第十九章(4)
よく晴れたある日、僕は溶鉱酸を採取するために、マクシネル研究所へ向かった。
そこは相変わらずの廃墟で、生き物の気配はまったく感じられない。
山の中腹にあるというのに、緑は一切侵入しておらず、薄橙色の乾いた地面と、灰色のコンクリート片、砕けたガラスの反射光ばかりが目につく。異様としか言いようのない光景だった。
溶鉱酸のある場所は把握していたので、僕は寄り道をせず、まっすぐ目的地へ向かう。
去年と同じように危険な採取作業を終えたあと、ふと、あることを思い出した。
――フリックくん。「溶鉱酸」に、何か変なものが浮いていたりしなかったかな。
学長の言葉だ。去年の帰省を終えたばかりの僕に、彼はそう問いかけてきた。
次にじっくり観察できる機会があれば、注目してみてほしいとも言っていたな……。
僕はピリピリと痛む顔をかばいながら、ジュワジュワと煙を上げる溶鉱酸の液だまりを見下ろす。
おそらく、もとは巨大なガラスケースに貯蔵されていたのだろう。割れてしまい、内容物が部屋中に溢れたことが窺えるけど、それでも液面はまだ僕の肩ほどの高さまで残っていて、激しい刺激臭を放っている。
ガラスは溶鉱酸に対する耐性が高く、多くの金属や鉱物を侵食するこの液体を保管するのに適している。僕が持参している溶鉱酸用の特殊ケースも、内側はガラス製だ。ただし、ガラスは衝撃に弱いため、運搬用であるワイン瓶大のケースは、外側を金属で覆っている。
この大きなガラスケースも、元々は金属製の防壁などで衝撃対策が施されていたのかもしれない。だけど、漏れ出した酸に腐食され、今では跡形も残っておらず、詳しい構造はわからなかった。
必死に目を凝らしてみたものの、溶鉱酸の中はよく見えない。目が痛くて、長く開けていられなかった。
木の枝のような影が見えた気もしたけど、腐食した金属フレームの残骸を見間違えただけかもしれない。
諦めて方向転換しようとした、そのときだった。
視界の端で、何かが動いた。
小動物か何かだろうか。最初は、特に気にも留めなかった。
だけど、すぐに胸騒ぎがした。
小動物?
こんな、草一本生えていない場所に?
生き物が存在できるとは、これまでの状況から考えにくい。僕は慌てて、その影の正体を確かめるため駆け出した。
見間違いではなかったらしい。
コンクリートに降り積もった雪の上に、親指ほどの小さな足跡が残っている。付いたばかりの、新しい足跡だ。
僕はそれを追って走り出した。
その足跡には見覚えがあった。僕を散々振り回した挙句、忽然と姿を消した、あの小さな白い犬――ディクティスのものによく似ている。
「ディクティス? 君なのかい?」
前方に向かって声を上げる。まるで僕から逃げるかのように、小石を蹴飛ばす音が返ってきた。
どうして、こんなところにいる?
学長に命じられて、僕を監視していたのか?
それとも、溶鉱酸の中に浮かぶ“何か”を、僕が見つけられるかどうかを確かめに来たのか?
僕は足跡を追って懸命に走り、廃墟となった研究所を飛び出した。足跡はそのまま逃走を続け、だだ広い丘を越えていく。
この先には来たことがなかった。不気味なこの山の周辺を探索する度胸は、僕にはなかった。
溶鉱酸の採取という明確な目的がなければ、ここに足を踏み入れることもなかっただろう。ひとりでできるのは、研究所の中を歩き回るくらいが限界だったはずだ。
丘の向こうには、巨大なクレーターがあった。
まるで丘が裏返ったような穴だ。そこだけ雪が積もっておらず、焼け焦げたように黒ずんだ大地が、眼前に広がっている。
「なんだ……これ」
僕は小犬を探しに来たことを、すっかり忘れてしまった。
このクレーターが何なのかを考えようとして、思考がぐるぐると空回りする。
穴の中心で、キラリと何かが光った。
黒ずんだ地面と対照的なその明るさに、僕の意識が吸い寄せられる。
「あれは……何だ?」
目を凝らす。穴の中に降りることはできなかったけど、それはあまりに大きく、ここからでも十分に見えた。
それは、芽吹いたばかりの植物だった。
双葉の上に、本葉が四枚展開した、ごく初期の姿。種類はわからないけど、それが異様なほど巨大であることだけは理解できた。生育初期でこの大きさなのだから、成長したらどれほどになるのか、想像もつかない。
しかも、それは、ほんのりと輝いていた。
光を放つ植物など、聞いたことがない――いや、ひとつだけ、聞いたことがある。
聖地にしか生えていないとされる、『知恵の樹』。
だけど、神の樹であるはずの知恵の樹が、こんな辺鄙な場所に生えているはずがない。
これは、知恵の樹ではない。
僕はしばらく、それをぼんやりと眺めていたが、すでに目的を果たしていることを思い出し、家路についた。
研究所のそばのクレーター。
その中心にある、知恵の樹に似た植物の芽。
その意味を考えるのが怖くて、僕は思考を止めた。
帰宅後は、ひたすら手を動かし、売り物になりそうな錬石を作る作業に没頭した。
僕が主に作っているのは、『ティフォニーグロウ』という錬石だ。
サファー先生の授業で習った単晶の形は「針状結晶」。父さんの実験ノートによれば、ティフォン錬石のなかでも、最も創りやすい部類に入るらしい。
机に並んだ瓶の中には、すでに多くの針状結晶が育っていた。
それをピンセットで摘まみ取り、水で洗浄し、乾燥させた錬石を裏庭へ持ち出す。
錬石として、きちんと機能するか確かめる必要がある。
小指の爪ほどの長さに育った、深緑色の美しい石を、専用の針でパキッと割ってみる。
その瞬間、僕を中心に、生ぬるい風がブワッと巻き起こった。
父さんのノートに書かれていた通りだ。
ティフォニーグロウの微小単晶が発する魔法は、“温風”。ただ暖かい風を起こすだけの、地味な効果しかない。
それでも、多少の稼ぎにはなる。
単晶だけでなく、「放射連晶」と呼ばれる、トゲトゲした球状の結晶も得られた。
こちらは温風どころではない。熱波によって物を“乾燥”させ、“風化”させてしまうほどの強い力を持つと、ノートには記されていた。
おそらく、こちらはかなり高値で売れるはずだ。
父さんのノートには、錬石を換金してくれる先について、いくつか箇条書きがされていた。
その中には、去年も一昨年も、僕が旅費や生活費を工面するため、村の人たちが用意してくれた品々を換金するときに使った店も含まれている。
暦が二月に入った頃。
「母さん。今年は少し早めに、隣町へ行ってお金を用意してきたいんだけど……いいかな」
僕は、とても不躾なお願いをした。
「いいけど……あんた、今年は忙しすぎないかい?
母さんも、姉さんたちも、あんたと過ごせる時間を楽しみにしていたんだよ」
「ごめんよ、母さん。姉さんたちも。
でも僕、どうしてもやりたいことができちゃったんだ」
暖炉の火が揺れるリビング。
暖かな光に満たされたこの部屋で、彼女たちは、とても悲しそうな顔をしていた。
僕の気持ちは、ぐらぐらと揺れた。
彼女たちを悲しませるなんて、僕はひどいやつだ。
叶わない想い人への高価な贈り物なんてやめて、残された時間を、家族や村の人たちのために使うべきじゃないのか。
――それでも。
僕は、首を横に振った。
僕は前を見たかった。
将来を見据えて、行動を起こしたかった。
僕には、“風見鶏の四年間しか与えられていない”。
そんな気持ちで、今まで生きてきた。
けれど、それは僕の思い込みだった。
僕には、その先の未来まで考える権利がある。
そう思い、僕は強い決意を言葉にした。
「僕には……この村と同じくらい大切なものが、できたんだよ。母さん」
「…………」
「母さんのことも、姉さんたちのことも……
僕は忘れたりしない。これから先も、絶対に」
「…………」
三人の姉は動揺したように顔を見合わせていたが、母さんだけは、僕をまっすぐに見つめて口を開いた。
「フリック。
あんたは――以前、母さんが話したことを思い出してくれたね?」
何のことだろう、と首を傾げた瞬間、母さんの言葉が脳裏に浮かび上がる。
――人を恨んではいけない。同類だと思われて、幽霊を呼び寄せてしまうよ。
それは、「赤い瞳の幽霊」を探していたとき、ふと思い出した言葉だった。
「最近ね、こんな話を聞いたんだ……」
母さんは、家族を失って絶望した男が、墓場をさまよううちに、「赤い瞳の幽霊」に取り憑かれてしまった話を語った。
その男は、家族のいない家に閉じこもり、復讐に心を焼かれながら、残りの人生を過ごしたという。
「そんな恐ろしい狂人が、優しい家族のもとへ戻れると思うかい?
フリック。お星さまになることは、辛いことじゃないんだよ。それよりも、もっと辛いことは、たくさんあるんだからね」
母さんは、僕の頭を撫で、優しく微笑んだ。
僕は、堪えきれず、ぼろぼろと涙をこぼしてしまった。
母さんは僕を抱き寄せ、背中を撫でてくれた。
そのぬくもりに安心して、僕はそのまま眠りについてしまう。
――目を覚ましたとき、母さんの姿はなかった。
姉さんたちの姿も、なかった。
ただ、僕の前には、綺麗な刺繍のハンカチや、古びた手芸道具が山のように積まれていた。
それが、彼女たちからの贈り物だと、すぐにわかった。
僕は黙ってそれらを鞄に詰め込み、家を後にした。
それから僕は、父さんの墓に立ち寄った。
墓石はそれほど汚れてはいなかったけど、ボロ布で丁寧に拭き、片膝をついて祈りを捧げる。
「父さん。父さんのおかげで、僕はやりたいことができたよ。
父さんが示してくれた道とは、少し違うかもしれないけど……僕にとっては、とても大切なことなんだ」
僕は友人たちの話をした。
平民である僕のことを、身分なんて関係なく信頼してくれて、一緒にいると、とても居心地がいいこと。
「父さんは僕に、『風見鶏の錬成師』を目指せって言ったよね。
でも、そうじゃなくても、きっと上手くやれる気がするんだ。
僕には、いい友達がいるし、いい先生もいる」
――僕らしい人生を、歩いていきたい。
応援してくれるよね?
そう問いかけて、僕は静寂に耳を澄ませた。
とても静かだった。何の音もしない。
けれど、その無音に、僕は不思議と安らぎを覚えた。
それから僕は、村をぶらぶらと歩き、出会った人すべてに別れの挨拶をした。
早い旅立ちに涙ぐむ人。
また帰ってくるよね、と念を押す人。
頑張ってこい、と背中を叩いてくれる人。
いろいろだったけれど、みんな優しく接してくれて、僕は嬉しかった。
まるで今生の別れみたいだ、と心の中で笑ったけど、それは、あながち間違いではない。
僕はこの村の人たちに、もう会えないかもしれない――そんな予感を抱いていたからだ。
別れを済ませた僕は、最後に地下室へ戻った。
マーガレットに渡す石を回収するためだ。
ギリギリまで育てた『ティフォニーイグニド』は、米粒ほどの大きさに成長していた。
ロウソクの灯りと日光の下で変色を確認し、完全変色していることを確かめる。
正八面体の形をしていて、カットや研磨など必要ないほど美しい。
この出来映えなら、きっとマーガレットも喜んでくれるだろう。
その日のうちに、僕はレストア村を旅立った。
まずは隣町のユービルへ向かう。長い徒歩の旅だ。
僕の村には郵便物が届かないため、役場の私書箱に、僕宛の郵便物を届けてもらう手続きをしてある。
だからこの道のりも、骨は折れるけど慣れたものだ。
僕はいつものように、役場へと足を運んだ。
『ラーベス氏所有』と記された私書箱の扉を開けると、風見鶏のシンボルが描かれた封筒が入っていた。
進級案内だ。無事に進級できたらしい。
旅の途中で読もうと決め、丁重に鞄へしまう。
ユービルからマクシネル市街までは、乗り合い馬車を使う。
僕と同じように、品物を売りに行く人が多く、馬車はいつもぎゅうぎゅう詰めだ。
マクシネルに到着すると、僕はパンパンの鞄を抱え、通い慣れた裏路地へと足を踏み入れた。
暗く細い道の突き当たりに、特徴的な緑の看板がある。
『ウェルザー商会』。
軋むスライド扉を開けると、狭い受付で、若い男性が新聞を広げていた。
「いらっしゃ……あっ、ラーベスさん! お久しぶりです」
「ロベルトさん。少し早いですけど、来ました。今年もよろしくお願いします」
ロベルトさんは、何度も世話になっている顔見知りだった。
去年も一昨年も、父さんの錬石関係の品は、彼に買い取ってもらっている。
「ラーベスさんの商品は、いつも質が良くて助かっていますよ。
今年は、何をお譲りいただけるんです?」
「今年は、いつもより多く、買い取ってほしいんです。お金がたくさん必要で」
「風見鶏の関係ですか? 学業は何かとお金がかかりますよねぇ」
父さんとも旧知の仲だったロベルトさんは、僕が風見鶏に入学したことも知っていた。
そのため、もともと条件は良かったんだけど、課程修了を示すリボンを見せてからさらに関係は良好になった。
「父さんが集めていた、精製度の高いティフォン錬石です」
「うわ……これはすごい数だ。連晶までありますね。素晴らしい」
彼は夢中で鑑定を進め、次々と金額を提示していく。
その合間に、僕はそれとなく白金の相場を尋ねた。
「白金のリングなら、現物がありますよ。
こちらの錬石いくつかと交換、という形でも構いません」
「本当ですか? 助かります」
「気に入るデザインがあるといいんですが……」
彼は奥の部屋からアクセサリーケースを持ってきた。
中には、磨き抜かれた銀色の指輪が収められており、僕は思わず見とれてしまう。
「あの……この指輪の、中央の石を別のものに交換したいんですが。
そういう加工は、どこかでできますか?」
加工場を紹介してもらい、換金したお金と指輪を受け取って、僕は店を後にした。
ロベルトさんの紹介状のおかげで、職人は快く依頼を引き受けてくれた。
「これは……何の石です? 綺麗な緑ですね」
「翠透石です。母の思い出の石なんですよ」
価値のない石だと偽り、貴重な錬石だと気付かれないよう気を遣う。
丁寧に仕上げられた指輪を、可愛らしい箱に収めてもらい、僕は代金を支払った。
――準備は、すべて整った。
思った以上に順調に事が運び、僕は安堵しながら汽車に乗り込む。
これから、また新しい一年が始まる。
次は、どんな一年になるのだろう。
賑やかな友人たちの顔を思い浮かべながら、
僕は車窓に流れる雪景色を、いつまでも眺めていた。
長い長い汽車の旅の中で、僕は何度も、うつらうつらと意識の海を漂う。
それは、風見鶏へ向かう旅路で、何度も繰り返してきたことだった。
――けれど、今回は、何かが違った。




