第二十二章(3)
教授室へ入っていくアイザックさんを見届けたあと、僕はその扉脇の壁に寄りかかり、そっと耳を澄ませた。
「お父様!? どうして、こんなところまで入ってきたの」
「親切な学生さんが案内してくれてな……いや、それよりもアイビー! とんでもないことになっているらしいじゃないか!」
「ちょっと、お父様。恥ずかしいから大声を出さないでちょうだい」
耳を澄ませるまでもなく、充分に聞き取れる声量だった。
どうやら中にはアイビー先生以外にも人がいたらしく、「私たちは失礼します」という声とともに、こちらへ向かう足音が近づいてくる。
ガチャリ、と扉が開き、サリー先生とヘンケル先生が姿を現した。
二人は僕と目が合って一瞬驚いたような顔をしたあと、何も言わず静かに自分たちの机のある部屋へ戻っていった。
彼らの背中を見送ってから、僕は再び耳を澄ます。
声量が抑えられたぶん、先ほどより聞き取りづらくなったけど、それでも会話の断片は何とか拾えた。
「例の、あの研究書は……お前が管理していたよな? 今はどこにあるんだ?」
「例のあの研究書? 何のことよ」
「とぼけるんじゃない! 先祖がこっそり風見鶏に残していた、あれだよ。私は燃やそうと言ったのに、父が大反対してお前に処理を任せた、あれだ!」
「ああ……あれね」
“あれ”とは、間違いなく『大帝国の禁書』のことだろう。
アイビー先生は、禁書が盗まれた件を実家には伝えていなかったのだろうか。そんな疑問が頭をよぎる。
「どうして、お父様がそれを気にするのよ。あれはアタシに任せるって、親族会議で決まったでしょう」
「さっきの研究発表会でな、他の研究室が似たような研究をしているって話題になっていたんだ!」
「なんですって!?」
鋭い声が響き、思わず僕は肩を跳ねさせた。
同時に、ほっとした気持ちも湧き上がる。僕が報告する前に、アイザックさんが伝えてくれたのだから。正直、ひとりで彼女の怒りを受け止めるのは荷が重いと思っていた。
「双帥のクロム様が後援者だ、なんて噂もある。一体どうなっているんだ? お前が何か関わっているのか?」
「そんなわけないでしょ。そんな馬鹿なこと、するはずないじゃない」
父親相手だからか、さすがに激昂はしていない。
アイビー先生は、思ったよりも冷静に彼の話を聞いているようだった。
「ハックフォード教授というのは、オッペンハイム卿のご子息だそうだな。オッペンハイム家は……うちと同じ、元ラチェット派の家系だろう」
「そうよ。あの家は、当時バルマーの助手をしていたわ」
「どうしてオッペンハイムが、あの研究に手を出しているんだ。クロム様に詳細が露見したら、ただでは済まないぞ。あの方は重度の神子信奉者なんだから……」
「ああ、もう……知らないわよ。最近の元ラチェット派の動きはおかしいのよ。年始の会議でも言ったでしょう? お父様のほうこそ、何か掴んでいるべきなんじゃないの?」
アイビー先生の口調は、次第に荒れていく。
二人はしばらく、よくわからない話を続けながら、苛立ちをぶつけ合っていた。
その様子を扉のそばで聞いていると、不意に隣の部屋の扉が開いた。
サリー先生が、じっとこちらを見ている。
僕が首を傾げると、彼女は困ったように苦笑して、小声で囁いた。
「フリックくん。あんまり長くそこにいたら、アイビー先生に怒られてしまうわよ」
「どうしてですか? 僕、アイビー先生に用事があって、待っているだけなんです」
「話が終わったら、私が呼びに行ってあげるから……」
そう言って、部屋に戻るよう身振りで促してくる。
けれど僕は、にこりと笑って無視を決め込んだ。
誰がこの場所を譲るものか。盗み聞きするのは僕だ。
サリー先生にだけは、譲れない。
僕は彼女をハックフォード先生のスパイだと疑っている。だからこそ、断固としてここを動かなかった。
彼女はしばらく悔しそうにこちらを睨んでいたが、やがて諦めたように部屋へ戻っていった。
「ラビオリ家にも、スカーレット家にも……何も聞いていないの? 当主がお父様に代わってから、ずいぶん疎遠になったのね」
「そんなことはない! つい先月も話をしたばかりで――」
「お父様、舐められているのよ。お祖父様のときは、こんなことなかったわ。とにかく、元ラチェット派の貴族をまとめるのはお父様の仕事でしょう。ちゃんとしてよ!」
その言葉で、どうやら話は一区切りついたらしい。
ほどなくして、がっくりと肩を落としたアイザックさんが部屋から出てきた。
まるで亡霊のような足取りで、彼は階段を下りていく。
僕が連れてきたことは、すでにバレていたらしい。
彼が去った直後、カツカツと靴音が近づき、バン、と勢いよく扉が開いた。
現れたアイビー先生と、僕はあっさり目が合ってしまう。
「あんたねぇ……お父様を連れてきたうえに、盗み聞きなんて。どういうつもり?」
「えっ、いや、その……盗み聞きなんて、そんな……」
「まあ、いいわ。アタシに報告があるんでしょう。入んなさい」
どこか覇気のない彼女の背中を追い、僕は教授室に入る。
いつもなら教授用の大きな書斎机から訪問者を見下ろす彼女が、今日は珍しく応接用の長机に腰掛け、向かいのソファーを指し示した。
「で、どうだったの。ハックフォードは何の発表をしたの」
「えっと、その……。なんだかビックリするような内容で……」
アイザックさんの報告と被る部分もあったけど、僕は一通り全ての内容を述べた。
光る木の芽。クラフティクラフトの精製と錬成。十字連晶の魔法。聖地再生の可能性について。
「聖地再生?」
「はい。これは神子のための研究で、失われた聖地の恵みを復活させることができると主張していました」
「なるほど。そういう理屈でクロム・フェルトラを丸め込んだのね……」
アイビー先生は腕を組み、ひどく顔をしかめている。僕は彼女の怒りを買わないように、恐る恐る口を開く。
「どうしてアイビー先生はこの研究を封印していたんですか。聖地が再生できたら、アスティリアにとってプラスなんじゃないんですか? イーノスの故郷が元に戻せるなら、後ろめたい過去を清算できるわけだし……」
キッと僕を睨む先生。余計なことを言ってしまったと後悔したのだけど、彼女はすぐにため息をつき、呆れたような表情でゆっくりと背もたれに背を預けた。
「そうね。これ以上あんたに黙っているのは不利益になりそうだから、そろそろ話しておこうかしら」
一体何を? 首を傾げる僕を見て、彼女は再びため息をつく。
「単純なあんたが悪い奴らに騙されてしまわないように、正しいことを教えておかないと」
「正しいこと?」
頷くアイビー先生。彼女はとても疲れた表情をしていた。伏し目がちな視線が彼女らしくなく、これから始まる話が彼女にとって不本意な内容なのがありありと見てとれた。
「……ハックフォードが手を出している研究、あれは神子のための研究じゃない。神を冒涜する研究よ」
「神を冒涜する研究……?」
ギリと歯を鳴らす先生。憎々しげに床を睨み付ける彼女は、誰かのことを思い出しているようだった。
「あれを神子の前で再開するなんて、絶対に避けなければならないのに。あの子がアタシたちを許すわけがないんだから……」
それからアイビー先生は、淡々と語った。
ハックフォード先生が盗んだ『大帝国の禁書』。あれに記載してあった、研究の詳細について。
「バルマー・ブレガーはね、聖地に住んでいた不思議な子供たちの研究をしていたの。それは、不老で、錬石しか口にしない――奇妙な存在だったわ……。バルマーは彼らを『錬石人形』と呼んでいたの」
「錬石……人形?」
先生は静かに頷いた。そして、世にもおぞましい話を続ける。
バルマー・ブレガーは、人間のように動くその錬石に強い興味を抱き、彼らの身体を切り刻んで組成を調べた。
その結果、常識では考えられないほど、元素クラフトの割合が高いことを突き止めたという。
そしてバルマーは考えた。――彼らの身体を溶かし、精製すれば、『クラフティクラフト』を錬成できるのではないか、と。
「クラフトの割合が高い体……」
どこかで聞いたことのある言葉だった。
――私は独自のルートで、クラフトを大量に含む鉱石を入手しました。
脳裏に、先ほど聞いたハックフォード先生の講演が蘇る。
まさか。
ハックフォード先生が言っていた『クラフトを大量に含む鉱石』とは……。
「風見鶏には、昔バルマーがバラバラにした神子の仲間――錬石人形の“パーツ”が、今も保管されているの。あれを使えば、バルマーが行った実験を再現できてしまうわ」
吐き気がこみ上げた。
ハックフォード先生は、自室に『腐らない腕』を持ち込んでいた。
あれは……この実験に使うつもりだったのか。
思わず歪んだ僕の表情を見て、アイビー先生もまた顔色を悪くし、低い声で囁いた。
「……わかったでしょう? この研究は神への冒涜なのよ。神子の仲間を壊した研究を、もう一度始めて……それで神子を救おうだなんて。おかしいと思わない?」
「はい……」
「神子は知っているわ。人間が、こんな冒涜的な研究をしていたことを。そして百年前――怒りのままに『裁きの光』を落とし、研究所を焼き尽くしたのよ」
裁きの光。
かつて独立戦争の最前線、マクシネル市スヴァンブール市周辺に落とされたとされる、神の怒り。
「……裁きの光は、旧帝国の政府軍に向けられたものじゃないんですか」
教科書には、そう書かれていた。
強制収容所の存在自体が“閲覧注意情報”として伏せられているからだ。
地下室の本を読んでいた僕は、真相についてある程度の予測はしていたけれど……。
アイビー先生は首を横に振り、さらに青ざめた顔で言った。
「違うわ。あれは、バルマー・ブレガーをはじめとする――錬石人形を研究していた人間たちに向けられたものよ」
そして先生は、独立戦争の真の結末を語り始めた。
錬石人形の最先端研究を行っていたマクシネル研究所。
そこは当時、スフォルド州周辺を治めていたラチェット公爵派によって管理されていた。
研究員のほとんどは裁きの光に巻き込まれ、消滅した。
だけど、研究所にいなかったラチェット派の者たちは生き残り、戦争犯罪者として戦勝貴族たちから裁かれた。
「バルマーは、錬石人形研究の中心人物よ。本来なら、ブレガー家一族すべてが裁かれるはずだった。でも……許されたの」
「……どうして?」
「ラチェット家を“すべての罪の象徴”として差し出す代わりに、ラチェット以外の家は見逃されたのよ」
ブレガー家をはじめとする研究者一族は、錬石技術を握っていた。
彼らを処刑すれば、国の錬石技術は大きく後退する。
だから戦勝貴族たちは取引をした。
――命は助ける。その代わり、生涯をかけて国に有益な研究を続けろ、と。
けれど、首輪をつけられた人生をいつまでも受け入れられる者ばかりではない。
ブレガー家や元ラチェット派の貴族たちは、政治工作を重ね、自らの罪の歴史を消し去っていった。
有力貴族に取り入り、過去の資料を焼き払い、錬石研究を独占し……。
そうして彼らは、ようやく“安定した地位”を取り戻したのだ。
「……アタシたちはね。ただ、自分たちの生活を守りたいだけなのよ」
アイビー先生は、唇を噛みしめる。
「ここまで地位を回復させるのに、どれだけの努力をしたと思ってる? お祖父様たちの尽力を、無駄にしちゃいけないのよ」
――それは、ハックフォードも同じはずなのに。
アイビー先生は爪を噛み、憎々しげに言い放った。
「とにかく、あの研究は止めさせなきゃいけない。オッペンハイム家が何を企んでいるのか、はっきりさせるわ」
そして、僕を鋭く指差す。
「あんたは引き続き、ハックフォードと神子の監視を続けなさい」
その命令を最後に、僕は部屋から追い出された。




