第ニ十章(2)
僕が部屋に戻ってしばらくすると、コンコンとノックの音がした。
ドアを開けると、そこには髪を濡らしたままのライズが立っていて、どこかばつが悪そうな顔で僕を見ていた。
「あの……ええと。さっきは悪かったよ」
「ううん、僕こそ。ごめんね」
「浴室はさ、ぼくがノギスに用意させたんだ。この二週間、ぼくしかこの寮にはいなかったから」
二週間も前から、ライズは寮に戻っていたのか。
そういえば前回も、彼は僕より先に部屋に入っていた。
――もしかして、実家に居づらいのかな。
そんなことを考えていると、ライズがぽかんと口を開け、じっと僕を見つめていることに気づくのが遅れた。
「ちょっと……きみ……何なの? それ……」
「え?」
ライズは震える指で、僕の顔――正確には目のあたりを指し示していた。
何だか以前にもこんなことがあった気がする、と思った次の瞬間、彼は僕の腕を引いて部屋に押し込み、衣装棚の内側に取り付けられた鏡の前に立たせた。
「それ! その目、いつからそうなの?」
「目?」
「目だよ! きみ、やっぱり何か変だよ!」
言われるまま、僕は鏡の中の自分の目を見つめた。
……あれ?
思わず何度も目を擦る。
「きみさ、ちゃんと眠ってる? ノギスから聞いたよ。薬を処方したって。ちゃんと飲んだ?」
「ええと……いや、その……」
「駄目だよ。ちゃんと飲まなきゃ。おかしくなっちゃうよ。もう一回もらって、ちゃんと飲みなよ」
「ああ……うん。そうだね……」
ライズは鏡越しに、僕の目を見つめ続けている。
「目の色が変わるなんて、普通じゃないよ。きみの目は緑色だったじゃないか。どうしてこんなことになっちゃうんだよ」
僕は鏡を見つめたまま、ただ呆然としていた。
去年、赤く変わってしまった左目。
一年間戻らなかったそれに加えて、今は右目まで真っ赤に染まっている。
「不眠は良くないんだ。ぼくも眠れない時期があったけど、そのときはどんどん体調が悪くなった。人間は眠ることで、悪いところを治すんだよ」
「……ああ、うん」
「きみのそれも、ちゃんと眠れば治るかもしれない」
「……そうかもね」
「ぼくは真面目に心配してるんだよ。わかってる?」
「うん」
自分に起きている異常に不安を覚えながらも、僕はほんの少し、ときめいていた。
ライズが、僕を心配している。
いつも「どっちでもいい」と言って、深く踏み込んでこなかった彼が。
「わかったよ。ちゃんと薬も飲むし、眠ることにする」
彼が僕の体調を「どっちでもよくない」と思ってくれたことが、嬉しかった。
だから僕は、素直にそう答えた。
本当は、自分の体調なんてどうでもよかった。
けれど、彼が望むなら――少しくらい、気にしてもいいかもしれない。
「それで、どうしてこんなに早く戻ってきたの?」
そのまま僕たちは、部屋で雑談を始めた。
「何となく、だよ。ライズこそ、どうしてこんなに早く?」
「ぼくは毎年こんな感じだよ。実家なんて、新年の行事に顔を出せば十分だからね」
「そうなんだ」
それなら、僕ももっと早く戻ってくればよかったのかもしれない。
……いや、無理だ。
去年も今年も、錬石を作らなきゃいけなかった。
ライズは僕を窺うように視線を向け、眉を寄せて、少し気まずそうに口を開いた。
「あのさ……年末のことなんだけど」
「え? なに?」
「きみ、あのとき……何だか様子がおかしかったよね」
僕は黙って、小さく首を傾げた。
彼が言いたいことは、なんとなくわかっている。けれど、あえて促さずに待った。
「実家に何か問題があるの? ぼくさ、きみのこと、あまり知らないなって思って……あれから色々考えたんだ」
「…………」
「きみは、あまりぼくのことを気にしないよね。ぼくは自分でも怪しい行動をしてる自覚があるし、それを詮索されるのが嫌で、人と距離を取ってきたんだけど……」
気遣うような視線を向けられて、胸が高鳴る。
ライズが、こんな目で僕を見るのは初めてだった。
「でも、きみは探ってこなかった。だから、ぼくもきみを探らなかった。それでいいと思ってたんだけど……」
――嬉しかった。
僕がしてきたライズへの接し方は、間違っていなかったらしい。
彼は僕に好感を抱いている。
そして、助けようとしてくれている。
僕は苦悩の表情を浮かべる彼に、満面の笑みを向けた。
そして、自分でもよくわからない言葉を口にする。
「大丈夫だよ。家族仲はとてもいい。実家も楽しかったし、君が心配するようなことは何もないよ」
「でも、きみ……」
「年末の僕は、ちょっと変だっただけ。ちゃんと休んで元気になったから……あのことは忘れて?」
「…………」
僕は、本当にそう言いたかったのだろうか。
笑顔のまま、勝手に出ていく言葉に、内心で戸惑う。
もしかしたら。
彼なら、僕の“本心”に気づいてくれるんじゃないか。
そんな淡い期待を寄せる。
ライズはしばらく顔をしかめ、何かを考え込んでいた。
やがて渋い表情のまま、窓の外に視線を向ける。
何を見ているのかと思ったけれど、どうやら時計塔を眺めているだけのようだった。
「フリック。今日、このあと時間はある?」
「え? うん。特に予定はないけど……」
「古い仲間の集まりがあるんだ。きみの話題もよく出るから、一度顔を出してみたらどうかなって」
古い仲間の集まり?
意外な申し出に、僕は首を傾げた。
「きみもよく知っている人ばかりだから、安心しなよ」
「そうなの? 迷惑じゃなかったら、お願いしようかな」
「じゃあ決まりだね。ぼく、今日はサボろうと思ってたんだけど……気が変わったよ」
まだ少し濡れたままの髪も気にせず、ライズは部屋に戻ってコートを羽織り、そのまま僕を外へ連れ出した。
「君の部屋、十三号室なんだって? またお隣さんだね」
「そうだねぇ。腐れ縁だね」
僕は少し息を弾ませながら、ライズの後についていく。
「どこに行くの?」
「審問棟の会議室だよ」
審問棟?
思わず首を捻ったけれど、彼の進む道には見覚えがあった。
掘査技術の実習で使う鉱山入口の近く、高台に建つ建物。
一年目と二年目に、僕が反省室に入れられた場所だ。
「……君の古い仲間って、誰?」
「それは会ってからのお楽しみ」
ライズは早足で建物の扉をくぐった。
煙突から立ち上る煙を見て、誰かがすでにこの場所を使っていることはすぐにわかった。
ロビーの暖炉には火が入り、外とは別世界のように暖かい。
「裁判所」と札の掛かった小さな講堂の前を通り過ぎ、ライズは廊下の奥にある扉を、ためらいもなく開けた。
「あっ、ライズくん! やっほー」
聞き覚えのある女性の声が、真っ先に飛び込んできた。
「今日は来ないのかと――あっ」
彼女は何か言いかけて、すぐ後ろにいる僕に気づき、言葉を飲み込んだ。
……もしかして、望まれない客だったのかもしれない。
会議室にいた数人が、一斉に僕へ困惑した視線を向ける。
異様な空気に、思わず足がすくむ。
「何をぼんやり突っ立ってるの。ほら、座るよ」
「あっ、うん……」
ライズは僕の手を引き、あろうことか部屋のど真ん中の席へと連れていった。
――気まずい。
正面に座る二人からの視線に耐えきれず、僕は自然とうつむいてしまう。
その様子を気遣うように、扉に一番近い席に座っていた黒いエプロンドレスの女性が立ち上がり、穏やかな声で話しかけてきた。
「外は寒かったでしょう。温かい飲み物を用意しますね。紅茶がいいですか、それとも珈琲?」
「あの……ええと。お水でいいです」
反射的に、そう答えてしまった。
このやり取り、何度もしている気がする。
学長室での、いつもの流れだ。
ノギスさんは僕の“いつもの返答”に、わずかに笑みを浮かべると、今度はライズに同じ問いを向けた。
「紅茶がいいですか、珈琲がいいですか」
「なんでもいいよ」
「では、温かい紅茶を用意しますね」
そう言って、彼女は静かに部屋を出ていった。
その間に、会議室の空気はほんの少しだけ和らいだ。
残る人物の一人――青銀の長い髪をした若い女性。
言うまでもなく、僕たちの担任であるサファー先生が、いつもの柔和な笑顔で口を開く。
「フリックくん、進級おめでとう。ずいぶん早く戻ってきたんだね。故郷ではゆっくりできた?」
「はい。ゆっくりできました。ありがとうございます、サファー先生」
「そっか、それは良かった。ちょっと元気がないって、人づてに聞いていたから」
その一言で調子を取り戻したのか、サファー先生は目の前のおしゃれな焼き菓子の皿を僕に勧めながら、歓迎の言葉を次々と口にしはじめた。
「ごめんね。ちょっとだけ驚いちゃって。ライズくんが友達を連れてくるなんて、珍しいから」
一体どうしたのかな、どうしたのかな、とサファー先生は話の合間ごとにライズへ探るような視線を送る。
けれどライズは彼女の言葉をまるで聞いていない様子で、ノギスさんが戻ってくるのを待つかのように、扉のほうをじっと見つめていた。
「まあ、たまにはこういうのも悪くないかもしれませんね。あまりにも変化がなさすぎますし」
サファー先生の隣に座っていた男性が、ぽつりと呟く。
彼は部屋に入ってからしばらくの間、ひどく険しい顔で僕を見ていたけれど、ふっと表情を緩め、組んでいた手をほどいた。
「フリック・ラーベス。昨年はお疲れさまでした。今年も、もちろんイーノスの面倒は見てくれるんですよね?」
「ええと……はい。僕のできる範囲のことなら……」
キュービット先生は僕の答えを聞くと、にこりと微笑んだ。
睨んでいるときはとても怖い顔をしているのに、こうして笑うと意外なほど柔らかい。
本当は穏やかな人なのかもしれない、と思ってしまう。
この「会議室」と呼ばれた部屋にいたのは、この三人だった。
サファー先生、キュービット先生、そして今しがた飲み物を用意して戻ってきたノギスさん。
ライズの言う『古い仲間』とは、どうやらこの三人のことらしい。
ノギスさんはまず僕の前に水の入ったグラスを置き、
「もしよろしければ、こちらも」
と言って、紅茶のカップを並べてくれた。
ふわりと甘い香りが立ちのぼる。
紅茶には詳しくないけれど、苺のような甘酸っぱい香りがして、胸の奥が少しだけ緩んだ。
「あの……皆さんは、どういうご関係なんですか?」
気持ちが落ち着いてきた僕は、思い切ってそう尋ねた。
サファー先生とキュービット先生は互いに顔を見合わせ、口を揃えるように答える。
「うーん、同郷の友達、って感じかな? 気が合うから、たまに集まってお茶会をするんだよ」
「改めて聞かれると答えづらいですが……確かに“同郷”という表現が、一番しっくりきますね。年齢も……ばらばらに見えますし」
「同郷? 皆さん、どちらのご出身なんですか?」
そういえば、ライズの実家がどこなのかも、僕はよく知らない。
ニュータル州の片田舎だと言っていた気もするけど……。
彼らは苦笑いを浮かべるだけで、その問いに答えようとはしなかった。
少しの沈黙のあと、サファー先生が思い出したように両手を打ち、話題を切り替える。
「それよりね、フリックくん。きみに言いたいことがあったんだよ!」
「な、なんでしょうか……」
「期末考査、どうしてあんなに調子が悪かったの? わたし、すごく焦っちゃったんだから~」
「あ……ええと。すみません……」
面接では好成績だと言われていた僕。
担任としては、僕の学業に不安を感じていなかったのだろう。
同級生の話では、単位が危うい生徒にはサファー先生が補習などの手厚いサポートをしているらしい。
同じ寮の地味な二人組――ヨハンとルイスもよく引っかかっていて、秋口から頻繁に彼女の話をしていた。
もともとはミラ先生のファンだったはずなのに、その丁寧な対応のおかげで、すっかりサファー先生派になっていた。
「色々悩み事があって、調子が悪かったみたいです」
僕がそう弁解すると、サファー先生は少し声を潜めて、こんなことを言った。
「悩みがあるなら、遠慮なく先生に相談してね? わたし、学長先生に“くれぐれもよろしく”って頼まれてるんだから」
「……学長先生に?」
「うん。学長先生はね、きみにすごく期待してるんだよ!」
それは、風見鶏に入ってから何度も聞かされてきた言葉だった。
最初は、父のような優秀な研究者になれる資質を見込まれているのだと思っていた。
途中からは、平民出身という異質さを理由に、七不思議を解き明かし、イーノスの問題を解決する存在として期待されているのだと考えるようになった。
けれどサファー先生の言い方からすると、そういう話でもないらしい。
結局のところ、学長が僕に何を望んでいるのかは、よくわからない。
年末、彼は僕に将来の展望を尋ねてきた。
風見鶏の錬成師になりたいなら、イーノスに手を差し伸べたいなら、自分を頼れと言った。
「やりたいことをやれ」と言いながら、“何かをやらせたい”――そんな意志が、その言葉の奥に潜んでいるような気がしてならない。
「あの……学長は、僕の何にそんなにも期待しているんでしょうか」
そう問いかけると、サファー先生とキュービット先生は、再び互いの顔を見合わせた。
「研究者になってほしいんでしょうか。イーノスの問題を解決してほしいんでしょうか。それとも……もっと別のことですか?」
僕が一歩踏み込むと、二人は困ったような笑みを浮かべるだけで、はっきりとした答えを返さなかった。




