第二十章(3)
「うーんと、ええとね」
サファー先生は唸るように声を漏らし、何度か言葉を選ぶ仕草を見せたあと、ようやく口を開いた。
「学長先生がきみに期待していることは、言葉でうまく表せないんだよ。少なくとも、わたしたちの言うとおりに動くんじゃなくて、きみ自身がたくさん考えた末に出した結論で、学長先生をびっくりさせるような成果をあげてほしい、というか……」
「私は、イーノスをどうにかしてあげてほしいですけどね」
「それはキューくんの期待でしょう。学長先生の考えは、ちょっと違う気がするなぁ」
どうやら彼らにとっては興味深い話題だったらしい。僕を置き去りにしたまま、二人はしばらく熱心に話し続ける。
「イーノスは、あまりにも可哀想ですよ。このまま放置するなんて、とんでもない。私は学長のことを尊敬していますが、このやり方には賛同できません」
「キューくんはいつもそうだよねぇ。優しいんだよねぇ。もちろん、わたしだって早く何とかしてほしいとは思っているよ?」
「コリウスの顛末から、また十年も放置してどうするのかと思っていたら、急にフリックさんを連れてきて驚きました。今回はなかなか本気ですよね。コリウスやハックフォードも呼び戻しましたし、本気度が窺えます」
「そういえば、メイ先生の後任の先生が挨拶に来たけど、ずいぶん面白い先生だよね。あの人も学長の推薦でしょう?」
「ああ、あの人……。過激派ですよね。私は苦手です。イーノスがショックを受けなければいいんですが……」
メイ先生の名前が出て、僕はびくりとした。そういえば、メイ先生は昨年退官してしまい、今年からは新しい先生が為政学の授業を受け持つと聞いていた。
彼らはしばらく新任の先生について議論したあと、思い出したように僕のほうを向く。
「とにかく、フリックくん。きみは、きみが思うように頑張ればいいんだよ! 誰かの期待に応えようとするのは悪いことじゃないけど、わたしたちは、きみの自由な発想を楽しみにしているんだから」
「……ええと、その……頑張ります……」
僕は、その言葉をどういう気持ちで受け取ればいいのかわからなかった。
期待はしている。でも、期待に応えようとするなと言う。その言い草は、どこか勝手に思えた。
もし僕が、勉強するのをやめて、イーノスのことも忘れて遊び呆けることこそが自分の望みだと言い出したら、先生たちはどうするのだろう。きっと、がっかりするに違いない。
僕が駄目になったら、次の「期待株」を学校に入学させて、僕への興味を失うのだろうか。
きっと、そうなのだ。
彼らが本当に興味を持っているのは、僕ではない。彼らはイーノスのことですら、笑いながら軽々しく論じている。少なくともこの二人は、いま学内で起きていることに、心を大きく揺さぶられてはいない。
コリウス先生やアイビー先生とは、決定的に異なる温度差を、僕は彼らに感じていた。
それにしても、ライズとノギスさんが、彼らの会話に一切相づちを打たないのはなぜだろう。サファー先生とキュービット先生が異様に仲が良いことはわかったけれど、「古い仲間」と言うわりには、ライズとノギスさんは二人と距離を置いているように見えた。
本当に、この四人は馬が合っているのだろうか。
ライズは、なぜこの集まりに僕を連れてきたのだろう。なぜ無言のまま、僕たちを観察するようにしているのだろう。
そんな不安が胸に芽生え始めたとき、突然ライズが席を立った。
「やっぱりつまらないから帰るよ。フリック、帰ろう」
「え? あ、うん」
ライズは呆気に取られる先生たちを気にも留めず、さっさと入口へ向かって歩き出した。
「そうだ。ノギスはあとで、ぼくの部屋に来てよ。頼みたいことがあるからさ」
「はい。わかりました。伺います」
ライズはノギスさんにだけそう告げて部屋を出ていく。僕は先生たちに礼を言って軽く頭を下げると、サファー先生は相変わらずにこにこしながら手を振ってくれた。
「今年も一年、よろしくね! フリックくん。今年も、良い年になるといいね~」
暖かな部屋に別れを告げ、僕は友人の後を追った。
学校支給のコートを羽織りながらも、私服の黒いジャケットを着た彼は、やけに大人びて見える。しばらく会わないうちに、また背が伸びたのかもしれない。追いかける僕はかなりの早足にならざるを得ず、少し息が上がってしまった。
「悪かったね。変な集まりに誘ってしまって」
「え? いや、貴重な話が聞けてよかったよ」
サファー先生とキュービット先生が、あんなに仲が良いなんて知らなかった――そんな感想を口にしてみたけれど、ライズは特に興味を示さなかった。
「本当はね、きみのことを彼らに相談しようと思ってたんだよ。でも、馬鹿らしくなってやめたんだ」
「そうなの? どうして?」
「だってさ、あいつら、きみの目の色が変わってしまったことにすら気づかなかったでしょ」
「ああ……うん。そういえば、そうだね」
僕は自分でもほとんど意識していなかったから、特に違和感は覚えなかった。でもライズにとって、それは見過ごせないことだったらしい。
「ああいう人たちに相談しても、たぶんピントのズレたことしか考えないだろうからね……。やめておいた方がいい」
ライズは独り言のようにそう呟くと、隣に並んだ僕のほうを見て言った。
「きみのその目、ぼくの病気と似ているのかもしれない。だから、気をつけた方がいいよ。放っておくと、良くないことが起きるかもしれない」
「良くないこと……?」
「うまく言えないけど、きみがきみじゃなくなる、というか……。別の人間みたいになって、きみ自身が消えてしまう可能性がある」
その言葉に、僕はぎょっとした。
思い当たることは、いくつもあった。
僕は時々、自分じゃない誰かに操られているような感覚に襲われる。自分なら決して抱かないはずの、乱暴な感情に頭を支配されることもある。
そして、背中に張り付いた影――。あれの正体は、いまだにわからないままだ。
「きみってさ、たまに変なことをするよね。ネイティブみたいな発音を突然してみせたり、ほとんど勉強していないのに満点を取ったり。ぼくは近くで見ていたから、前からおかしいとは思っていた」
「そ、そうかな……。あまり意識していなかったけど」
「知ってる? きみのテストの答案、普段ノートに書いてる字と、筆跡が違っていたんだよ」
「……!」
僕は絶句した。そんなこと、考えたこともなかった。
――いや、嘘だ。
僕は、気づいていたはずだ。去年の年度初め、キュービット先生が答案を返してくれたとき、「自分の字とは思えないほど整った文字」と驚いたじゃないか。
「去年の期末考査、きみはひどい点を取ったよね。でも、そのときの答案は、ちゃんと“きみの字”だった。だから、ぼくはほっとしていたんだ」
ライズはそこで言葉を切り、僕の目を見た。
「なのに今日、きみの目は……そんなふうになってしまっていた」
ライズは、憐れむような表情を浮かべていた。
去年の期末考査で散々な結果だったとき、クラスのみんなは「調子が悪かったんだ」と言って心配してくれた。でも――もしかしたら、実際は逆だったのかもしれない。
僕が言葉を失っていると、ライズは呆れたように小さく息をつき、静かに言った。
「きみさぁ、実家でどんな生活をしていたの? まさか眠らずに遊び呆けていたりしなかった? 駄目だよ、そんなことしてちゃあ……自分の体のこと、真面目に考えないと」
「……僕はどうすればいいのかな。そんなに心配されるくらい酷いなんて、考えたことがなかった。どうすればこの病気は治るのかな」
僕が俯いてそう尋ねると、彼はあっさりと断言した。
「よく食べて、よく眠る。規則正しい生活をする。良い人間とだけ付き合う。無理をしない。それだけでいいんだよ。きみが“普通”だと感じることを選んで生きていれば、自然と良くなる」
「それだけでいいの?」
「そうだよ。少なくともきみは、『普通の平民の男の子』なんでしょ? それなら、そういう生活を送っていれば、そのうち良くなるさ」
案外簡単な答えに、僕はほっとした。
けれど同時に、胸の奥から疑念が湧き上がってくる。
――ライズは、どうしてそんなに詳しいんだろう。
――どうして、そんなふうに言い切れるんだろう。
僕の疑念を察したかのように、彼は話を続けた。
「体や心に大きな傷を負ったとき、人間はとても不安定になることがある。その状態で、運悪く同じように不安定なものと接触してしまうと……『混ざってしまう』ことがあるらしい」
「混ざる?」
「意識や記憶が混ざって、自分が誰なのかわからなくなるんだ。目の色は、生物の内面を映し出すものだと言われている。だから目の色が変わるっていうのは、内側が別の誰かに変わりつつある可能性を示している」
あまり聞いたことのない話だった。医学的な知識なのだろうか。
僕は風見鶏以外の学校に通ったことがない。錬石学以外の分野には、どうしても疎い。
「ぼくが病気だって話はしたよね? ぼくは昔、とても大きな怪我を負ってしまって。その治療の最中に、『混ざる』経験をしたことがある」
怪我というのは、全身に残るあの切り傷のことだろうか。
そう考えながら、僕は黙って続きを聞いた。
「そのときに面倒を見てくれたのが、サファーとノギスだ。彼女たちによると、規則正しい生活をしていれば治るらしい。実際、彼女たちにもらった睡眠薬を飲んでいたら良くなった。だから、きっときみも大丈夫だよ」
淡々と語る彼の口調とは裏腹に、それはきっと壮絶な体験だったのだろう。
ライズは遠くを見つめ、過去を思い返すように言葉を続けた。
「ぼく、サファーに脅かされたことがあるんだ。もし治療が失敗したら、ぼくの目は青くなってしまうかもしれないって……」
「目が、青く?」
問いかけに、ライズは静かに頷いた。
なぜ青なのか、不思議には思ったけれど、僕はそれ以上は尋ねなかった。
「正直、サファーに相談したほうが詳しい原因は特定できると思う。でも、あいつはさ……ぼくのことも、実験動物みたいに見ているところがあって。このことを知ったら、きみのためにならないことを始めかねない」
「実験動物って……」
「悪いやつじゃないんだけど、“生粋の研究者”なんだよ。研究者ってのは『好奇心至上主義』でさ。倫理観が、ちょっと壊れているんだ」
そうこうしているうちに、寮に着いてしまった。
夕食の時間まで、僕たちはそれぞれの部屋に戻ることにする。
「きみの症状については、ノギスに相談してみるよ。きみはあまり深く考えずに、極力“普通の学生”として生活してみて」
「……わかった。ありがとう」
ライズがここまで親身になってくれたことが嬉しくて、僕はしばらく幸福な気持ちに浸っていた。
けれど一人になり、頭が冷えてくるにつれて――自分が置かれている状況への不安が、静かに胸を締め付け始めた。




