第十五章(1)
いつの間にか暦は七月に入り、学生たちは一か月後に控えた中間考査を意識した生活へと移行していた。
彼らの適応力は驚くほど高い。ほとんどの生徒は、神子が学内を普通に歩いていることにもすっかり慣れ、今では無関心に通り過ぎられるほどの余裕さえ生まれつつあった。
僕たちも学業の遅れを取り戻すべく、予習復習に勤しんでいたが、だからといってイーノスのことを放置していたわけではない。
今ではハーベストとバートだけでなく、彼らの友人グループであるニース、カレン、サーシャ、クリスも、イーノスと一緒にボードゲームをしてくれていた。そのおかげで、僕が付きっきりで世話をする必要はなくなっていた。
教えるのが上手いニースが先生役になり、読み書きの授業をしてくれることもある。イーノスは、そうした時間をわりと楽しそうに過ごしているように見えた。
一方で、禁書が盗まれた事件については、僕自身すっかり忘れかけていた。
だが未だにアイビー先生は、僕を犯人だと信じ込んでいるらしく、顔を合わせるたび、歯軋りでもしそうな勢いで睨みつけてくる。
そんな顔をされても、知らないものは知らない。どうしようもなかった。
本来なら真犯人を探すべきなのに、彼女の頭にはその選択肢がまったく無いようだった。
そんな日常の、ある日のこと。
僕はひと月ぶりに、コリウス先生に呼び出された。
先生はいつものように僕を講堂前の人通りの少ない広場へ連れていき、ベンチに腰掛けるなり、両手で頭を抱え込んだ。
「どうしたんですか、先生」
「おい、フリック。お前まで、ずいぶん他人事なんだな」
「え?」
まさか開口一番で非難されるとは思わず、僕は思わず肩をすくめる。
「『え?』じゃないだろう。何も解決していないんだぞ。禁書の盗難事件は」
「ああ……そうですね。そうでした」
改めて言われて、ようやく思い出す。
イーノスが「フリックを困らせるようなことはするな」と命じたことで、事件はうやむやになっただけだ。何ひとつ解決していない。
コリウス先生は、大きなため息をつきながら言った。
「悪かった。お前を責めても仕方がないことはわかっている。しかしな、本当に皆が無関心すぎる。どうしたものかと、頭を抱えているんだ」
「アイビー先生は、未だに僕を睨んできますけど」
「アイビーは、今でもお前が犯人だと疑っている。それはもう仕方ない。問題は、他の連中だ」
「他の連中、ですか?」
コリウス先生は眉間に深い皺を寄せて続ける。
「誰も真犯人を探そうとしない。フリックが犯人ではないのなら、誰が禁書を盗んだのか、禁書の所在を突き止めるべきだと主張しても、誰ひとり協力しようとしないんだ」
特に酷いのは学長だ――。
先生は語気を強め、吐き捨てるように言った。
「私は学長に進言した。フリックは今も犯人と誤解されている、このまま有耶無耶にしていいのかと、な」
何と答えたと思う?
先生は、憎々しげに細めた目を僕に向ける。僕が首を傾げると、鼻息荒く続けた。
「『どちらでもいいじゃないですか』だぞ。ふざけている。
『フリックくんが犯人でも、そうでなくても、どちらでもいいじゃないですか』なんて、教育者の言うことか? 私は耳を疑った」
――ああ、なるほど。
コリウス先生は、僕の名誉が損なわれていることに怒っているのだ。
僕も、もう少し怒るべきなのかもしれない。そんなことをぼんやり考えたが、それよりも心に引っ掛かる言葉があった。
“どちらでもいい”。
それを学長が口にしたという事実に、強い違和感を覚えた。
その言い方が、ライズによく似ている気がして、どうにも気になった。
「“どちらでもいい”って、どういう意味なんでしょうか。犯人が誰でもいい、禁書が見つからなくても構わない、ということですか」
「そんなはずはないだろう。バルマー・ブレガーが残した、賢者の錬石について記された研究書だ。もし紛失したまま他国に流出でもしたら、学長といえど、ただでは済まない」
「風見鶏から流出しないと、わかっているんじゃないですか?」
「…………?」
コリウス先生は、目を丸くして僕を見た。
「何が言いたい。学長が真犯人だとでも言うのか?」
「いえ、とんでもないです。ただ……学内の人間であれば、誰が犯人で、どんな目的で盗んだのかは、どうでもいいと思っているんじゃないかと」
「?」
「犯人を泳がせて、何が起こるのかを見てみたいだけなんじゃないでしょうか」
コリウス先生は、僕の言葉をうまく咀嚼できていない様子だった。
それは僕自身も同じで、どうしてそんな考えが口をついて出たのか、よくわかっていなかった。
気まずい沈黙が流れたあと、先生が重たい口を開く。
「とにかく、盗みの犯人はハックフォードで間違いないと思っている。だが最近、あいつは私から逃げ回っていて、さっぱり捕まらん。捕まえたと思ったら、『フリックと三人でないと話を聞かない』と言い張るんだ」
「僕と三人で……? どうしてでしょう」
「わからん。あいつの考えていることは、さっぱりだ……」
コリウス先生は腕を組み、難しい顔をする。
彼は、僕とハックフォード先生を会わせたくないようだった。
前回のことを思えば、僕だってできれば会いたくない。
それでも、僕が行かなければ話が進まないのなら――。
「僕が行けば話が進むなら、行きます。
ハックフォード先生に会いに行きましょう」
渋るコリウス先生をなんとか説得し、僕はハックフォード先生の研究室へ向かった。
助手に事情を伝えて取り次いでもらうと、驚くほどあっさり面談がセッティングされる。
教授室の応接机で待つこと十分ほど。
ようやく現れた待ち人は、薄く笑みを浮かべながら、こちらを見下ろしてきた。
「わざわざご足労ありがとう。フリック・ラーベスくん」
その声音を聞いた瞬間、背筋に冷たいものが走る。
この人は、僕を罠にかけた張本人だ。それなのに、何事もなかったかのような顔で目の前に現れる。いったいどういう神経をしているのだろう。
――いや、待て。
僕たちが勝手に真犯人だと決めつけているだけで、彼は無関係なのかもしれない。
そう自分に言い聞かせてみたものの、それでも違和感は拭えなかった。
「先月は大変でしたね」の一言くらい、あってもいいはずだ。
だけど彼は、何の前置きもなく、当然のように本題へと入った。
「さて、コリウス。話があると言っていましたが、何でしょうか」
「ハックフォード。すっとぼけるのも大概にしろ。貴様の方こそ、私たちに言うことがあるだろう」
敵意を隠そうともしないコリウス先生に対し、ハックフォード先生はやれやれと肩をすくめる。
「何をそんなに怒っているのかわかりませんが……。私は、神子の件について話を進めたいのですが」
「お前のペースで話を進めさせるつもりはない! まずは禁書盗難の件だ」
「ほう」
ハックフォード先生の眉が、ぴくりと動いた。
“聞いてやるから言ってみろ”とでも言いたげな、尊大な態度で、彼はコリウス先生を見下ろす。
だが、コリウス先生も一歩も引かない。
鋭い眼差しで睨み返しながら、強く言い切った。
「貴様が犯人だとわかっている。アイビーの研究室に親戚を送り込んだな。
四年生のサリー・ハーバーを使って、禁書の保管場所を突き止めた」
サリー・ハーバー?
副寮長のサリー先輩の名前が出てきて、僕は思わず息を呑む。
「誰に実行させたのかまでは知らん。だが、サリー・ハーバーを通じて誰かに禁書を盗ませた。
そして、盗んだノートの一部をフリックの部屋に隠させ、マルタ・ルビスに偽証をさせた」
マルタ・ルビス。
――退学してしまった、同級生だ。
知っている名前が次々と挙がり、頭が追いつかなくなる。
僕はただ黙って、その追求を聞いているしかなかった。
「実行犯は、おそらく退学した生徒の中の誰かだ。
まさか、風見鶏の外へ持ち出させてはいないだろうな?
禁書は今どこにある。……貴様が持っているのか?」
僕は、ハックフォード先生が単独で禁書を盗んだのだと思い込んでいた。
だが、もし生徒の中に共犯者がいたのだとしたら――。
そういえば、サリー先輩はロイドさんのように、新入生を集めて七不思議の噂を吹き込んでいた。
あれも、すべて――。
ハックフォード先生は、彼らを裏で操る黒幕だったのか?
ハックフォード先生は、コリウス先生に詰め寄られてもまったく動じていなかった。
ゆっくりと息を吐き、「やれやれ」と首を振って応じる。
「そのような下らない話をするために、フリックくんを呼んだわけではありません。もっと建設的な話をしましょう」
「誤魔化すな!」
「ほら、フリックくんがつまらなそうな顔をしていますよ」
突然こちらに視線を向けられ、僕はぎょっとする。
別につまらなそうな顔をしているつもりはないのだけど、ハックフォード先生は薄ら笑いを浮かべたまま、じりじりと距離を詰めてきた。
「イーノス様の存在が、皆に受け入れられて嬉しいですよね。怪我の功名というやつです。ねえ、フリックくん」
「えっ……まあ、そうかもしれませんけど」
「おい、フリック! こいつのペースに乗せられるな!」
「イーノス様が他のことに気を取られている今だからこそ、我々は彼のために、落ち着いて議論することができるのです」
「…………」
いけない。
ハックフォード先生は、僕のほうが誤魔化しやすいと判断して、意図的にこちらを攻撃してきている。
僕は何も言うまい。コリウス先生に任せよう――そう決意した、その瞬間だった。
意外にも、口を開いたのはコリウス先生のほうだった。
「そういえば、お前は言っていたな。“賢者の錬石があれば、神子の仲間を復活させることができるかもしれない”と。あれは本当なのか?」
コリウス先生!
あなたのほうが先に引っかかってどうするんですか……。
釣り針にかかった獲物を見るかのように、ハックフォード先生はニタリと笑い、メガネをクイッと持ち上げた。
「そうそう。その件を議論する前に、聖地の件を先に話したほうがよいと思いましてね」
「聖地? なぜだ」
「なぜって、コリウス。聖地サイグラムは神子の故郷です。仲間を復活させても、住む土地がなければ困るでしょう?」
「だから、なぜ聖地が問題になる。元々、聖地は神子の土地として、どの国も不可侵という決まりになっているはずだ」
その問いかけに、ハックフォード先生は呆れたようにため息をついた。
コリウス先生はむっとして声を荒げる。
「言いたいことがあるなら、はっきり言え!」
「“聖地が不可侵”などと、お花畑なことを言っているのは、アスティリア神教を盲信する老害と、あなたくらいですよ。随分前から、トゥリク帝国は聖地に調査団を入れ、アスティリア軍と小競り合いを続けています」
「……! なんだと?」
「アスティリアの老害たちは、トゥリクに対して“遺憾だ”“神罰が下る”などと言うばかりで、実質的には何の対処もできていない」
このままでは聖地の貴重な資源は、すべてトゥリク帝国に奪われてしまう――
そう語るハックフォード先生を前に、コリウス先生の顔色はすっかり変わっていた。
「現在のアスティリアは、そのように口ばかりで、何もできないのです。なぜだかわかりますか?」
「……なぜだ?」
「神子がいるからですよ。神子が、何もせず、何も言わず、ただこの国に“存在している”だけだからです!」
バン、と机が叩かれる。
その音と勢いに、僕らは思わず言葉を失った。
話の流れが完全に変わってしまい、口を挟むこともできないまま、彼の言葉は続く。
「これは神子の危機ではありません。国防の危機なのです。
お分かりですか? 神子は、ご自分の要求を明確にし、他国にプレッシャーを与えなければ、権利すら守れないということを、理解していない。そこが、今の最大の問題点なのです」
「…………」
コリウス先生が、「なるほど、一理ある」と言いたげな表情をしているのが、僕にも分かった。
この人は、根っこが“善人”なのだ。
ハックフォード先生を警戒しろと言いながら、結局は手のひらで転がされてしまう。そういう、分かりやすい人だ。
そして、僕自身も決して芯の強い人間ではない。
ハックフォード先生の言葉が、だんだんともっともらしく聞こえてきて、つい鵜呑みにしそうになる。
彼の思う壺だと分かっていながら――
僕は、彼の提案に耳を傾けてしまった。
「フリック・ラーベス。貴殿に来てもらったのは、他でもありません。
神子様は、貴殿に全幅の信頼を置いておられる。貴殿のお陰で、神子様は未だ眠りにつくことなく、我々に興味を抱いてくださっている」
ハックフォード先生は、淡々と、しかし逃げ場を塞ぐように言葉を重ねる。
「だからこそ、貴殿には――イーノス様の興味を、外へ向けてほしい。
ご自身の権利を主張するために、政府へ働きかけるよう、説得していただきたいのです」
「でも……僕に、そんなこと……。国のことも、あまり詳しくありませんし……」
「時間はかかっても構いません。
神子様が、我々に失望しないようにしていてくれれば、それでいい。そうすれば――自ずと、やるべきことは見えてくるでしょう」




