第五章(1)
五月は白葉の月とも呼ばれる。
新しく芽吹いた葉が山々を淡い翠に染めている。もうすっかり雪はない。このベルフォートにも遅めの春がやってきたのだ。
カランカランと鐘の音が聞こえる。現在時刻は朝の九時。今日は平日の朱曜日だから、授業が始まっているはずだ。
しかし僕は教室に行くことはできない。白い垂れ幕の下がる寮の最上階から講義棟を遠目に眺め、溜め息をつく。
部屋に帰ったときにはライズはいなかった。それどころか、寮には誰もいなかった。
早朝に開催された僕の『説明会』。その異様な会を知っているのか知らないのか、同級生たちは普段通りの学校生活を送っているらしい。
ノギスさんが持ってきてくれた遅めの朝食をとりながら、僕はぼんやりと考え事をした。
どうやら僕は入学早々にして、踏み込んではいけない領域に踏み込んでしまったらしい。
僕が平民で、物を知らない子供だったから。
ロイドさんの背後に渦巻く何かの陰謀に、体よく利用されてしまったのだ。
先ほどの『説明会』。教授の半分以上が出席していた。
彼らは誰も、"不敬行為"と表現された出来事に疑問を挟まなかった。
"不敬行為"……それが何を意味するのかは、なんとなくわかる。
神子に対して、失礼なことをしたということだ。
先生たちは直接的には神子という言葉を使わなかったけど、神子が学内にいるということに驚いてはいなかった。
きっと、周知の事実なんだろう。
七不思議なんてホラ話だと笑っていたサファー先生も、神子の実在を知っていた。
知っていたのに、知らないふりをしていたんだ。
どうして? どうして隠すようなことをしていたのか。
僕は先日の出来事を思い出して、身震いする。
右手にまだ、握らされた短剣の感触が残っている。
目の前に散乱した、ゼリー状のロイドさんを覚えている。
思えばロイドさんは、マーガレットと同じ空色の瞳をしていた。
空色のゼリーが僕の方を見ていたのを思い出して、僕は思わず頭をかきむしった。
怖い。怖い。一歩間違えたら、僕がああなっていたかもしれない。
僕がああなっていても、先生たちは淡々と事件を処理したんだろうか。
人が一人亡くなっているというのに、騒ぎひとつ起こっていない。普段通り授業が始まっている。
この学校は何かおかしいんじゃないのか。
いや、おかしいのは僕の方なのか?
考えが堂々巡りしているうちに、お昼になってしまった。手の中でパサパサになったサンドイッチに気が付いて、今更ながらかじりつく。
そうこうしてる間に、ライズが帰ってきた。いつものように無愛想な顔を見て、僕はなんだかホッとしてしまった。
「お帰り、ライズ」
「ああ……いたの」
彼はそっけなくそう呟いて、まっすぐ机に向かっていった。
「今日の授業はどうだった?」
「別に。いつもと同じだよ」
朱陽日の講義は二コマある。錬石学基礎Ⅰ、為政学基礎Ⅰだ。サファー先生もアイビー先生も、キュービット先生も僕の『説明会』にいたけど、普通に授業を行ったんだな。
喉に絡み付く乾いたパンを水で流し込んでいると、目の前の長椅子にライズが座った。彼から僕のほうに寄ってくるなんて珍しいと思っていると、二冊のノートを僕に向けて突き出してきた。
「どうしたの?」
「どうしたの、じゃないよ。今日の授業の内容だよ」
「えっ? 見せてくれるの……?」
僕は目を丸くした。おずおずと一冊を開くと、几帳面な文字がびっしりと並んでいる。普段の彼の投げやりなイメージとは似つかわしくない、丁寧で洗練されたノートだった。
「写させてもらってもいい?」
「好きにしなよ」
許可がもらえたので、あわてて自分の机にノートを取りに行く。ちょうどその時、ドアが乱暴にノックされる音が響いた。
「フリーック! いるの? 開けてちょうだい!」
直後に聞こえてきた元気な声はマーガレットだ。筆記用具とノートを抱えて扉に向かうと、すでにライズが接客を始めていた。
「なんだよ、きみ。なにしにきたの」
「お見舞いに来たのよ! それと、今日のノート! 写させてあげようと思って」
「いらないよ。別に病気じゃないし。それにきみのノートって、きっと汚いでしょ。絶対いらないよ」
「なんですってー?! ちょっと、フリック! なによこの失礼なやつ、追っ払ってよ!」
あー……。喧嘩を始めてしまったふたりに、面食らう僕。でも、名指しで呼ばれてしまっているから仕方がない。僕は苦笑いを浮かべながら、ふたりに近付く。
「えっと、ありがとうマーガレット。ちょうど今からノートを写そうと思っていて……」
「そう、良かった! ついでに課題も一緒にやりましょ! お部屋に入っていい?」
え……? 他部屋の生徒を中に入れても良いんだっけ。しかも女の子を……。
僕は狼狽えてライズを見たけど、彼はすでに自分の机に戻ってしまっていた。
「寮の規則では、お昼の一時から夕方の六時までは、他の生徒を部屋に招いても良いのよ。それ以外の時間は駄目だけどね」
「そうなんだ……」
「入っていい?」
それなら拒む理由はない。僕は「どうぞ」と言って、応接机に彼女を通した。
「お見舞いにクッキーを持ってきたのよ! 食べながらやりましょ」
「あ、ありがとう」
「わたしのノートはこれよ! 今日の分は、このページからだからね!」
いつものことながら、パワフルな女の子だ。部屋の空気が一気に明るくなった気がする。
クッキーの香ばしい香りを楽しみながら、僕は彼女のノートに目を通した。
「今日の授業も難しかったわ。全然わからなかった!」
「……そ、そうだね……」
僕は多くを語らず彼女のノートを机に置き、ライズのノートを隣に並べる。
「何それ? 誰のノート?」
「ライズのノートだよ」
「…………」
彼女はクッキーを頬張りながら、何気なく目の前のノートを見比べている。一分くらい沈黙が流れただろうか。
彼女は急にバンとテーブルを叩き、大声を出した。
「なによこれ! 全然違うじゃない!」
彼女はガバッと身を乗り出してライズのノートを掴み、黙読を始める。
「今日の話はそういうことだったの? これ、すごくわかりやすいわ!」
数分後、数ページに目を通した彼女は、窓際の書斎椅子に偉そうに座っている彼に向けて、こう声をかけた。
「わたしも写させてもらってもいいかしら? あなたのノートは、先生の板書よりわかりやすくて素晴らしいわ!」
「……どうぞ」
「ありがとう!」
マーガレットはニコニコしながら僕の隣に座り直し、ライズのノートを真ん中に広げる。僕たちはふたりそろってペンを動かした。
ライズのノートには、今日の授業の要点がきれいにまとめられている。恐らくアイビー先生の講義だったのだろう。"単晶"と呼ばれる錬石の最小構造の形が、丁寧に描かれていた。
「この"錘"って形、うまく描けないの。どうやって描くの?」
「定規を使ったほうがいいよ」
「面倒くさいわ」
「でも、それじゃうまく描けないよ?」
僕たちはライズのノートを写したあと、今日の課題も一緒に解いた。各錬石の単晶の形を答えよ、というもので、とても難しかったけど、ライズのノートのお陰で満足のいくものが描けた気がする。
僕たちの後ろで、ライズも自分の課題を解いていたらしい。やるべきことが終わった僕たちは、解放感に満たされながら、しばらく雑談をした。
「錬石って、たくさん種類があるのね! この錬石は、それぞれ違った能力があるんだよね?」
「そうでしょうね。わたしたちが見たことがあるのは、ランプ石グロウリーグロウと、火力石イグノクラフト、飛行石ティフォニーハルト」
「あと……早朝のあの『説明会』で、サファー先生が言ってたクラフティティフォン。幻想を見せる石……」
僕の呟きに、ふたりは訝しげな顔をした。
そうか。ふたりは奥の部屋にいたから、話を全部は聞いていないんだ。
僕はそう気が付いたので、ふたりにその石の話をした。
ロイドさんが僕に使ったと予想される、"幻想の石"の話を。
「きみは本当に、ロイドをマーガレットに見間違えたの? 髪と目の色しか合っていなかったよね」
「うん。だからさ、幻想の石の効果はすごいんだ。他にも色々、違って見えたし。ノギスさんとか……」
「ノギス? どう違って見えたんだ」
「ノギスさんは、小さな女の子に見えたんだよ。だからその時は妹さんかなと思ったんだけど、どうも本人だったみたいで」
ライズは思い切りしかめ面をして、気分が悪そうな様子を見せた。なにかおかしなことを言ってしまったかな、と考えたけど、そもそも僕はおかしなことしか言っていないのだから、失言を気にするようなところでもないだろう。
「他には? 何か変なものを見たの?」
「えっと、それは……」
僕は神の子の棺の前にいた犬の話をしようとして、口を閉ざした。
あの犬は、変な犬だったけど……僕に対しては友好的だった。
彼女とは約束をした。
――『学長に言わないでください!』
彼女は自分の失態を、飼い主に知られたくないようだった。
友人に話すなとは言われてはいないものの、あまり話さない方がいいんじゃないかと思った。
巡り巡って、学長の耳に届いてしまうかもしれない。
しかし、あの犬は何だったんだろう。
あれこそ幻想の石が見せた幻だったんじゃないか。
七不思議の七番目が『学長の喋る犬』だと言って、笑われてしまったことを気にするあまり、僕が作り出してしまった幻影なのかもしれない。
それを言い出したら、神子だって、ゼリーだって、ノギスさんだって、僕が見たものすべてが疑わしくなってしまうのだけど。




