「私たちがイーノスに辿り着いたきっかけが、『風見鶏の七不思議』です。その中の一つに『神の子の棺』があります」
ハーベストは部屋の隅にある石棺を指さし、あれのことです、と付け加えた。
「七不思議は風見鶏に古くから伝わっていました。つまり、過去にも何人かがイーノスの存在に辿り着いていたはずです。私たちの学年では、最初にこの棺に到達したのはフリックでした」
視線が一斉にこちらへ向いたので、僕は小さく会釈した。
「しかし、フリックよりも前に、ロイド・ラビオリという学生がイーノスの実在を確信していました。彼は誰かからあらかじめ『神の子の棺』の情報を得ていたと考えられます」
不敬罪で命を落とした生徒の名が出たことで、場内の空気が一瞬、張りつめた。
あれ以来犠牲者は出ていないが、イーノスに関わることの危険性を、全員が改めて思い出したようだった。
ハーベストは真面目な表情のまま続けた。
「風見鶏に神子が眠っているという情報は、公式には秘匿されていましたが、ひそかに国内へ流れていました。つまり、“知る人ぞ知る”類の情報だったわけです。
おそらく、その中には皆さんの親族の一部も含まれます。風見鶏の教授クラスであれば、ほとんどが知っていた可能性が高いでしょう」
彼はキュービット先生、コリウス先生、レウィシア先生へと順に視線を送る。三人は否定もせず、静かに頷いた。
「なぜその人たちが事実をひた隠しにしてきたのか、私にはまだわかりませんが……」
ハーベストはひとつ深呼吸をしてから、円卓を見渡し、鋭い眼差しで言葉を続けた。
「私が一番不可解に思うのは、どうしてイーノスを風見鶏に放置し続けているのか、という点です。
なぜ、こんな狭く埃の溜まる場所に、冷たく固い棺に入れたまま、百年も――」
学生たちは熱心に頷いていた。彼らにとって、偉大な神子が眠る場所といえば、古の王城や大聖堂の奥といった、荘厳な場所を思い浮かべているのだろう。
一方、先生方は神妙な表情で沈黙し、ハーベストの言葉を受け止めている。
「『風見鶏の七不思議』を完全には取り締まらなかったことから推測すると、先生方は、学生が“神の子の棺”を見つけてしまっても問題ないと考えていた……いや、むしろ見つけてほしかったのではないでしょうか。
国の中枢が何もしない、あるいは意図的に何もさせない状況を、ここにいる先生方はどうにか変えたかった――そうではありませんか?」
その問いかけに、先生方はようやくはっきりとした反応を示した。
キュービット先生とレウィシア先生が小さく頷くのを見て、コリウス先生が代表するように口を開く。
「概ねその通りだ。私はイーノスがここに不当に閉じ込められていると思っているし、何とかしたいとも思っている。キュービット先生もレウィシアも同じだ。他の多くの先生もそうだろう」
きっぱりと言い切ったあと、コリウス先生は顎に手を当て、少し言葉を濁した。
「ただ……先人たちが、どうしようもなくて彼をここに残した気持ちも、わからなくはない。私は、お前たちより少しだけ多くの情報を持っている」
「と、言いますと……?」
首を傾げる学生たちに向けて、コリウス先生は静かに告げた。
「イーノスは、“自らの意思で”ここに留まっている。たとえどこかへ移そうとしても、彼はおそらく、ここへ戻ってきてしまうだろう」
「それは、なぜですか?」
ニースの問いに、コリウス先生は一度レウィシア先生の表情を窺ってから答えた。
「それを説明するには、まず、イーノスが“なぜここへ連れてこられたのか”を明らかにしなければならない」
コリウス先生は黒板の前に立っていたハーベストに席へ戻るよう合図し、学生たちを見回して問いかける。
「お前たちは、イーノスと接してみてどう感じた? 国を救った英雄、独立戦争を率いた勇者のように思えたか?」
「それは……」
神政学研究室の四年生たちは、戸惑ったように顔を見合わせた。
ハーベストとニースも一瞬視線を交わし、やがてニースが口を開く。
「私は最初、イーノス様を歴史書どおりの英雄だと思おうとしていました。でも、しばらく接するうちに……そのような考え方をなさる方ではない、と感じるようになりました」
「私も」「僕も」と同意の声が上がり、それをまとめるようにニースが続ける。
「イーノス様は、ご自分の意思で私たちのもとへ降りてきたのでしょうか。それとも……ご先祖さまたちが、無理やり連れてきたのでしょうか?」
神子を無理やり連れてくるなど不可能ではないか。
裁きの光で消し飛ばされなかったのか。それが事実なら、アスティリアの建国自体が許されるはずがない――。
四年生たちが口々に反論を始める。
コリウス先生はしばらく議論を黙って聞いたあと、ゆっくりとイーノスに視線を向けた。
「イーノス。お前はこの場所に、どうやって来た? なぜ、ここに留まっている?」
あまりにも直球な問いに、場の空気が一瞬凍りついた。
ここに本人がいるのだから本人に聞くのが一番だというのは正論だが、もし取り返しのつかない事実が語られたらどうするのか、誰もが身構えてしまう。
そんな周囲の緊張をよそに、イーノスは目の前に積まれたクッキーの山へ手を伸ばし、何気ない口調で答えた。
「気づいたら、ここにいた。ここには仲間のにおいがするから、ここにいる」
「…………」
イーノスは確か、「大人たちに袋に詰められて連れてこられた」と言っていたはずだ。
それをあえて語らないのなら、今は僕も黙っておこう。
皆の関心は“仲間のにおい”という言葉に一気に集まり、仲間とは何か、においとは何かという議論が始まった。
僕は思わずコリウス先生を見た。まさか『腐らない腕』の話まで、この場で持ち出すつもりなのだろうか。
しかしコリウス先生は僕ではなくレウィシア先生の表情をうかがっており、彼女は強く首を横に振っていた。
――今はまだ、その段階ではないということか。
「イーノス様。その“仲間のにおい”とは、どのようなにおいなのですか?」
おずおずと四年生の一人が尋ねると、イーノスは隣に座っていた僕の手を取り、くんくんと嗅いでみせた。
「……こういうにおいだ」
「?!」
円卓に座る全員の視線が、僕の左手に突き刺さる。
「手のにおいってこと? わたしの手からは、同じにおいはしない?」
マーガレットの問いに、イーノスは首を横に振った。
「しない。フリックからしかしない」
「なるほど!」
ハーベストが手を打って声を上げる。
「だからフリックの名前しか覚えなかったんだな! フリックは“仲間”と認識されていたからだ!」
――――!
その瞬間、僕の脳裏に、イーノスと初めて出会ったときの光景がよみがえった。
『お前は誰だ。仲間と同じにおいがする』
確かに、あの時も彼はそれを真っ先に口にしていた。
イーノスが僕に興味を持ったのは、僕が“仲間のにおい”を持っていたからなのだ。
僕は左腕の奥がうずくのを感じ、思わずそこをぎゅっと握った。
肘の少し上にある、縫い目のような薄い傷跡――
僕がずっと隠し続けてきた場所が、痛痒く自己主張をしてくる。
「じゃあ、その“におい”の原因がわかれば、わたしも名前を覚えてもらえるの?」
マーガレットの声は弾んでいた。
どんな香りなのか、香水にできないのか、などと話題は無邪気に盛り上がっていく。
けれど僕は、気分が悪くなって俯いたままだった。
コリウス先生とレウィシア先生が、こちらを見つめながら険しい表情をしているのが、気になって仕方がなかった。




