第81話 私が朝を待たなければ、あの子は生きていたか
◆ セラ
その夜遅く、閣下と私は鉱山へ降りた。松明は持っていかなかった。
細い通路で、閣下が振り返って手を差し出した。手袋は、していなかった。
「今夜は、忘れたのではない」
「はい」
その手を取った。今夜は、私のほうが早かった。
低い戸口の前で、閣下は何も置かなかった。三百年前の王さまは、ここに冠を置いた。閣下は、はじめから、剣を持ってこなかったのだ。
閣下は身をかがめ、四つん這いでくぐった。私もあとに続く。白い裾の百合が、石の床をそっと擦った。額が、すり減った石の縁に、触れた。
部屋は、白く光っていた。
並んで、低い腰掛けに座る。白い光が、隣の人の横顔に当たっている。銀灰色の髪。喉の古い傷。峠の風に削られて、要らないものが何ひとつ残っていない顔が、光の中で、少しも硬くない。
私はもう、この人を「氷竜」とは呼べなかった。呼ぶ名前は、さっき、決まった。
背の壁に刻まれた古い文字が、光の中に浮かんでいる。
――我は、汝の隣に、坐す。
「セラフィーナ」
「はい」
「お前の、いや。……セラフィーナの神は、この腰掛けの、どちら側に座る」
少し考えた。
「両方です」
「両方」
「はい。閣下の隣と、私の隣と。それから、帝都の父の隣と、兄の隣と、パヴェルさんの隣と。王都のお部屋で、冠のない台を見ているエレオノーラさまの隣と。地下の空の櫃の前にいる、大司祭さまの隣と。帝都の、暖炉のない部屋の扉の外と」
「扉の外」
「中には、まだ入らないそうです。戸は、中の人が開けるものだからって。でも、外にはいらっしゃるそうです。薪の隣に」
閣下はしばらく黙っていた。
「……減りっぱなしだな、膝が」
「はい。ずっと昔から、減らしっぱなしだそうです」
閣下は少しだけ笑った。
それから笑うのをやめて、光の中で、自分の手を見た。
「セラフィーナ」
「はい」
「お前の神に、訊いてほしいことがある」
閣下は腰掛けの端を握った。指の節が、白く浮く。執務室で最初に会った日、書状の端を押さえていたのと、同じ手だった。
「九年、訊かなかった。訊けば、答えが出る。答えが出れば、私は立てなくなると思っていた」
私は、待った。
閣下の声は、低いままだった。最後のほうで一度だけ、息を継いだ。
「それでも、今夜は、訊きたい。……お前が、隣にいるからだ」
白い光が、一度だけ、揺れた。
「私が朝を待たなければ、あの子は生きていたか」
目を閉じた。
(神さま)
『聞いておった』
(……)
『生きていた。その冬は』
訛りがなかった。
唇を、噛んだ。どこかで、ごまかしてくださると思っていたのだ。さあのう、とか、まだ言わん、とか。
『訊かれたことに、わしは嘘は言わん。それが、わしの礼じゃ』
目を開けると、閣下がこちらを見ていた。そのまま伝えた。声がうまく出なかった。
「……生きていた、と。その冬は」
閣下は動かなかった。白い光の中で、ずいぶん長いこと。それから、小さく息を吐いた。
「そうか」
驚いた顔ではなかった。毎晩、自分で何度も出してきた答えなのだろう。
「……戸を開けたとき」
閣下は床を見ていた。
「あの子は竈の前で、枝を握って、目を閉じていた。名を呼んだ。答えなかった。薪を組んだ。火がついて、少しして、枝が落ちた」
「あの子は、私が来たことを知らないまま死んだ。私はそれを毎晩数えてきた。十二の名の、いちばん最初に」
私は何も言えなかった。
『セラや。続きがある。訊かれておらんが、言う』
(……)
『目は閉じておった。耳は開いておった。この子の組む火の音を聞いて、「来た」と言うた』
耳の奥が、しんとした。
『声にはならなんだ。わしが隣で聞いた』
閣下が、私の顔から何かを読もうとしていた。
「……何と言った」
言えるかどうか、わからなかった。言った。
「目は閉じていたけれど、耳は開いていたと。馬の音も、『遅くなった』も、聞こえていたと」
閣下の顔は動かない。
「閣下が薪を組む音を聞いて、火が顔に当たって。それで」
声が途中で崩れた。お腹に力を入れた。
「『来た。言ったとおりだ』と。声にはならなかったけれど、言ったと。……それから、枝を離したと」
閣下は、両手で顔を覆った。
私は待った。急かさないと決めていた。
やがて閣下が手を下ろしたとき、その顔には何も足されていなかった。かわりに、何かが一つ、降りていた。
「……間に合っていたのか」
「はい」
「あの子は、聞いていたのか」
「はい。最後まで」
閣下は白く光る低い天井を見上げた。
「……そうか」
その声が、天井の光に溶けた。閣下はこちらを見なかった。肩が一度だけ、大きく上下した。
体が先に動いた。気づいたら、閣下を両腕で抱きしめていた。
腕の中で、閣下の体が一度、固くなった。人に抱かれることに、まるで慣れていない体だった。それから少しずつ、力が抜けていった。
私の肩に、閣下の額がそっと載る。声はなかった。ただ、息が何度も途切れた。
私も泣いていた。鼻をすすりそうになって、こらえた。こんなときに鼻をすする音を立てたら、一生の不覚だと思った。それでも涙は、閣下の肩にぽたぽた落ちた。
やがて、閣下の腕が、おずおずと私の背中に回った。
光だけが、部屋にあった。
『セラや。もう一つ、言うておく。伝えても、伝えんでもよい』
(はい)
『あの夜、わしは三つの戸を叩いた。先代の戸は開かなんだ。炭焼きの戸は、二日開かなんだ』
戸口の外の暗がりで、どこかの岩から、雫がひとつ落ちた。
『十六の子の戸は、夜明け前に開いた。わしは叩くだけじゃ。戸の内側には、手を出さん』
(吹雪を、止めることは)
『できた』
すぐだった。
『止めなんだ理由は、言わん。言えば、あの子が死んだことに、わしが理由をつけることになる。じゃから、あの部屋におった』
声が少し低くなった。
『止めてやれんものの、隣にな。気に入らんなら、気に入らんと言うてよい』
私はそれを、閣下に伝えた。三つの戸のこと。開いたのが閣下の戸だったこと。吹雪は止められたこと。止めなかった理由は言わない、ということ。気に入らないなら、そう言っていい、ということ。
閣下は床を見ていた。
「……気に入らない」
「はい」
「だが」
閣下の手が、私の手を探した。
「間に合っていた。それだけ、持って帰る」
その手を握った。手首の古い傷に指が触れる。冷たくなかった。この傷は、いつも冷たかったのに。
*
私は、目を閉じた。
(神さま。この戸口、神さまもくぐったんですか)
『わしが、いちばん先じゃ』
(頭を、下げて)
『高いところから来る者はな、低い戸口では、いちばん深く頭を下げる。そういうものじゃ』
戸口の縁の、丸くすり減った石を思い出した。数えきれない額が触れてきた石。そのいちばん最初の額が誰のものだったか、私はいま知った。
『冷たさを、わしは知っておる。雪のひとつひとつを覚えておるのと、同じにな』
物置小屋の冬の夜、私はいつも、天井の染みを見上げて祈っていた。足もとだけが、なぜか冷たくなかった。藁のせいだと思っていた。藁では、なかった。
霜降り村の、竈の前に。
私室の窓辺の、冷たい床に。
物置小屋の、藁の上に。
どの夜にも、隣があった。
目の前が、にじんだ。
(神さま。私、いつも上を向いて祈っていました。天井の染みのほうを)
『知っておる。染みのほうへ言うても、足もとのわしに、ひとつ残らず届いておったよ』
『それとな、セラフィーナ』
長いほうの名だった。神さまがそれを使うのは、たいてい、大事な話のときか、私が何かやらかしたときだ。
(……はい)
『わしの帳面のな、お主の名の隣に、何と書いてあるか、知っておるか』
(……何て、書いてあるんですか)
『物置小屋の床で、熱に浮かされながら、わしの隣で眠った子』
十歳の冬の、あの夜だ。
熱で、天井の染みが揺れていた。薄い毛布は湿って、歯が鳴りやまなかった。朝が来るのかどうか、わからなかった。誰も来ない小屋で、私は一度だけ、声に出して言った。
だれか、と。
(神さま。あの夜は)
『つらかったのう』
声が、やわらかかった。
『あの夜、お主は初めて、わしを呼んでくれた。それから、わしの隣で、やっと眠った』
ひとりで震えていたと思っていた夜。
あの夜、この方は、うなされる私の隣にいた。呼ばれるのを、ずっと待っていた。呼ばれて、それから、私が眠るまで。眠ってからも、朝まで。寝息を、隣で聞いていた。
母のいない子の、父の来ない夜に。
『いちばん上の行じゃ。あとは、全部、そのあとに続いておる』
声は出なかった。涙が、膝に落ちた。拭わなかった。拭いたら、あの夜の子まで拭いてしまいそうだった。
『泣いてよいぞ。あの夜と違うて、今夜は、隣がふたつある』
閣下の手は、まだ私の手を握っていた。
足もとは、温かかった。




