第二話
一人暮らしの自宅ベッドで目覚めた啓子は、帰宅後にうたた寝してしまったことに気が付いた。鏡を見ると、カールがかかったショートボブに派手な寝癖がついている。爆発の中央にある自分の顔を一瞥すると、制服をベッドに脱ぎ捨てて浴室へ向かう。
暖房が効いていない真冬の気温を体感する事で、寝ぼけ頭が覚醒していく。空腹を覚えたので、湯船には浸からずシャワーだけで済ます。
キッチンの鍋を覗くと、帰る直前に母親が作り置いたグラタンが湯気を立てていた。ダイエット中である事を思い出し、海老を中心につまみ上げて皿に盛る。冷蔵庫の余り物も追加すると、缶ビールを鷲掴みにしてコタツ前に陣取った。
熱いシャワーで茹で上がった体を、キンと冷えた炭酸が心地よく通りすぎていく。ひと通りツマミをやっつけると、頭は自然と仕事モードへシフトする。現在の店舗スタッフは能力も性格も一長一短だが、店舗全体ではうまく補完し合い、バランスを保っていた。接客が得意なのか、それとも豊富な知識を武器とするのか。新人の児玉はどのカテゴリーに属するのだろうか……。
頬杖を突いてベッドを仰ぎ見ると、無性に物悲しさが込み上げてくる。付き合っている彼氏とは最近ほとんど会えていない。互いに仕事が忙しく、時間が噛み合わないのだ。
今年の繁忙期は修羅場になるだろうと、啓子は予想していた。社長は多くを語らないが、キャリアが代理店への手数料を出し渋っているのは、日々の収益計算から明白だった。その上で競合店も登場している。
順風を受けていないのであれば、スタッフ全員で力強く漕ぎ出すしかない。プラスアルファの業績を残さねば、会社の存続すら危うくなるだろう。
啓子は缶ビールの残りを流しに注ぎ込むと、新人用のマニュアル作成のためにパソコンを立ち上げた。
翌日
「おはよーございまっす!」
ご機嫌なイントネーションで出勤してきたのは、アルバイトの的野哲平だ。小柄でダックスフンドに似た容姿は愛嬌があるが、同時にヤンチャな内面も垣間見える。
彼はスタッフ内で唯一10代の若者であり、勤務歴半年未満の準新人だ。押しの強い接客で成約率の高さが売りだが、集中力散漫でうっかりミスが多い。試用期間が過ぎた今もアルバイト待遇のままであった。
啓子はいまだに彼の教育係であり、児玉の研修は傷心気味の鳥飼に任せることになった。
「ちょっとぉ~、遅いんじゃありませんこと? 社長殿」
時計は10時をわずかに越えている。開店は10時だが、その準備のために出社は9時40分までと決められていた。
「いや、社長まではなってない。副社長ぐらいでしょ。だって、2分しか遅れててないもん……痛たたたっ!」
自称副社長の耳を軽くつまんで、バックヤードへ連行する。タイムカードを印字し終えると、説教タイムの始まりだ。
「朝定時までに出社して、開店準備をするのは当たり前のことです。今日から新人が入社します。先輩として、見本になるように振舞って下さい」
「ごめんなさい、今後気を付けます」
落ち込んだ様子の彼の長髪は、気持ち張りがなくなったように見える。
「ほらほら、旗ぐらい立ててちょうだい。行った行った!」
的野を屋外へ追い払うと、カウンターを清掃中の鳥飼に声をかける。
「鳥飼さん、さっき渡したマニュアル無理やり使わなくてもいいから。自分の好きなように教えてね」
「でも私、人に仕事を教えるのって苦手だから、有効活用するわ」
デスクに座っていた、女性スタッフの鳥飼摩梨が応えた。色白の美人顔には、儚げな微笑が浮かぶ。ブラウンのストレートヘアは、小洒落たレイヤーが利かせてあった。
痩せぎす未満の痩身は、病弱な身の上を連想させる。実際に強度の喘息持ちだが、発作が出ていないあいだは問題なく働けるのだ。
鳥飼は失態のショックから立ち直りつつあるようで、啓子は安堵した。新人の教育が気分転換になってくれれば幸いである。
新人の児玉は朝1番に出社して、バックヤードで座学に勤しんでいる。啓子は児玉の隣の席に浅く腰かけた。
「スカーフの巻き方上手じゃない。髪型もそんな感じでいいから」
「鳥飼さんにならったんですよぉ。まだすごく時間がかかります」
児玉は三つ編みの先端をいじりながら、照れくさそうにした。赤色のリボン型のスカーフは、児玉の朗らかなイメージにぴったりだった。
「勉強の調子はどうですか」
「う~ん。要点を先に覚えたいのですが、どこが重要かも良く分かりません」
「じゃあまず、料金プランから覚えてください。あらゆる接客の基本となる知識だからね」
携帯電話についてはさほど詳しくないと言う児玉だったが、元々詳しい方が珍しい。自分のペースで覚えてもらって構わないのだが、繁忙期を間近に控えているので、気持ち早いペースで戦力になってほしかった。
「じゃあ皆集まって。もう10時になるけど、急いで朝礼をしましょう」
カウンター付近に全員を招集して朝礼を開始する。児玉も円陣の端に加わった。
「おはようございます。皆さんご存知の通り、今日から新人の児玉さんがシフトに入ります。研修役には鳥飼さんを抜擢しましたが、スタッフ全員でフォローして下さい。では、早速挨拶を」
手振りで促すと、半歩前に出た児玉が口を開く。
「今日からお世話になる児玉浩美です。携帯業界は初体験ですが、理解を深めて皆さんの力になりたいです。どうぞ宜しくお願いします」
常識的な所信表明に全員が拍手で応える。協調性の高さに皆の頬がゆるむ。
「引継ぎなど特にありませんかね……では、本日も1日宜しくお願いします」
「お願いします!」
スタッフの復唱が終わると、各自、書類やFAXのチェックを始める。啓子はパソコン前に陣取り、今月の収益チェックを始めた。
月の半ばで約80万円の収益。月に200万円いけばトントンに近いと社長から言われており、危機感を禁じえない数字だった。しかし元々、2月は年間を通してもそれほど成績が良い月ではない。来月、再来月が勝負時であり、それは皆が理解していた。
「いらっしゃいませ」
鳥飼の可憐な声が来客を告げると、全員が復唱しつつ先言後礼で頭を垂れる。作法を知らない児玉が、ワンテンポ遅れて頭を下げた。
「どうぞ、おかけ下さいませ」
鳥飼が研修用のマニュアルを片付けながら、来客者をカウンターへ招いた。
朝一の来客者は20代後半らしき男性だった。パリッとしたジャケットをジーンズでカジュアルダウンしており、休日の社会人のようだ。
「料金プランの見直しをしてほしいんですが」
男性の第一声に反応して、啓子が児玉に耳打ちする。
「ちょうど良かった。鳥飼さんの接客を見ていて下さい」
タイムリーな来客に便乗して、児玉に格好のお手本を見せるチャンスだ。頷いた児玉が、遠慮がちな蟹歩きで鳥飼に擦り寄る。
「かしこまりました。では、ご本人様と確認できる物をご提示ください」
男性客が鳥飼に免許証を提示する。
「ありがとうございます。続けて、こちらの受付メモにお名前、住所、生年月日、およびお持ちの携帯電話番号の記入をお願いします」
用紙を受け取った鳥飼は、免許証と照らし合わせつつパソコンに情報を入力する。確認を済ませると接客用の総合カタログを開いた。料金プランが載っているページは毎月ほぼ同じで、素早くそのページを開く。
「お客様は現在プランMでご利用のようですね。無料通話分は足りていますか?」
「仕事用の携帯を持ってから、こっちではほとんど話さなくなった。1番低いSSにしてもらえるかな」
「基本使用料は確かに安くなります。その代わり、貯まっていた無料通話が4000円までしか繰り越せなくなります。その点は問題ございませんか?」
意表を突かれた男性客が頭を抱える。
「そう言えば結構余ってるんだよなぁ……。じゃあ、とりあえずS、ぐらいで」
「かしこまりました。料金プランの変更は、来月1日から適用となります」
鳥飼が契約内容変更届けに記入を促す。その後も補足説明は続いた。
***
帰り際、男が折りたたんだメモ紙を鳥飼に手渡した。彼は鳥飼の耳元で何かを囁くと、意味ありげな目配せを投げかけつつ退店した。
呆然としている鳥飼に啓子が話しかける。
「知り合いだったの?」
「いや。メアドを渡すから、連絡を欲しいと。デートの誘いを受けました」
鳥飼の頬紅が気持ち濃くなったようにも見える。だが初めてのことではないので、あしらい方も心得ているだろう。
「嬉しくないことはないけど、今後しつこくされるとちょっとね……」
美人で気が弱そうな鳥飼は、男性客に色目を使われることがよくあるのだ。
「これだけ衆人環境の中で、よくもまあ……」
的野は男性のアグレッシブさに舌を巻いている。
啓子も同意を示すあきれ顔のまま、児玉に話かける。
「ところで児玉さん。参考になりました?」
「料金プランを変更するだけなのに、ここまで話が複雑になるとは思いませんでした。勉強になりますぅ。それに、お客さんにデートに誘われるなんて、憧れちゃいます」
啓子が苦笑を浮かべる。
「もし誘われても返信厳禁よ。ちょうどいい機会だから、プランの説明から教えましょう」
鳥飼が児玉に研修を始める。
「あなたも少しは見習いなさいよ」
啓子が細めた横目で的野を睨む。
「分かりました。俺も後で、鳥飼さんをデートに誘っておきます」
「こらこら、見習うのはそっちじゃないでしょ」
的野が鳥飼に不器用なウインクを送る。それを丁重に無視しつつ、カウンターでは真剣にロールプレイングが行なわれている。
「こいつも一緒にお願いします」
啓子は的野の両肩を抑えると、無理やり児玉の隣に座らせた。




