第十四章(3)
アイビー先生の事件が起きてから、ずいぶん慌ただしい日が続いた。
けれどイーノスのおかげで元の生活に戻れた僕は、以前と同じようにマーガレットとライズと、平穏な毎日を過ごすことができていた。
「あなたが連れていかれた後、わたしたちも大変だったのよ!」
マーガレットは僕の無事をひとしきり喜んだあと、一転して顔をしかめ、これまで溜め込んでいた愚痴を吐き出し始めた。
「ここ数ヶ月の行動について、洗いざらい話せって言われたの。わたしとハーベスト、バートが順番に呼ばれて、長時間ずっと質問責めよ」
ちょっとばかり消灯時間に関する校則を破ったくらいで、それ以外は特に非難されるようなことはしていない。
マーガレットは、イーノスの世話をしていたことを説明し、盗難については何も知らないと繰り返したという。
「だって、本当に知らないもの。アイビー先生の部屋にあった大切な本? 全然なんのことやらわからないし、フリックがそんなもの盗んで何のメリットがあるのって、逆に聞いたわ」
そうだよね。
僕は、マーガレットたちにハックフォード先生とのやりとりを、ほとんど話していない。
アイビー先生の部屋にあったものが『大帝国の禁書』だということを、彼女は知らないのだ。
「実はね、少し前……僕とコリウス先生は、ハックフォード先生の部屋に行って、その本について聞いたんだ」
アイビー先生が探していた本が『大帝国の禁書』であること。
そこに賢者の錬石の作り方が記されていること。
そして、その本をハックフォード先生が欲しがっていたこと――それらを二人に語った。
「ハックフォード先生が去年、僕に『クラフティクラフトの錬成方法が書かれた本は、別のところにある』って入れ知恵をしてきた話はしたよね」
「ええ。図書館の書庫に忍び込んだ時のことよね」
「多分あの時からずっと、彼は僕にその本を盗みに行かせたかったんじゃないかと思うんだ」
「どうして?」
「わからないけど……。ハックフォード先生は賢者の錬石の研究を進めたくて、アイビー先生は進めたくない。そんなすれ違いがあるように、僕には思えた」
ハックフォード先生は、その膠着状態を破りたかったのかもしれない。
誰でもいいから賢者の錬石の情報を炙り出させて、研究を再開させるきっかけにしたかった――そんな気がした。
「不可解なのは、アイビー先生がハックフォード先生の犯行を、まったく疑おうとしないことなんだ。最初に僕を疑って、コリウス先生を疑って、マーガレットやハーベストを疑ったのに、ハックフォード先生だけは疑わない」
彼女が、「オッペンハイム家の人間だから、そんなことをするはずがない」と語っていたらしいことを、僕は二人に伝えた。
「オッペンハイム家は、ベルア州の中級貴族よ。錬石の採掘権をたくさん持っているお金持ちで、錬石の国内利用を熱心に進めている家系、っていう印象があるわ」
錬石に多大な財力を投資している貴族だから、ブレガー家ともかなり関わりが深いと言えるでしょう。
マーガレットはそう分析した。
「そうなの? ライズ」
「さあね。どうだったかな」
当のブレガー家であるライズに話を振ってみたけれど、彼はいつものように課題を進めるばかりで、真面目に取り合ってくれない。
その態度がもどかしくなって、僕は少しだけ強い口調で問いかけた。
「ライズは何とも思わないの? アイビー先生がずっと隠していた禁書が盗まれたんだ。同じブレガー家の人間として、少しは焦ったり、悩んだりしないの?」
一年前、君は僕に話してくれたじゃないか。
――クラフティクラフトの樹状連晶は、“賢者の錬石”なんかじゃない。
血にまみれた“愚者の石”だ。
あれに関わるのは、やめたほうがいい。
ろくなことにならない。
珍しく強い口調で、そう助言してくれたのに。
その危険な研究が表に出てしまうことに、何も感じないのか?
口にはしなかったけれど、そんな思いを込めて、僕は彼をじっと見つめた。
多分、僕のかけたプレッシャーは伝わっていたと思う。
ライズはため息をつき、顔を上げると、しかめ面のままこう言った。
「あの研究ノートのことは、一応知っているよ。
――叔母さんのしていた通り、金庫にしまって外に出さない方が無難だと思うね。
そう思わない勢がいることも知ってはいるけど、馬鹿だなぁって思うだけで、ぼくにとっては、どっちでもいい」
叔母さんはどうして本を燃やしてしまわなかったのか。
面倒なことになった、とブツブツ文句を言うライズ。
「なによあなた、前から禁書の内容を知っていたの? どうして教えてくれなかったの?」
「教えるわけがないでしょ。そこまで仔細は知らないし、他人に話すような内容じゃない」
「どんなことが書いてあるのよ」
「知らない方がいい。きみは多分、自分の国が嫌いになるよ。だから、知らない方がいい」
「なによ、さっきはどっちでもいいって言ってたじゃない!」
マーガレットはライズにのしかかり、肩を揺すったり、頬を引っ張ったりしながら、どうにか口を割らせようと喚き立てている。
ライズは「どっちでもいい」と言いながら、この件について、自分から語るつもりはまったくないようだった。
「二人とも、図書館では静かにしようよ……」
僕はそう制することしかしなかったけれど、ライズの言動には、ひとつ引っかかるものが残っていた。
――ライズの“どっちでもいい”って、いったい何なんだろう。
ライズはよく「どっちでもいい」と言い、自ら干渉しようとしない。
けれど、「どっちが自分にとって都合がいいか」は、きちんと考えている節がある。
それなら、どうして積極的に干渉して、都合のいい選択肢を選ばせないんだろう。
彼なら、他の誰よりも上手くやれるはずなのに。
「禁書を燃やした方がいい」と思っていたなら、アイビー先生にそう進言すればよかった。
「僕が“余計なこと”をして、イーノスを動かしたり、ハックフォード先生に禁書を盗まれたりしない方がいい」と思っていたなら、そうならないよう誘導してくれればよかった。
けれど、彼はしなかった。
どうして彼は、干渉しないんだろう。
本当に“どっちでもいい”なら、後になってぐずぐず愚痴なんて言わないはずだ。
つまり彼は、本当は“どっちでもよくない”のに、「どっちでもいい」と言って干渉しない。
どうしてだろう。
わけがわからない。
去年の夏祭りでは、「どっちでもいい」と言いながら、僕を夏祭りに連れ出してくれた。
どうして、あの時は干渉してくれたのか。
彼にとって、“どっちでもよくないこと”って、何があるんだろうか。
この事件の結果、最も顕著に変わったことは“イーノスの待遇”だった。
彼は以前のようにこそこそと動き回る必要がなくなり、日中の学内を堂々と出歩いてよいことになった。
彼の部屋が講堂の最上階であることが公表され、彼が許した者は自由に出入りしてよいこと、また彼自身は学内のどこへ侵入しても構わないことが定められた。そのおかげで、彼が退屈を感じることは少なくなっただろうと思う。
「イーノスの命を狙う人がいるってことを、学長は知らないのかしら。護衛も付けずに自由にさせるなんて、どうかしてるわ」
マーガレットは心配そうにそう言ったが、僕はしばらく考えたあと、こう結論づけた。
「ここまで彼の存在が公になってしまったんだ。ゼリーの件を知らなくても、イーノスを暗殺しようなんて、誰も考えなくなるんじゃないかな」
「どうして?」
「だって、皆がイーノスの存在を知っている。どこで誰が見ているかもわからないし、暗殺するにはハードルが高すぎるよ」
それに、眠っているイーノスを刺すのと、起きているイーノスを刺すのとでは、難易度が違うだろう。
暗殺に失敗し、なおかつ神子に顔を見られたら最後、一族郎党が破滅してしまう。
「なるほど……。そうかもしれないわ。学長が神子をお披露目したのは、それが狙いだったのかしら」
「さあ……どうだろうね」
この一件以降、イーノスを暗殺しようとする人が現れることはなかった。
それどころか、七不思議を探ろうとする人もいなくなってしまったように思う。
七不思議のうちのひとつ、『神の子の棺』が実在すると公表されただけなのに、『他の六つ』について疑問を挟む人すらいなくなった。
イーノスの存在の露見は、風見鶏の学生たちにとって、それほどまでにインパクトの強い出来事だったのだ。
イーノスは僕以上に有名人になり、たくさんの学生に追い回される日々を送っていたが、相変わらず僕にだけは懐いていた。
「フリック! どうだ? 困ったことは、もう起こっていないか?」
「イーノス。ありがとう。君のおかげで、元の生活に戻れたよ」
彼はまた三階の窓から僕の部屋を覗きにやってきて、今度は素直に中へ入ってきた。
「大きい白いフカフカが、俺様の好きにしてもいいと言うんだ」
「そうらしいね。どうするの? 仲間のニオイを辿るの?」
「そうだな。それくらいしか、したいことがないし……」
そう言いながら、イーノスは眉をひそめ、困ったような表情を浮かべた。
「どうしたの?」
「いや、仲間のニオイなんだが……今までしていた場所から、ニオイがしなくなったんだ」
「ハックフォード先生の研究室から?」
イーノスは頷いた。
「だから、違う場所を探さないといけない。次は“劣化した人間”がいない場所だといいんだが」
「そうだね……」
相槌を打ちながら、僕は思案を巡らせていた。
彼の言う“仲間のニオイ”とは、仲間の欠片である『腐らない腕』から発せられるニオイのことだ。
彼はまだ、その事実を思い出していないはずだ。
もし気づいてしまったら、強いショックを受けるかもしれない。
でも、それを避けるべきなのだろうか。
いずれ思い出すのなら、早く知らせてあげるべきじゃないのか。
わからない。
わからないけれど、僕の口からは、こんな提案が自然とこぼれ落ちていた。
「イーノス。仲間探しもいいけどさ、もっと僕の仲間たちと交流するのもいいんじゃないかな」
「交流?」
「うん。ゲームをしたり、お話ししたりさ。せっかく仲良くなれたんだ。もっと僕たちは分かり合えると思うんだ」
「…………」
「そうだ。一緒に勉強してみるのはどうかな。僕たちの文字とか、興味はない? よかったら教えるよ!」
「文字……」
「授業が終わったら、僕たちはいつも図書館で勉強するんだ。よかったら、君も一緒にどう?」
「……うん。わかった。考えておく」
その後、消灯時間までのんびりとした時間を過ごし、そろそろ眠りたいと告げると、彼は窓から部屋を出ていった。
今度はポールや街灯を伝って、うまく地上に降りたので、クレーターは発生しなかった。
僕はその晩、久しぶりに部屋のベッドで眠りについた。
悪夢を見ることもなく、静かに朝を迎えることができた。
それからしばらく、悪夢を見ることはなかった。
それどころか、別世界のマーガレットたちが出てくる、あの奇妙な夢を見ることもなくなった。
もしかしたら、あの時の昏睡は、僕にとって必要な休息だったのかもしれない。




