第二十章(1)
僕は真っ暗な場所で震えていた。
膝を抱えて体を丸め、ぎゅっと目を閉じている。
体が痛い。
どこが痛いのかはよくわからない。肩だろうか。背中だろうか。脚か。それとも全部なのだろうか。とにかく痛くて、頭もガンガンと脈打っていた。
痛みに耐えながらしばらく震えていると、耳元で何かの音が聞こえてきた。
カサカサ、ガサガサ。
枯れ葉を巻き上げるような音が、僕のすぐ近くで鳴っている。音の正体はわからない。それなのに、ひどく怖いもののように思えて、僕はさらに身をすくませた。
ガサガサ、ガサガサ。
音は次第に激しさを増していく。獣の唸り声のようなものも混じり、状況は悪くなるばかりだった。
僕は耳を塞ぎ、その場をやり過ごそうとする。
お願いだから、見逃して。
僕は、まだ死にたくない……。
ガサガサ、ガサガサ。
ガウガウ、ガウガウ。
バサバサ、バサバサ。
争っているような音が続く中で、ひときわ異質な音が響いた。
甲高く、耳をつんざくような音。
その瞬間、心臓を思い切り掴まれたような苦しみを覚え、僕は目を覚ました。
まだ冬が終わったばかりだというのに、全身にびっしょりと汗をかいていた。心臓はバクバクと早鐘を打ち、ぜいぜいと肩で息をしている。
震える右手は、何かを強く握りしめていた。
鉛筆だ。
その先端は、ぐしゃぐしゃになった紙の上をなぞり、黒い線を刻んでいる。
線は、見慣れたひとつの文章を形作っていた。
――『復讐を 忘れるな』――
―――――――――
ずいぶんと早く到着してしまったようだ。
駅の黒板には今日の日付が書かれていて、そこには三月二十一日と記されている。
三月二十五日までは冬期休暇のため、バスは一日に二本しか出ていない。午前の便はすでに出発してしまっており、僕は昼過ぎまで駅のベンチで時間を潰すしかなかった。
そういえば、まだ進級案内に目を通していなかった。
そう思って茶封筒を開く。
新しい部屋番号が記されているはずの欄には、去年と同じ「十四号室」と書かれていた。どうやら、もともと三年生と同じ階に配置されていた僕は、そのまま同じ部屋をあてがわれたらしい。
フロウリードームの同級生は二人が退学してしまったため、三階の六部屋は全て同級生で埋まるのだろう。
ライズがまた隣の部屋だったらいいな、と思いながら講義案内に目を通す。
三年生の講義の特徴は、「研究科目」が履修できるようになったことだ。研究科目では、平日の午前九時から午後四時半まで研究室を訪れ、先生の指導を受ける。
それ以外にも「専門科目」があり、二年次よりもさらに専門的な内容が追加されている。二年生の講義を履修することも可能だ。
専門科目の講義を受けている間は研究室を抜けてもよいが、基本的に日中は研究室に在室しなければならない。それが三年生の特徴だった。
僕はどうやら、二年生科目の単位は何とか取りきれたらしい。期末考査は散々だったけれど、中間考査がよかったおかげだ。
どの講義を履修するか、またライズと相談しないと――そう考えていると、書類の間から小さな封筒が一通、滑り落ちた。
封筒の表には、こう書かれている。
「あなたが配属される研究室」
「……『錬成工学研究室』」
中を確認し、ほっと胸を撫で下ろす。
僕は無事、目的の研究室に配属されたようだった。
すべての書類を封筒に戻し、カバンにねじ込む。
やがてバスがやって来た。学生の姿はほとんど見えないが、乗客は意外にも多い。
満員の車内で体を縮めながら、僕は目的地へと向かう。
人々の隙間から、窓の外の景色を眺めていた。
暦の上ではもう春だというのに、風見鶏の積雪はひどいものだった。
屋根の雪は下ろされているものの、道路の脇にはこんもりと雪山が連なっている。
バスを降りると、思いがけず賑やかな光景が目に飛び込んできた。
誰かが夢中になって遊んだのだろう。かまくらや雪像が、あちこちに残されている。
僕はそれを眺めながら、思わずクスクスと笑い、寮へと向かった。
こんな光景は、去年まではなかったはずだ。
もしかしたらイーノスが、コリウス先生たちに教えられて雪遊びに興じていたのかもしれない。
寮の周囲はきれいに除雪されていたけど、どの建物にも人の気配はなく、静まり返っていた。
馴染みのフロウリードームの入口をくぐり、暖炉のついていない寒々しいロビーを通り抜ける。
十四号室に入ると、すでにベッドは整えられており、衣装棚には糊の効いた制服やコートがきちんと並んで掛けられていた。
始業前のこの期間、どこまでサービスが再開されているのだろう。
そう思って、僕は図書館や食堂、博物館を回ってみることにした。
図書館は清掃中なのか、本棚から本が抜き出されて積み上げられ、自習机も移動されていて雑然としていた。
食堂は縮小営業のようで、食事が提供されるのは朝と夕方の数時間だけらしい。
博物館はもともと人気がなく静かな場所だ。職員さんの姿が見えないこと以外、普段との違いはほとんどなかった。
暮らすことはできるけれど、正直つまらない。
ライズもマーガレットも、きっとギリギリまで戻ってこないだろう。
イーノスのところに顔を出そうかな――そんなことを考えながら寮内を歩いていると、浴室に明かりが灯っているのに気が付いた。
もう浴室は使えるのだろうか。
僕以外にも戻ってきている人がいて、準備を頼んだのか。それとも、僕が戻ったのを知って、寮の使用人さんが気を利かせて用意してくれたのだろうか。
僕は普段、浴室の端の仕切りの中で、こそこそと体を流すだけで済ませていた。
今の浴槽には、お湯が張られているだろうか。
もしあの大きな浴槽に湯が満ちているなら、今日は貸し切り状態でゆっくり浸かれるかもしれない。
こんな贅沢、今しか味わえない。
僕は慌てて自室に戻り、着替えを用意して浴室へ向かった。
服を脱ぎ、胸を高鳴らせながら浴室の扉を開く。
湯けむりで全体は見通せなかったが、広々とした浴室に人影はなかった。
中央から奥にかけて広がる木枠の大浴槽には、並々とお湯が張られている。湯温を保つための錬石釜には、細かな砂のような火力石が補充されていた。
嬉しくなった僕は、思わず勢いよく大浴槽に飛び込んでしまった。
次の瞬間、奥の方から短い悲鳴が上がる。
しまった、と後悔したときにはもう遅かった。
すでに浴室を使っている人がいたなんて……最悪だ。
「あ、あの……ごめんなさい。誰もいないと思って、つい……」
僕は反射的に謝り、声がした方へ視線を向けた。
湯けむりのヴェールが少し薄まったこの位置からは、人影を容易に見つけることができる。
「……!」
思わず息を呑み、目を丸くする。
そこにいたのは、見慣れた赤い髪と金色の瞳を持つ友人だった。
胸の奥がふっと緩み、僕は照れ笑いを浮かべながら声をかける。
「やあ、ライズ。戻ってたんだ……」
「近寄らないで!」
中腰で一歩踏み出した僕に、彼は鋭い声を上げた。
湯に浸かった体を口元まで沈めたまま、片手をこちらに突き出し、じりじりと後退していく。
その様子に、ただ事ではないものを感じる。
「どうしたの、ライズ……?」
「どうしたもこうしたもない。とにかく、近寄らないで」
そんなに警戒する理由がわからなかった。
ゆったりとした時間を邪魔してしまったのは悪かったけれど、この浴室は公共の施設だ。誰かが入ってくる可能性だってある。そこまで拒絶されるほどのことだろうか。
そう眉をひそめかけた僕は、すぐに異変に気づいて息を飲んだ。
最初に目に留まったのは、彼の右肩だった。
刃物で抉られたような、深くえぐれた傷。ぱっくりと開いた皮膚の奥から、赤い肉が覗いている。
「その傷……」
声をあげかけて、さらにとんでもないことに気づく。
傷は右肩だけではなかった。左肩、右腕、そして揺れる湯面の向こうに垣間見える体のあちこちに、同じような深い刃傷が刻まれている。
全身の肌が粟立つ。
思わず浴室全体を見回した。
ここで誰かに襲われたのだろうか。
事件に巻き込まれた? ――いや、それにしてはおかしい。
湯船の湯は澄んでいて、血の色も臭いもない。
それなのに、傷口は今まさに開いたかのように生々しい。
どうして、こんな状態で平然と湯に浸かっていられるのだろう。
僕は一度湯に浸かり直し、必死に気持ちを落ち着けた。
恐怖が疑念へと形を変えた頃、湯船の隅で縮こまり、じっとこちらを睨んでいたライズが口を開く。
「あのさ……。なんで、きみがここにいるの? まだ始業式まで一週間あるよね……」
「え? ああ、ちょっと早めに戻ってきたんだ。それで、浴室に明かりがついてたから……」
「…………」
「…………」
僕たちは互いに湯船の端へ後退し、縮こまったまま沈黙した。
本当は聞きたいことが山ほどあった。
けれど、どうしても口に出しづらかった。
「えっと……いい湯だね。僕、あんまり湯船に浸かったことなくてさ」
「…………なんで?」
「え? いや、その……実は体に変なアザがあって。人に見られたくないんだ」
「アザ?」
すっとんきょうな声で聞き返され、僕は苦笑しながら頷く。
ライズは、同室だった頃から一緒に浴室へ行こうとしなかった。着替えを覗かれるのも極端に嫌がり、夏になっても半袖を着ようとしなかった。
もしかしたら――この傷が理由だったのかもしれない。
体中に刻まれた奇妙な傷を知られたくなくて、ずっと肌を隠してきたのだ。
正直、ぞっとするほど異様な傷だった。
それでも、僕は深く追及しないことにした。
誰にだって、知られたくないことはある。
騒がれたり、気持ち悪がられたりしたくない秘密はある。
それは、僕も同じだった。
「僕もね……左腕と左足に、変な痕があるんだ。縫い跡みたいなさ」
クスクスと笑いながら、僕は自分の腕をそっと撫でる。
この傷があるから、夏服に替えるのを少し迷った。
けれど制服の黒いケープは肘下まであったから、ぎりぎり隠れると思って衣替えをしたのだ。
「それに、胸にも大きなアザがあってさ。花火みたいな……ちょっと気持ち悪いよね」
湯面から少しだけ体を出し、位置を示す。
左胸を中心に、放射状に並ぶ赤黒い楕円の群れ。
先に自分のことを明かせば、ライズも安心してくれると思った。
けれど、返ってきた反応は予想とまったく違った。
彼は怪訝そうに顔を歪め、鼻まで湯に沈めてぶくぶくと泡を吐き出し、ぼそりと呟く。
「アザ? ……別に、何もないじゃない。何言ってんの」
「……え?」
僕は思わず自分の胸を見下ろした。
はっきりと見える。
花火のような、あの奇妙なアザは、確かにそこにある。
湯けむりで見えないのだろうか。
首を傾げつつも、まあいいか、と考える。
勢いで喋ってしまったけれど、これもライズの傷と同じで、他人に知られたくない類いのものだ。
「邪魔してごめんね。僕、もう十分温まったから……先に上がるよ」




