第五章(4)
「フリック・ラーベス。お前と話がしたい。少し時間をくれないか?」
僕がそう声をかけられたのは、藍曜日の授業後。戦闘学基礎Ⅰが終わり、寮に帰還する死者の行進に加わる直前のことだった。
「じゃあ私たち、先に帰っているわね」
マーガレットはそう言って、軽い足取りで同級生たちを追い抜いていく。ライズが最後尾から無言で付き従っていくのを見送った僕は、怪訝に思いながらも声の主へ向き直り、「大丈夫です」と返事をした。
僕を引き止めたのは、コリウス先生だった。僕は彼の授業では落ちこぼれだったから、補講の宣告でも受けるのかと内心ドキドキしていたが、どうやらそうではないらしい。
「場所を移そう」
ひとことそう言って、彼は大股でスタスタと歩き始めた。足が長いから、ものすごく速い。僕はほとんど走るようにして、彼を追いかける羽目になる。
何の用だろう。僕はこの先生と、ほとんど話したことがなかった。四月に一度だけ、博物館で出くわしたときに会話をしたくらいだ。その時の彼は僕に好意的だったが、それ以来、特に接点はなかった。だから、特別気に入られているわけでもないと思っていた。
そんな彼が、僕に一体何の用だろう。
彼が向かったのは、講堂の前の広場だった。すぐ近くにバス停があるので、休日には人通りが多いが、平日の昼間はあまり人気がない。
それを知っていて、ここを選んだのだろう。あまり他人に聞かれたくない話題なのだと理解し、僕は生唾を飲み込んだ。
「フリック。あれが何故動かないのか、知っているか」
先生は講堂のてっぺんを指差し、突然そんなことを尋ねてくる。
「あれって……『回らない風見鶏』ですか?」
先生は頷いた。七不思議の六つ目、『回らない風見鶏』。七不思議と呼ばれているくらいだから、その正体は謎に包まれている。何故回らないのかなんて、僕にわかるはずがない。
「わかりません。学校のシンボルだから、元々回すつもりで作っていないだけじゃないですか?」
「そうだとしたら、あれはどこを向いているんだろうな。学校のシンボルは、どこを向けて作らせたものなのだろう」
「…………?」
先生は一体、何の話をしているのだろう。僕は疑問符を浮かべながら、彼の横顔を眺めた。
相変わらず端正な顔立ちだ。マーガレット以外の同級生の女の子たちは、いつも格好いい男の子の話ばかりしているのだけれど、彼女たちの話題に上るイケメンは、大体どこのグループでも三人に絞られる。
ハーベストと、バートと、コリウス先生だ。
僕は男だから、この先生の顔を見ると、逆に苦々しい思いになる。
神さまは不公平だ。地位と実力と容姿を、すべてひとりに与えてしまうなんて、あまりにもズルい。
どうせそんな僕の考えなど思いもよらないのだろう。彼はこちらを振り返って、こう言った。
「私は調べようとしたことがある。十数年前のことだ。その時は、まだ私も風見鶏の学生だった」
「え……そうなんですか?」
僕は驚いた。もしかして彼は、僕に七不思議の調査の話をしようとしているのだろうか。
今まで、どの先生も自分から話題にすることはなかった。尋ねたら答えてくれる先生もいたが、その答えは曖昧だったり、煙に巻いたり、嗜めるものばかりだった。
それなのに今、コリウス先生は自分からその話題を振ってきている。
「結局、わからなかった。風見鶏がどこを向いているのか、私には聞き出せなかった」
「そうなんですか……」
“聞き出せなかった”という言い回しが気にかかったが、僕は問い掛けるタイミングを失してしまう。何を尋ねていいかもわからず黙り込んだ僕に、先生は微笑を浮かべて言った。
「お前はもう、調べるのをやめてしまうのか?」
「え……」
戸惑う僕に、彼は同じ問いを繰り返す。
「もう七不思議を調べるのを、やめてしまうのか」
「だって……僕、退学になりたくないですし……」
「退学?」
「退学……になったじゃないですか。ロイドさんとレニーは……」
そうぼやいた僕に、彼はアハハと笑った。
「あれは“不敬行為”をしたからな。仕方ないだろう」
「不敬行為って、何なんですか。七不思議を調べるのは、不敬行為ではないんですか?」
「不敬行為ではない。不敬行為とは、“彼”を傷つけようとすることだ」
「彼って……」
神子のことですか、と問おうとして、やめた。彼のことに言及するのは、まだ怖かったからだ。
その考えを読んだかのように、コリウス先生は言った。
「神子を怖れることはない。あれはただの子供だ。むしろ、あいつのほうが私たちを怖れている」
「怖れている? 僕たちを、ですか」
先生は頷き、講堂のてっぺん――例の部屋を仰ぎ見た。
「あいつを怖れる必要はない。あいつは人間ではないが、神でもない。ただの、哀れな子供だ」
「……僕に、どうしろと言うんですか……」
「あいつに興味を持ってほしい。でなければ、何も始まらん」
「どうして、僕にそんなことを言うんですか」
「お前が、私に似ているからだ。お前なら動かせるんじゃないかと思っている」
似ている? どこが。背が高くて、筋肉があって、貴族の家系で、『風見鶏の錬成師』である彼と、僕のどこが似ているというのか。
不審な顔で見つめる僕に、彼は小首を傾げて見せた。
「私の名字を知っているか、フリック」
「えっと、確か……」
シラバスに書いてあったのを覚えている。
コリウス・アド・ジータ。確か、そんな名前だったはずだ。
「あれは名字ではない。アド・ジータとは、ジータ学長が後見人を引き受けてくれている、という意味だ」
「え……? そうなんですか」
じゃあ、どういうことなんだ。コリウス先生の本当の家名は――?
僕が混乱していると、彼はあっけらかんと言った。
「私は孤児だ。風見鶏に初めて入学した平民はお前だろうが、初めて入学した孤児は、私なんだぞ」
「……!」
孤児。それは、捨てられたり、死別して親を亡くした子供のことだ。戸籍にも載らず、名字もなく、将来は国から与えられた小さな土地を耕し続ける隷農になるか、貴族の家に引き取られて使用人になるしかないと聞く。
戸籍があり、名字があり、家を持つ平民である僕よりも、さらに恵まれない身分の子供――それが孤児だ。
驚いた。まさか、そんな境遇の人間が風見鶏の教授という名誉を勝ち取っているなんて。
「私はお前と同じく、学長に期待されて風見鶏に入ったが、ある程度は期待に応えられたのだろう。だから彼は私の養父になってくれ、今の地位が与えられた」
「僕も、学長に期待されているんですか?」
「過去に私が七不思議を動かしたから、恐らく学長はお前も動かせるんじゃないかと期待している」
「学長は、学生に七不思議を調べてほしいと思っているんですか?」
「明言はしていないが、恐らくそうだ」
「どうして、明言しないんですか」
「明言すれば、皆が調べるだろう。それでは駄目だ。神子が怖がってしまう」
「不敬行為をしない、勇敢な生徒だけに、こっそり調査してもらいたい……ということですか」
「私は、そうだと思っている」
学長は、養子でもあるコリウス先生にすら、はっきりとは命じていないのか。
だから先生たちは皆、学長の思惑をそれぞれの解釈で受け取り、バラバラの行動をとっている……。
意味がわからない。学長は何故、こんなに分かりづらいことをするのだろう。
「お前ももう知っていると思うが、アスティリアには様々な立場の人間がいる。特に貴族には、不敬行為に及ぶ者もいれば、逆に盲信する者、自分の目的のために利用しようとする者もいる。そういう連中と適切な距離を取るのは、非常に難しい」
「だから、貴族じゃない僕たちに期待するんですか?」
「余計な先入観を持たず、適度な野心がある私たちだからこそ、できる行動がある」
……なんとなく、理解できてきた。
コリウス先生が、わざわざ僕だけにこんな話をしに来たことも。
先生たちの煮え切らない、どこか怪しい動きも。
その理由が、ぼんやりと見えてきた。
けれど、僕は不満だった。
平民だからといって、万能なわけじゃない。勝手に期待されても困る。
僕はコリウス先生とは違う。ただの平民で、ただの子供だ。ひとりで七不思議の調査を背負えと言われるなんて、勝手な言い分だ。
「じゃあ、教えてください。コリウス先生は十年前、どこまで調査して、何がわかったんですか」
「悪いが、私の話は参考にしないでくれ。私は失敗してしまった」
「失敗……?」
「恐らく、神子を傷つけてしまったから……彼はまた眠りについてしまった」
「不敬行為をしたんですか?」
「罰せられはしなかったが、そうなのかもしれん」
先生は緩く首を振りながら、続けた。
「何が正解で、何が誤りだったのかが、今もわからない。だから私は、お前に良い助言をすることができない」
今言える、少なくとも正しいと思える忠告は……。
彼はそこで言葉を切り、しばらく考えた後、こう告げた。
「――ハックフォードに気を付けろ。それくらいしか言えん」
「ハックフォード先生……?」
「ああ。あいつは私の同級生だった。……あいつは危険だ。気付かれないよう、注意しろ」
その直後、チャイムが鳴り、先生は授業へ向かってしまった。
僕は寮へ戻りながら、彼に言われた内容を反芻した。
学長は、僕に期待している。
七不思議を調査し、神子を動かしてほしい。
コリウス先生は、十数年前に神子を目覚めさせた。
コリウス先生は孤児だが、その功績を認められて学長の養子になった。
コリウス先生とハックフォード先生は同級生。
ハックフォード先生は危険。
ハックフォード先生に、気付かれるな。
…………。
よくわからないが、生徒が神子と関わることは、先生たちにとって望むところなのだろうか。
気を付けるべきはハックフォード先生だけで、他の先生は味方ということなのだろうか。
僕は、コリウス先生がアイビー先生と仲が良いことを思い出していた。
なら、アイビー先生も似たような考えを持っているのだろうか。
そのとき、ある言葉が脳裏によみがえった。
『平民だろうが孤児だろうが、実力のある者が上に立つ社会なんだ、ここは!』
ダミ声で捲し立てたのは、戦闘学のヘルムート・ベルハルト先生だ。
彼は、僕の入学を受けてそう言ったのだと思っていたんだけど――
もしかしたら、コリウス先生のことを指してそう言ったのかもしれない。
コリウス先生は、今年教授として風見鶏に入ってきたそうだし。
僕の中で、先生たちに対する底知れない不安感は、少しずつ萎んでいき、代わりに等身大の人間らしさが感じられるようになっていた。
先生たちも、学長の期待に応えたいと思っている。
神子に、どう応対すべきかもわかっていない。
それは、僕とほとんど変わらない状態なのかもしれない。
寮に着くと、いつものようにライズが長椅子で爆睡していた。
彼がそんな状態だからか、マーガレットは部屋に遊びに来ていない。
僕は今日のことを、ふたりに相談するか悩んだが、とりあえずはやめておくことにした。
僕たちは学生で、学業が本分だ。
一部の生徒に、それ以外の課題を背負わせるのは、フェアじゃないはずだ。
平民の僕にだって、権利はある。
普通の学生として学校生活を送り、普通に卒業して、良い職業に就く。
そんな権利があっても、いいはずじゃないか。
この数週間、ぬるま湯にどっぷり浸かってしまっていた僕は、
この時まだ、七不思議に関与する決心がつかないでいた。




