第二十章(4)
他の人と、混ざる?
僕が、消えてしまう?
その警告は、これまで考えたことのない種類のもので、僕は次第に混乱していった。
僕の頭の中に、僕ではない誰かがいるような感覚は、確かに以前からあった。
テストの最中、誰かが僕の代わりに答案を埋めてくれているような感覚も、前からあった。
だけど僕は、それを大して気にしてこなかった。
それは気まぐれな僕の性質で、個性で、まさか自分に害を及ぼすものだなんて、思いもしなかった。
背中に張り付いた影を見たときも、そいつの声を聞いたときも、気にしなければいいと思った。
見ないようにしていれば、僕が乗っ取られるようなことはない――そう信じていた。
……それは、僕の認識が甘かっただけなのだろうか。
僕は、変な夢をよく見ていた。
もしかしたら、その中に『誰かの記憶』が混ざっていたのだろうか。
マーガレットと廃墟の世界を彷徨う夢。
ライズがリーダーとして皆を仕切っている夢。
腕をノコギリで切断される夢。
ライズが苦しんでいる夢。
ディクティスに顔をなめられる夢。
カサカサとうるさい場所で、ただ震えている夢。
父さんの地下室のベッドで横になっている夢。
これらの夢は、どこまでが僕の記憶で、どこまでがただの妄想で、どこからが『混ざった記憶』なのだろう。
僕は、自分のノートと返却されたテストを並べ、ぼんやりと眺めた。
二つの筆跡は、まるで別人のものだった。
僕が「自分の字だ」と断言できるのはノートのほうだけだ。
ライズの言っていたことは、正しかった。
僕はそこに、もう一枚の紙を添えた。
汽車でうたた寝をしたとき、いつも僕の周囲に転がっている、くしゃくしゃの紙切れ。
今までは、他の乗客の落とし物だと決めつけて捨てていた。
けれど今回は、どうしても捨てられなかった。
どうやらこの文字は、僕が書きなぐったものらしいからだ。
――『復讐を忘れるな』
一体、何のことだろう。
僕は、何か大切なことを忘れているのだろうか。
あまりにも乱れた筆跡は、ノートの字とも、テストの答案の字とも一致しない。
ただ、直感的に思った。
――これは、僕じゃない誰かが書いたものだ。
夕食の時間になり、ライズと共に食堂へ向かうと、薬の入った袋を渡された。
「ノギスから預かってきたんだ。病気を治したいなら、ちゃんと飲むんだよ?」
「ありがとう」
笑顔で受け取ったけれど、昼間とは違い、心の中はまったく落ち着いていなかった。
僕は、一体いつ、何と混ざってしまったのだろう。
僕の記憶と人格のどこまでがフリック・ラーベスで、どこからが別の人間なのだろうか。
「あまり気に病むな。きみはただの、風見鶏の学生のフリック・ラーベスなんだから」
「……そうだね」
ライズはそう励ましてくれたけれど、冷静に考えてみれば、そもそも風見鶏に入れたこと自体、僕の実力ではない。
父さんが学長に推薦状を送ってくれたあと、行われたはずの筆記試験と面接――その詳細を、僕はまったく覚えていないのだ。
つまり僕は、『混ざった誰か』の実力によって、この学園に入れた場違いな存在なのだ。
なぜ『混ざった誰か』は、僕の内側に潜み、たまにしか表に出てこないのか。
なぜ僕は、風見鶏の学生として、ここに座らされているのだろう。
ライズと別れて部屋に戻り、冷え切った部屋のベッドに潜り込んで、ぼんやりと天井を眺めていると――。
コツコツ、と窓を叩く音がした。
「わあっ!」
驚いて見ると、ガラスに頬を押しつけ、こちらを覗き込んでいるイーノスがいた。
思わず毛布を頭から被り、ベッドを下りて窓を開けてやると、彼は体をねじ込むようにして部屋へ入り、嬉しそうな声をあげた。
「フリック! おかえり! 早かったな!」
「ただいま、イーノス。元気にしていたかい?」
「おう。絶好調だ。近頃はとても楽しい」
「そうなの? 何をして過ごしていたの?」
問いかけると、彼は首を傾げた。
「……何をするのが、楽しかった?」
もう一度聞いても答えは返ってこなかった。
どうやら彼は、細かいことを覚えていないらしい。
「とにかく、楽しかったなら良かったよ」
そう言うと、彼は嬉しそうに八重歯を見せた。
それから彼を部屋へ引き上げ、僕たちはしばらく話をした。
「毎日、雪下ろしをしていたの?」
「そうだ。お前の仲間たちと一緒に、頑張ったぞ」
「夜はどうしていたの?」
「夜も仕事をしているやつがいるから、手伝ってやった」
「どんな仕事?」
「火を見て回ったり、食べ物を切ったり、捏ねたり」
「それは……火番の巡回とか、料理人の仕込みかな」
「そういう名前なのか」
「そういう名前のお仕事だよ」
風見鶏で働いている人たちの中には、こうした雑務を担当する使用人が大勢いる。
僕たち学生が接するのは、先生や助手、司書くらいなものだけれど、イーノスにはそういった制限がまったくないらしい。
以前は、学生だけで彼の暇つぶしに付き合うのが大変だった。
今は、もっと多くの人たちが彼の相手をしてくれている。
ありがたいことだと思う反面、胸の奥に小さな寂しさも湧き上がった。
うまく話を誘導してやると、具体的なことを少しずつ思い出せるらしく、僕は彼の「楽しかったこと」を丁寧に聞き出していった。
使用人たちとの仲を取り持ってくれたのは、コリウス先生だったらしい。
そのおかげで、イーノスにはたくさんの知り合いができたようだ。
使用人の中には、僕たちと同じくらいの年代の子どもも多く、彼らと一緒に雪遊びをすることが多かったという。
「道の脇に並んでいる雪像は、君が作ったの?」
「ああ。みんなで作った」
「どれが君の作品か、知りたいな」
「じゃあ、今から見に行こう!」
イーノスはそう言って僕の手を引き、窓のほうへ向かおうとした。
僕は慌てて、ドアを指差す。
「窓から出ちゃ駄目だよ! また地面が陥没しちゃう!
ちゃんと階段を使って下りよう」
「……階段?」
「僕たちが使う出入り口があるんだ。面倒かもしれないけど、できればそっちを使ってね」
去年、僕を抱えたままイーノスが三階から飛び降りた跡は、しばらくの間、地面に謎の斑点模様を描き、学生たちの話題になっていた。
ロイドさんが異形になって亡くなった場所にも、同じ模様が残っていたけれど、それも時間が経つと消えてしまった。
――そういえば、あの模様。
僕の胸にあるアザと、どこか似ている気がする。
コリウス先生によれば、七不思議の七つ目――“謎の斑点”らしい。
けれど、あれが何なのかは、未だにわかっていない。
時計塔の針は、夜の十時を指していた。
外は真っ暗だったが、月明かりが雪に反射していて、雪像を見て回るには十分な明るさがあった。
「イーノス、寒くないの?」
コートの襟元を寄せ、震えながら僕は尋ねる。
イーノスは夏でも冬でも、棺に入っていたときと同じ服装で、靴も履いていない。
「寒い? 今は寒いのか」
「寒いよ。足、冷たくないの?」
「冷たいが……雪はこんなものだろう」
「そっか。君はこのくらいの気温なら平気なんだね」
イーノスの常識が、僕たちとは違うことはもうわかっている。
だから、今さら驚くこともなかった。
「これは熊かな」
「クマ?」
「熊っていう、大きな動物だよ」
「こっちは?」
「それは学長かな。ペットの犬まで作ってるんだね」
ひとつひとつ雪像を確かめながら、僕たちはゆっくりと道をたどっていった。
「これは女の子かなあ。よくわからないけど」
僕は、頭に長い葉っぱをカツラのように被せられた雪だるまを見て、そう呟いた。
「これはエルフルトだ。俺様が作った」
「あっ、そうなんだ」
あまりの稚拙さに、つい適当なコメントをしてしまったのだけど、イーノスは特に気にせず、むしろ自信満々に胸を張っている。
「可愛いね」
「そうだろう? そっくりだ!」
「そっくりかはわからないけど……」
そう言いながら、僕はじっくりと雪像を観察した。
少し脱色したような淡い緑色の葉っぱのカツラと、青みがかった灰色の丸い石がふたつ、目の位置にねじ込まれているのが印象的だった。
こだわりの部分は、この二点だろうか。
それ以外はただの雪だるまなのだから、きっとそうなのだろう。
「エルフルトさんって、君のお姉さんだっけ? 髪の毛は黒くないのかな」
「エルフルトの髪は、こういう色だ。目はもう少し、明るい空の色だけど」
「そうなんだ。君と同じ赤い目じゃないんだ」
「俺様の仲間は、色んな目の色や髪の色をしている。お前たちよりも、だいぶ賑やかだ」
「ふーん……」
僕は生返事をしながら、ぼんやりと考えていた。
僕は何かと混じって、赤い目に変わってしまったようだけど――
一体、何と混じったのだろう。
そういえば、夢で見た父さんも赤い目をしていた。
元は、僕と同じ緑色をしていなかったっけ?
…………。
「なあ、フリック!」
「なあに? イーノス」
急に話しかけられて、僕はぎょっとした。
声が上ずってしまったけれど、イーノスはまったく気にしていない様子で、上目遣いに僕を見ている。
「今から、あれをしよう! 黒と白のやつ」
「えっと……モノクロのことかな?」
「うん。たぶんそれ」
冬の間は、ボードゲームに付き合ってくれる人はいなかったのかもしれない。
彼は目を輝かせて僕を見つめ、急かすように袖をぐいぐいと引っ張った。
「ええと、その……イーノス」
僕は眉をひそめ、思案する。
時計は十一時に近づいている。
こんな寒い中、講堂の上に行って、夜が明けるまでボードゲームに付き合う?
……それはいけない。
一発で体がおかしくなってしまいそうだ。
「ごめんね、イーノス。僕は、暖かいところで眠らないと駄目な体なんだ。君と夜通し遊ぶことはできない」
イーノスは、きょとんと目を丸くした。
まるで、その事実を忘れていたかのような表情だった。
「僕はさ、君と友達になりたい。でも、君の仲間みたいには一緒にいられない。申し訳ないんだけど……明るい時じゃ、駄目かな?」
「…………」
イーノスは僕から手を離し、無表情のままこちらを向く。
まずい、と思って、僕は慌てて口を開いた。
「僕は、いつまでも君の友達だ。君にとって暮らしやすい世界を作りたいと思っている……みんなと一緒に。でも、それはすごく時間がかかることなんだ。
だからさ、健康に気を遣わないといけない。僕たちは、君と違って弱い存在だから」
わかってくれるだろうか……。
僕は、恐る恐る彼を見上げた。
けれど、僕の必死さとは裏腹に、イーノスは無表情を崩さない。
彼は興味を失ったように背を向け、一言だけ、
「わかった」
と短く応えた。
「あの、イーノス。時間がかかると言っても、君にとっては短い時間で……」
「全然急いでいない。いつまでも待っている。俺様が行ってもいい方向を、教えてくれ」
僕の言葉に被せるように、そう言い放つと、彼はあっという間に夜道を駆け去ってしまった。
それは本当に一瞬の出来事で、弁解の言葉を口にする暇すら与えてくれないほどだった。
「イーノス……ごめんよ」
僕はがっくりと肩を落とし、彼の去っていった方向を見つめながら、ぽつりと謝った。
どうして、こうも上手くいかないのだろう。
僕はただ、自分の人生を納得できるように生きたいだけなのに。
ため息をつきながら、とぼとぼと部屋に戻る。
帰る途中で汲んでおいたグラス一杯の水と、ライズから渡された白い丸薬を一粒手に取って、ぐい、と一気に飲み下した。
薬の効果は絶大だった。
強烈な眠気に襲われ、僕はベッドに倒れ込む。
夢を見ることもなく、そのまま朝を迎えた。




