第十四章(4)
僕の勧めが功を奏したのか、イーノスは次第に、僕たち学生の生活に興味を持つようになった。
放課後の図書館だけでなく、授業中にもふらりと僕の前に現れては、隣に座って講義を聞くこともあった。
「イーノスくん。わたしの講義に来てくれてありがとう」
サファー先生はそう言ってにこにこと彼を迎え入れ、わからないことがあったら遠慮なく質問してね、と頻繁に声をかけていた。
嬉しそうなのはキュービット先生も同じで、サファー先生のようにあからさまな特別扱いはしなかったものの、授業を進める声が、半音ほど高くなっているような気がした。
そんな歓迎ムードとは裏腹に、ふたりの授業は難しすぎたようで、イーノスは終始退屈そうにしており、気が付くと姿を消してしまうことが多かった。
ふたりとは対照的に、アイビー先生はイーノスが現れると、明らかに機嫌が悪くなった。声は一オクターブほど低くなり、彼の存在を完全に無視し、イーノスのいる方向を頑なに見ようとしない。
その様子が生徒たちの間で話題になり、
「イーノスのいる列に座れば、授業中に指名されない!」
という噂が広まった。結果、僕たちの座る列に生徒が殺到し、左右の列で人数が異様に偏るようになってしまった。そのことに気付いたアイビー先生は、さらに機嫌を悪くしていた。
ミラ先生の授業にも、イーノスは顔を出した。
錬石魔法の実習に参加させてもらったのだ。
その月に習っていたのは、新しいルオン――“ヴォート”。
遅効性を付与する魔法で、呪文と同時に石を砕くと、魔法が薄い殻に覆われたようになり、発動を遅らせることができる。
「神子様も、やってみますか?」
彼女は他の先生たちとは違い、イーノスの出現に戸惑いを見せ、どこか遠慮がちに声をかけていた。
イーノスのことをあまり知らない、ごく普通の人の反応だな。
僕はそう分析した。
神子なのだから、驚くほど見事に錬石を使いこなすだろう。
誰もがそう期待して固唾を呑んで見守っていたが、正直に言って、彼は下手だった。
「ヴ……“ぼーと”?」
棒読みの発音と同時に割られたグロウリーグロウは、クシャリと頼りない音を立てて砕け、薄い殻に覆われることもなく、ヘロヘロと淡い光を放ちながら崩れていった。
「あー……えっと……神子様は、あまり錬石を割られたことがないんですね」
ミラ先生は滝のような汗を流しながら、
「神の奇跡を起こすには、錬石を使うまでもないということですね!」
などと必死にフォローを重ね、初心者用のグローブをはめさせて、もう一度石を割らせた。
そのグローブを使い、あらかじめ溝を彫られた石を割れば、誰でもそれなりの魔法が出せる。
それでは駄目だ、と言っていたのは、他ならぬミラ先生自身だったはずなのに。
「素晴らしい素質です! 初めてでここまでできれば、相当なものですよ」
愛想笑いを貼り付け、生徒たちに拍手を促すその姿に、白けた表情を浮かべる者も少なくなかった。
ミラ先生の対応には、僕も正直がっかりしてしまったが、仕方がないのかもしれない。
彼女は比較的若い先生で、イーノスにまつわる因縁について、あまり詳しく知らないのだろう。
“不敬行為をすればゼリーになって死ぬ”
その程度の話は誰かから聞いているのだと思うけど、詳しい事情までは知らないはずだ。
だからこそ、“得体の知れない怖さ”だけが先立ち、イーノスとどう接すればいいのかわからない。
事情を何も知らない生徒たちは、先生の態度にどこか違和感を覚え始めていた。
最初のうちは、「神子さま!」とはしゃいでいた皆だったが、
イーノスは見た目は普通の子供で、文字も読めず、会話も支離滅裂。人の名前すら覚えられず、大人が近付くとすぐに僕の背中に隠れる。錬石もまともに割れないのに、先生は特別扱いをする……。
イーノスがお披露目されてから一ヶ月。
その混乱期の中で、空気が嫌な方向へ傾きかけたことがあった。
「教科書の肖像画に似た、隷農の子供を連れてきただけじゃないか」
「学長の親戚の子供を、変装させているだけなんじゃないか」
そんな噂が、僕の耳にも届いた。
僕はただ翻弄されるばかりで、何もできなかったのだけど――
コリウス先生のおかげで、その悪い雰囲気は一変することになる。
ある日、コリウス先生の授業にも姿を現したイーノスは、相変わらず僕の近くに佇んでいた。
そこへ、珍しく防具を身に付けた先生が近付いてくる。
「イーノス。よかったら、手合わせ願えないか」
手合わせ?
何を言い出すんだ、この人は。
そう思ったのは、どうやら僕だけではなかった。
「コリウス先生、何を言ってるの? 危険だわ!」
マーガレットの声をきっかけに、何人かの生徒が同調して騒ぎ始める。
「神子様がお怪我をされたらどうするんですか!」
「危ないです!」
危ない、危ない、と皆が口々に叫ぶ中、イーノスは意外にも「ああ、いいぞ」と応じ、差し出された武具を受け取った。
たぶん、マーガレットが言った「危険」というのは、神子ではなくコリウス先生に対して、だ。
イーノスに不敬行為をすればどうなるかを知っていて、なお試合を申し込むなんて、正気の沙汰とは思えない。
……それを理解している生徒は、この場にほとんどいないようだった。
「レフェリーはミラに頼みたい。呼んできてくれないか」
助手にそう頼むと、コリウス先生は生徒たちを実習場の隅へと並ばせ始めた。
「イーノス……大丈夫なの?」
不安になりつつ、僕は彼が防具を身に付けるのを手伝いながら尋ねた。
「大丈夫だ。俺様は強いからな!」
「いや、そういうことじゃなくて……」
「ん? そういうことじゃないのか?」
「いや、その……」
確か、以前イーノスはこう言っていた。
“俺様は特別だから、斬れないと教えてやった”。
相手が言うことを聞かず、「可哀想なことになった」とも。
つまり、相手がゼリー化してしまう危険があるときには、警告してくれるということなのか?
それなら今ここで、コリウス先生に何も言わないということは――ゼリー化は起こらない、という判断なのだろうか。
「……いや、なんでもない。怪我をしないよう、気をつけてね」
「おう! 任せとけ!」
いつの間にかギャラリーは増え、ミラ先生の研究室の先輩たちや、キンバリー先生、スタン先生の姿も見えていた。
生徒たちの多くは興味津々で、「どちらが勝つんだろう」と無邪気に予想を楽しんでいる。
対照的に、先生たちは皆、神妙な顔でふたりを見つめていた。
その中のひとりであるミラ先生は、不安を隠せない表情のまま、ふたりの間に立つ。
「武器は両者とも木棒のみ。防具を着けた部分と、武器にのみ攻撃を当てること。四肢の防具への命中は三回、胴体の防具は一回命中で試合終了。武器や防具の破損があった場合も、そこで終了だ」
ふたりが頷いたのを確認してから、ミラ先生は大きく息を吸い、宣言した。
「――それでは、始め!」
これまでにも、このような試合形式の授業を見学する機会は何度かあった。
コリウス先生がコンディションの良い生徒を選び、対人の打ち込みをさせる場面を、何度も見てきた。
コリウス先生は凄まじく強い。
体格の良い学生が全力で打ち込んでも、必ず弾き返されるし、ひとたび攻撃に転じれば、一撃で相手の武器を破壊してしまう。
誰も敵うなどと思っていなかった。
ましてや、互角に戦える相手がいるはずがない――そう信じて疑わなかった。
だけど、今回の試合で最初に動いたのは、先生の方だった。
砂ぼこりが舞い、武器を薙ぐ音が一瞬聞こえただけで、その動きはまるで見えない。
最初から全力で向かっているのは明白だった。
そのことに皆が驚き、さらに、その攻撃をイーノスが軽く躱したことに、二重で驚かされた。
イーノスはくるりと宙返りをし、そのまま棒を振り上げて先生めがけて振り下ろす。
それは空振りに終わり、いつの間にか背後に回り込んでいた先生が、膝の防具めがけて武器を振るった。
ガキッ、という音がして、先生の棒が止まる。
イーノスは地面に突き刺した棒でその攻撃を受け止め、そこを起点にくるりと回転すると、後ろから先生の肩に蹴りを食らわせた。
さすがの先生も、わずかにバランスを崩す。
イーノスはその一瞬の隙を逃さず、背中の防具めがけて一撃を打ち込んだ。
こんな本格的な攻防を目にしたのは初めてで、ギャラリーは皆、夢中になっていた。
ギリギリの攻撃を躱し、あり得ない体勢から反撃を繰り出す。
凄まじい音を立てて武器がぶつかり合い、砂ぼこりに紛れて、ふたりの姿が一瞬かき消える。
互角だ――誰もがそう思った。
だが、しばらく攻防が続いた後、ある生徒が気付く。
彼らの表情には、決定的な差があった。
「神子様、汗ひとつかいていないよ」
イーノスは笑顔だった。
先生の攻撃を軽々といなし、羽毛のようにふわふわと移動するその姿は、心底楽しそうに見える。
一方で、さすがのコリウス先生も、これほど長時間、全力で戦うのは辛いようだった。
イーノスから距離を取り、武器を構え直す彼の息は、はっきりと荒くなっている。
イーノスが駆け出す。
先生は躱さず、攻撃を受け止めるつもりだ。
イーノスは棒を逆手に持ち、妙な体勢から攻撃を仕掛けた。
剣の柄で突くかのように、先生の武器の中腹を打つ。
次の瞬間、バキバキと派手な音を立てて、棒が折れた。
ワアッと歓声が沸き起こる。
武器が破壊されたため、試合は終了だ。
勝者はもちろん、先生の武器を破壊したイーノスだった。
「やれやれ。やっぱり勝てないか」
鳴り止まぬ歓声と拍手の中、木屑を払って立ち上がった先生は、イーノスに握手を求める。
「十年前にも勝てなかったが、今も勝てないな。相変わらず強い」
その言葉に、イーノスは小首を傾げながらも、ニカッと笑って答えた。
「ありがとう。なかなか楽しかったぞ」
その後、生徒たちはイーノスに群がり、口々に「すごい」「すごい」と褒め称えた。
先生たちはコリウス先生の無事を確認し、安堵の表情を浮かべている。
僕もそっと近付いて、様子を伺った。
「このくらいまでは大丈夫だ。神子は、普通の人間には危害を加えん。心配するな」
そう語るコリウス先生の声を聞き、僕は理解した。
――彼は、事情に疎い先生たちを安心させるために、敢えてこの試合を行ったのだ。
普通の人間は、イーノスにかすり傷ひとつ負わせることすらできない。
だから普通に接している限り、イーノスに殺されることもない。
その事実を、彼は皆の目の前で実証してみせたのだ。
「私たちは、過剰に怯えすぎていましたね」
スタン先生の呟きに、ミラ先生とキンバリー先生が静かに頷く。
この出来事は、先生たちだけでなく、生徒たちにも大きな影響を与えた。
“思ったほどパッとしない”と侮られかけていたイーノスの印象は、ここではっきりと覆された。
イーノスは、その有り余る武才によって、学生たちの心を掌握する。
「イーノス様はすごい」
「間違いなく神子だよ」
「先の戦争の英雄だ!」
この一件以来、イーノスを悪く言う学生はいなくなった。
彼は学校のシンボルとしての地位を確立する。
それが良いことだったのか、悪いことだったのかは分からない。
ただ、イーノスは名実ともに――風見鶏の主となった。




