第五章(2)
次の日も、マーガレットは部屋に来た。その次の日も、次の日も。結局マーガレットは僕の謹慎中ずっと、ノートとお菓子を持って部屋を訪れた。
彼女の目的はいつの間にか、僕にノートを写させてくれることではなく、ライズのノートを僕と一緒に写させてもらうということに刷り変わっていた。
僕たちはこの一週間、一緒に課題をやりながら雑談をした。ロイドさんにまつわる事件のことを中心に、様々な議論をした。
特に印象に残っているのが、橙陽日、国営学基礎Ⅰの授業の後。
「国営学については、大しておもしろくないノートね」
マーガレットは写させてもらっている立場なのに、ライズのノートを偉そうに批判した。
「そりゃあライズってば、キュービット先生の授業のときはいつも眠っているし」
「えっ?! そうなの? よく眠れるわね、最前列で!」
居眠りは最後列の特権なのに、などと言い出すので、僕は失笑してしまった。
そんなことよりも、ライズのノートがきっちりとられていること自体が僕には意外だった。
「眠っている割に、ちゃんとノートをとっているんだね」
「それは予習した分だよ。あいつ、教科書通りにしか話さないからさぁ……」
「言われてみたら、そうかも」
だからライズはキュービット先生の授業では眠っているのか。つまらない授業をするなと抗議しているつもりなんだろうか。なんて嫌らしい生徒なんだろう……。
「だから言ったじゃない。あのキュービット・クラウジウスとかいう先生は大した家系じゃないし、わたしたちの家を攻撃できるような立場じゃないのよ」
「どういうこと?」
「言ったでしょ? わたしのアレクサンドラ家は代々軍の総司令のポストについているの。つまり、国の中枢でずっと活躍してきた家系なの。そのわたしが、社交界で一度もクラウジウスなんて家名を耳にしていないわけ」
「……うん」
「中枢に近い家系の出身じゃないと、国の実体は語れないわ。だから教科書通りの話しかできない。授業がおもしろくないのはそのせいよ」
「なるほど……」
よくわからないけど、マーガレットが自信満々に言うのだから、そうなのかな。
「どうしてあんなやつが、『風見鶏の政務官』として教鞭をとっているのかしら。よくわからないわ!」
マーガレットは神の子の棺に興味を持った生徒を、キュービット先生がやんわり脅したことについて未だに不満を持っているらしい。
だけど僕は、ロイドさんの件があってから、彼に関して違う印象を持っていた。
「でも、キュービット先生だけなんだよ。ちゃんと生徒を止めようとしてくれたのは」
「? どうしたの、フリック」
僕は視線を手元に落として、ポツポツと言葉をこぼした。
「先生たちは、なんだか怖いよ。七不思議についてよく知らない、そんなのほら話だって言いながら、特に注意もせずに放置しているじゃないか。そのせいでロイドさんはいなくなっちゃったし、また別の生徒が被害に遭うかもしれない」
「被害って、……退学になるってこと?」
「……うん」
僕は敢えて、ロイドさんを"退学"になったことにした。亡くなったという話を蒸し返すのにはなんだか抵抗があった。
「先生たちは、ロイドさんが『不敬行為』をしたんだって言ってた。多分、その、神子に対する不敬行為……」
「そういえば、まだ詳しく聞いていないわね。神の子の棺がある部屋に忍び込もうとしたのが、退学処分になるほどの校則違反だったの?」
「そんな校則は無いでしょ。校則違反は『消灯時間後の外出』だよ」
ライズがきっぱりとそう言う。僕はちゃんと校則を覚えていないから、その発言には助かった。
「不敬行為って言うのは、その……ロイドさんが、神子を傷つけようとしたことだよ。彼は僕の手にナイフを握らせて、神子の心臓を刺そうとしたんだ」
マーガレットは、ポロリと羽ペンを落とした。全く想定していなかった話だったようで、混乱したように口を開いた。
「え……ちょっと待って。本当に神の子の棺があって、その中に生きた神子がいたの?」
そうだった。ふたりには、まだその辺りの話をしていなかった。僕は静かに頷いた。
「棺というから、ミイラとかそういうのが安置されているのかと思ってたんだけど、棺の中には生きた男の子が眠っていたんだ」
「えぇー?! 嘘! 本当なの? 信じられない!」
「そうだよね。驚くよね、普通はね……」
僕はマーガレットの反応にホッとしながら、今までひとりで抱え込んでいたモヤモヤを少しずつ吐き出していく。
「でも、ロイドさんはなんだか変だった。神子が生きていることを知っているような口振りで……まるで初めから、神子を殺すために忍び込んだような動きで、短剣を僕に握らせたんだ」
「神子ってアスティリア建国で活躍したっていう男の子でしょ? なんで生きてるの」
「わからないよ……あ、ほら、ここに肖像画が載ってる。この子がいたんだよ!」
僕は国営学基礎Ⅰの教科書をめくり、とある一ページを指差した。そこには黒い髪の、やんちゃそうな顔をした男の子が笑顔を見せていた。
「この子が、全くそのままの年頃の姿で、棺で眠っていたんだ」
「ほんとに生きてたの? 眠ってると勘違いしただけで、ほんとは死んでたんじゃない?」
「僕だって初めはそう思ったよ。だけど、ロイドさんが生きてるって言ったんだ。それで僕もよく観察したら、息をしていたんだ」
ライズはそれを聞くと、ふぅんと相槌を打ってから、腰かけた椅子をクルリと回した。
しばらく腕を組んで黙っていたマーガレットが、代わりに口を開く。
「もし本当に神子がご健在だとして、ロイドがそんな恐ろしいことをしたなら、それはとんでもないことよ。退学になっても……いえ、死罪になってもおかしくないわ」
「えっ……そうなの?」
「ええ。もしかしたら平民のあなたには馴染みが薄いかもしれないけど……今のアスティリア国は、『アスティリア神教』を国教としているの」
アスティリア神教。確か、数回前の国営学基礎Ⅰの授業で聞いた単語だ。僕は自分のノートをパラパラめくって確認する。
「アスティリア神教は百年前、アスティリア建国をきっかけに国に導入された新たな神の教えよ。それ以前には『帝国神教』という教えが広く信じられていたのだけど、建国をきっかけに、すべての教会が破壊されたの」
「教会?」
「神の教えを国民に伝えるために作られた場所らしいわ。昔はそこを役所と同一視して、戸籍なんかも管理させていたらしいのだけど、今は役所がすべての都市に設置されたから、教会という施設は必要なくなったの」
教会を取り壊す作業はとてもたいへんだったらしい。帝国神教を信仰していた平民たちに抵抗され、完全撤去には数十年の年月が必要だったとか。
「マーガレット、国営学に詳しいんだね」
「ええ。このくらいは、地位の高い家系の子はみんな知っているわよ」
そうなんだ。じゃあ、ライズも知っているんだな。僕は横目で彼のしかめ面を捉えつつ、質問に戻った。
「代わりに、アスティリア神教の教会は建たなかったの?」
「そうみたい。わたしにもよくわからないのだけど、国はアスティリア神教の教会ではなく、ただの事務処理を行うお役所を全国に建てた。もしかしたら、帝国神教を崇拝する平民たちを刺激したくなかったのかもしれない」
「アスティリア神教は、穏便な広め方をしようとしていたのかな?」
「そうね。教会は壊したけど、帝国神教を信仰する平民を弾圧したりはしていないわ。ただ……貴族の間では、少し対応が違ったの」
マーガレットはちょっとだけ躊躇う素振りを見せながら、ゆっくりと口を開く。
「キュービット先生の発言を覚えている? 神子を信じないものは国営党員に相応しくないと。ああいう強硬派が多いのよ、首都セルグとランテスト州の貴族には。何故かはよくわからないけど、伝統ある貴族に特に多いわ。わたしのおじいちゃまもそうなの……」
「そうなんだ……」
「だから、それが面白くない人たちもいるって噂を聞いたことがある。他の州の貴族には多くて、特にジュネブ州には根強い帝国神教信奉派がたくさんいると聞くわ。もしかしたらロイドの所属するラビオリ家は、そっちの派閥の家なのかもしれない……」
僕は朱陽日の早朝に開かれた、あの会合を思い出していた。キュービット先生は、ロイドさんの背後に"錬石を提供した存在"がいると言及していた。
それはもしかして、ジュネブ州の貴族の誰か……? ラビオリ家の人たち……?
「ジュネブ州はトゥリク帝国との国境に最も近い州でしょ? だから昔からトゥリクと繋がりがある貴族が紛れていて、不穏な地域だって問題視されているの。でも、"あれ"があるから、アスティリア神教へ改教しなきゃならないってセルグから強く言われていて……」
「……"あれ"?」
「"あれ"。『裁きの光』よ。大帝国ザイヴァが解体する決め手となった事件。ジュネブ州に落とされた、神の雷のことよ」
裁きの光? 初めて聞く言葉だった。僕が唖然としていると、マーガレットが首を傾げながら言った。
「フリックってジュネブ州出身よね? しかもマクシネルって現場に近いところにあるんじゃない? 見たことあるでしょう」
「えっと、知らない……と思う」
「そうなの? わたしは見たことがないから、セルグで言われているほど大したものじゃないのかもね」
マーガレットはひとりでそう納得しつつ、話を続ける。
「『裁きの光』は百年前の独立戦争で、セルグ側とザイヴァ側の戦闘の最前線に落とされた"神の怒り"と伝えられている。その跡地には、未だに草も生えない荒野が延々と広がっていると聞くわ」
草も生えない荒野……? 僕は若干の気持ち悪さを覚えながら、自分の記憶を辿ってみる。僕の頭には、鮮やかな緑と、湖の煌めきに満たされた故郷の姿しか浮かんでこない。
「そうなんだ。ごめん、僕にはよくわからないや」
「いいえ。別にいいのよ。セルグの人たちが話を盛っているのかもしれないし。アスティリア神教の強硬派は、脅しつけるような口振りで不信心者を取り締まるのよ。どうしてあんなに頑ななのか、本当に不思議だわ」
「…………」
僕は腕を組んで、しばらく考えた。
マーガレットが言う"強硬派"。神子を信仰する勢力。なぜ彼らが神子を強く信仰するのか。その理由は、僕にはなんとなくわかる気がする……。
「どうしたの、フリック」
急に深刻な顔になった僕に、彼女はそう声をかけてきた。僕は言おうかどうしようか悩んだけど、やっぱり言っておいたほうが良いような気がして、口を開いた。
「強硬派の人は、もしかしたら……神子を見たことがあるのかもしれない。神子の姿を見れば、彼が普通の人間じゃないことはすぐにわかる……」
「百年前の姿で未だに生きているから? 確かに、言葉だけじゃ信じられないけど……実際に目の当たりにしたら、わたしも印象が変わるかもしれないわ」
マーガレットはそれで納得してしまったけど、ライズはそうではなさそうだった。彼はクルリと椅子を回して、こちらに顔を向けて言った。
「だけど、ロイドはその上で神子を刺そうとしたんでしょ。不老ってだけじゃ、狂信者にはならないんじゃないの」
その通りだ。僕は頷いて、ライズとマーガレットの顔を順番に見てから口を開いた。
「神子の姿を見ただけじゃない。多分、強硬派になるかならないかを決めるのは、『不敬行為の末路』を知っているかどうかだと思う」
「不敬行為の末路……?」
彼らの問い掛けに、僕は神妙に頷いて、答える。
「不敬行為をした人間は、神によって粛清される……。実際に僕は見たんだ。目の前でロイドさんが……人間じゃない姿に変わって亡くなってしまうのを……」




