第五話
高層ビル街の周囲を多数のビジネスマンが闊歩し、細長い列を形成している。彼らが吸いこまれていくビルは、携帯業界国内第2位のシェアを誇る『レッドモバイル』の本社だった。
その中層階にある大会議室で、繁忙期に向けての最終販売戦略会議を終えたところだ。サービス企画部課長、井上 光は、熱気冷めやらぬ室内で自作の資料を見直していた。
「春商戦はもう始まっている。まだまだ外は寒いがね」
井上に声をかけたのは、同社社長の沖田 雄太郎だ。50代後半だが、豊かな頭髪を薄いブラウンに染め、若作りに腐心している。笑顔が地についており、温厚で素朴な人柄が彼の求心力を支えていた。
「今年の繁忙期は負けられません。純増1位を何としても奪還します」
会議で発言した内容を反復する井上に対して、沖田が眼鏡越しの目を優しげに細める。
まだ40代の井上の頭にはやけに白いものが目立つ。他者に気を配り、自己犠牲を厭わぬ性格が気苦労を倍化させてきたからである。
クレーム処理を率先して担当し、現場からここまで栄達してきた苦労人に、社内の皆が信頼を寄せていた。
サービス企画部就任以来、決定打となるような施策を打ち出せていないことが井上の悩みの種だったので、今回は革新的なサービスを考案できたとの自負がある。
現在の携帯業界では、新サービスには他社が即追随する。しかし、同社間通話定額サービスのみ明確な差異があった。
その大きな転機は、シルバーモバイルが創業開始時に展開した料金プラン〈シルバープラン〉である。午後9時から翌日午前1時以外の時間帯、完全に同社間の通話が無料となるという画期的な料金設定に、業界全体に激震が走った。
これに対して、競合他社は追随に二の足を踏んだ。今にして思えば、このタイミングで同等のサービスを被せるべきだったと、井上はつくづく思うのだ。買収のために大借金をしているシルバーにプレッシャーをかけ、困窮に追い込むことができただろう。
だが、過去を省みて『こうすれば良かった』と振り返るのは誰にでもできる。すでに十分な加入者を確保したシルバーモバイルは、海外から人気のスマートフォンを導入し、人気に拍車をかけるつもりだ。
「彼らに余計な体力を付けさせたツケはでかかった。機を逃した感は否めない」
沖田がカーディガンの襟元を弄りながら悔恨の意を吐き出す。
「そう悲観することはないでしょう。我々には〈レッドフレンド〉という独自の武器がある。強力な通信インフラと共にまだまだ戦えますよ」
眉間の皺をV字に刻みつつ、井上が力説する。
〈レッドフレンド〉とは、月額500円のオプションサービスだ。指定した3件のレッドモバイル携帯への発信が24時間無料になる。いまだに競合他社が追随していない独自のサービスであり、同社の生命線でもある。
「シルバーモバイルの某社スマホ先行販売は極めて大きな脅威だ。我々も交渉中だが、同じ土俵に立つのはまだ先の事だ」
シェアはレッドが上だが、シルバーの勢いを考えるとうかうかしていられない。純増数は毎月遅れをとり、その差も開いていっている。巷で噂になっているシルバーのレッド買収劇も現実味を帯びてくる。
「それにしても、同社間通話無料が業界に定着してきたのに、カイザーさんは動かないな」
「彼らの主義なのでしょうね。大多数与党だからこそ動きづらい部分もある」
沖田の疑問に井上が答える。
MNP開始時には草刈場と化し、一泡吹いたかつての好敵手だが、現在は鉄壁の守りを誇っており、解約率は業界最低の水準を堅持している。利用料金を下げずにユーザー数を維持できる経営手腕には脱帽せざるをえない。
「カイザーモバイルの最大のライバルはあくまで我々だ。下を気にせず、上を向いて戦おうじゃあないか」
沖田が井上の肩に手を置き、グッと力を込めた。頷いた井上だが、その頭髪はさらに白くなったように見えた。




