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お飾り聖女は、三行で消えるはずの花嫁でした ~生贄として嫁いだ氷の辺境伯は、前世の最推しです~  作者: 真白のあ
終章 我は、汝の隣に、坐す

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第82話 私の隣に、いてくれ


◆ セラ


 目を開けると、閣下は壁の文字を見ていた。


 岩のどこかで、また雫が落ちた。白い光は少しも揺れていない。石の腰掛けは、いつのまにか二人ぶんの温もりを持っていた。


「セラフィーナ」

「はい」


 閣下は、そこで一度黙った。壁の文字を見たまま。


「……ここで、もう一度、結びたい。王家の印でも、私の署名でもなく。ここで」


 この部屋は、家の者が結ばれに来る部屋だった。先に逝った者とも。神さまは、そうおっしゃっていた。


 閣下がこちらへ向き直った。私の両手を取る。指が少し冷たかった。


 閣下の手首には、古い傷がある。私の手の甲には、三本の白い傷がある。傷のある手が、傷のある手を、包んでいた。


 閣下は、目を逸らさなかった。


「九年、冬は、ひとりで越えるものだと思っていた」


 低い、少しかすれた声だった。命令を言い切るときの声ではなかった。


「セラフィーナ。私の隣に、いてくれ。この冬も、次の冬も。いつか、私の最後の冬が明けて、雪の届かない朝が来ても。……その朝に、もう夕べが来なくても」


 それきり、閣下は何も足さなかった。


 白い光の中で、閣下の目は冬の湖の色をしていた。凍っていない湖だった。底まで見える。そこに、私が映っていた。


 返事なら、ずっと前から決まっている。それなのに口がついてこない。


 この人は、返事を待つのがひどく下手だ。それでも待っていた。私の手を包んだまま、指一本動かさずに。


 息を、吸った。


「はい」


 声が震えた。それでも言った。


「隣にいます。この冬も、次の冬も。……閣下が寒いと言わない夜は、私が先に気づきます」


 閣下の指に少しだけ力が入った。


「雪の届かない朝が来たら、いちばんに、お名前を呼びます。……ヴィルフリート、と」


 閣下が身をかがめた。


 額と額が、そっと触れた。


 低い戸口の石に額をつけて、この部屋へ入ってきた人だった。その額が、今、私の額にあった。


 白い光が、ふっと変わった。


 強くなったのではない。部屋じゅうの光が、二人の坐る腰掛けのまわりへ、そっと寄ってきた。冬の終わりに、日向がゆっくり窓辺へ伸びてくるときの、あの寄り方だった。背中が温かい。


 百合の匂いが、した。


 壁の文字が、いちばん明るかった。我は、汝の隣に、坐す。


『……受け取ったよ』


 足もとで神さまの声がした。いつもより、ずっと静かな声だった。


『わしの帳面のな、お主の名の隣に、もうひとつ名を書いた。この子の名じゃ。もう、隣同士じゃよ』


 閣下には聞こえていない。けれど閣下は額を離すと、ゆっくり自分の肩に目をやった。光の載っているあたりを。


「……温かいな」


 誰に言ったのでもない声だった。


「はい」


 それしか言えなかった。


 光が銀灰色の髪を一本ずつ透かしていた。目の下の青い影が、いつのまにか消えている。眉間の皺も。たぶん閣下自身も知らない顔だった。


 その顔が、近づいた。


 唇が、そっと触れた。


 雪のひとひらが載るくらいの、軽さで。それから、少しだけ、長く。


 離れたとき、閣下は真顔だった。


「……これで、合っているのか」

「存じません。前のときも、わかりませんでした」


 礼拝堂の、雪の夜。あのときも、この人は、先に目を逸らした。


 閣下は少しだけ考える顔をした。


「……では、二人で覚えていくしかないな」


 閣下は小さく咳払いをした。


「それから。名を、持ってきた」


 閣下は私の手を離さないまま、壁の文字のほうへ向き直った。


「リーネ・グラーツ」


 最初の名で、声がかすれた。閣下はそこで一度止まった。


「……遅くなった」


 あの冬の朝、竈の前で、この人が言った言葉だった。目を閉じたまま、あの子はそれを聞いていた。


 白い光が、ほんの少し揺れた。


『聞こえておるよ』


 足もとで神さまがおっしゃった。閣下には聞こえない。私は閣下の手を握った。


「ヨアヒム・ベルク。ハンナ・ベルク。……幼子、名なし」


 名のない子のところで、閣下は一度、息を継いだ。名前をつけてもらう前に、いなくなった子だ。それでも閣下は、その子を数から外したことがない。


『名なしでは、ないぞ。わしが、ちゃんと呼んでおる』


 神さまの声が、やさしかった。


「ヴィルヘルム老。マルギット・ライナー。ペーター・ライナー」


 そこから先は、私のまだ知らない名だった。閣下はひとつも言い間違えなかった。九年、毎晩、私室の窓辺で、膝をついて口にしてきた順番だった。


「……エーリヒ・グラーツ」


 最後の名は、リーネと同じ家の名だった。


 あの窓辺では、数えるための名だった。一つ数えるたびに、自分の上に積んできた名だった。今夜の声は、数えていなかった。ひとつずつ、そっとここへ置いていく声だった。


 十二を言い終えて、閣下は少し黙った。


 それから、もうひとつ、短い北の名を言った。


「ルーネ」


 その名を言う声だけ、少し幼く聞こえた。


「母だ。五つのとき、死んだ。礼拝堂が好きだった。……ここへ連れてきたことは、一度もない」


 五つの子が、この人の中に、まだいた。寝る前の歌を三節目まで聞いて、母さんの隣で眠っていた子が。


『わしの前で結んだものはな』


 足もとから、神さまの声がした。


『死んでも、ほどけん』


「……母は、寝る前に歌を歌っていた」


 閣下が低く言った。


「古い言葉の、四節の歌だ。いつも三節目でやめた。四節目は、母さんではない誰かが歌う、と言って。誰が歌うのか、訊く前に死んだ」


 閣下は壁の文字を見た。それから目を閉じて、歌いはじめた。


 声が、石の部屋に満ちた。


 低くて、少しかすれた声だった。ふだん命令を短く言い切るだけの声が、歌になると、まるで別のものになる。かすれた低いところから、ふっと高く上がると、澄んでいく。


 息をするのを、忘れた。


(……閣下、歌が、こんなに)


 ずるい、と思った。


 一節。二節。三節。音は、一度も外れなかった。


 そして、四節目。母さんが、一度も歌わなかった節。閣下は、一度だけ深く息を吸った。それから、歌った。


 ――眠れぬ子よ、ひとりと思うな。我は、汝の隣に、坐す。


 声が、ふたつ聞こえた。


 閣下の声と、もうひとつ。床のいちばん低いところから、年寄りの、北の訛りの、少しかすれた声が、そっと重なっていた。


 閣下には、聞こえていない。


 けれど閣下は、歌い終えて目を開けると、足もとの床を見た。何もない床を、長いあいだ。


「……セラフィーナ」

「はい」

「今の歌を、私は、ひとりで歌ったか」


 嘘はつけなかった。


「いいえ」


 岩のどこかで、雫がひとつ落ちた。


「……知らない声だと思っていた」


 閣下が、床を見たまま言った。


「四節目を歌うのは、誰なのか。……だが、さっき、知っている声のような気がした。私室の床で、夜明け前に、聞いたことがあるような」


(神さま。私室の、あの床で)


『毎晩、歌うておった』


 すぐだった。


『あの子が、十二の名を数え終わるまでな。聞こえんでも、やめたことは、一度もない』


 涙が、勝手にこぼれた。


 九年。あの冷たい床で、死んだ人の名前を数えながら、この人は、自分はひとりだと思っていた。その隣で、毎晩、母さんが歌わなかった四節目を、誰かが歌っていた。眠れぬ子よ、ひとりと思うな、と。


 私は、伝えた。毎晩だったこと。数え終わるまでだったこと。一度も、やめなかったこと。


 閣下は、何も言わなかった。


 目を閉じた。睫毛の先に、白い光が溜まっていた。それが一粒、頬を伝って落ちた。


 閣下は、拭わなかった。


 私も、拭わなかった。


 やがて、閣下の手が、私の手を少しだけ強く握った。私も、握り返した。


 帳面の霜降り村の頁を思い出した。ヴィルヘルム老の名の横に、小さく書き足した一行。


 ――歌。最後まで。隣に、神さま。


 閣下が自分の口であの歌を歌える日に言おう、と決めていた。今夜が、その日だった。


「閣下。ヴィルヘルムさんも、最後の一節まで、歌ったそうです。薪の尽きた小屋で、子どもたちに外套をかけて。……ひとりでは、なかったそうです」


 閣下は、黙っていた。


「……長い歌を、歌う人だった」


 霜降り村の人なら、誰でも知っていることだった。けれど閣下の声は、これまで聞いたうちで、いちばんやわらかかった。


 私は、閣下の手を握り直した。


「閣下。私も、ひとり、置いてもいいですか」

「ああ」

「ミラ。……母です」


 足首に鈴をつけて、王都の広場で踊っていた人。私を産んだ夜に逝った人。顔も、声も、知らない人の名前を、ここに置いた。


『よう、来たのう、ミラ』


 足もとで、神さまが小さくおっしゃった。誰に向かっての言葉なのかは、訊かなかった。


 閣下が私の手を、両手で包み直した。


「……覚えた」


 それから、閣下は、もう一度言った。


「ミラ」


 この人の低い声で、母の名が呼ばれた。


 いつか、父にも、この戸口をくぐってほしいと思った。


 私は、閣下の肩に頭を預けた。閣下の頬が、私の髪に、そっと載った。


 石の腰掛けは、もう冷たくなかった。


    *


 坑道から戻ると、城の中庭で、閣下が足を止めた。


「先に、部屋へ行っている」


 それだけ言って、螺旋階段のほうへ歩いていった。いつもより少しだけ速い足取りで。


 私はすぐには後を追えなかった。顔がまだ熱い。目も、たぶん腫れている。


 厨房にはまだ灯りがついていて、マルタさんたちの笑い声が扉越しに聞こえた。こんな顔でマルタさんの前に出たら、明日の朝まで質問攻めだ。中へは入らずに、裏の干し場へ回った。


 夜の干し場には、取りこみ忘れた敷布が一枚、ぼんやり白く揺れていた。屋根から雪解けの水が滴っている。その音にまじって、布のこすれる音がした。


 ギルバートさまが、干し場の柱に背を預けて、眼鏡を拭いていた。


「ギルバート。レンズ、汚れてませんよ」


 手が、止まった。それから、また動きだした。


「……知っています」


 滴が、桶に落ちる。


 ギルバートさまは眼鏡を掛けて、私を見た。


「王女。いえ。奥様、とお呼びすることになります。慣れるまで、少し、時間がかかります」

「私も、ギルバート、に慣れるまで、時間がかかります」


 ギルバートさまが、少しだけ笑った。


「これからは、お二人の後ろに立ちます。それが、私の席です」

「隣じゃなくて、ですか」

「隣は、もう埋まっておりますので」


 それきり、ギルバートさまは、軒から落ちる滴ばかり見ていた。目が、少し赤い。理由は、訊かなかった。


「……閣下を」


 滴を見たまま、ギルバートさまが言った。


「閣下を、よろしくお願いいたします。……あの方は、寒いと言わない方ですので」


 初めて執務室に入った日の、薪が一本しか燃えていなかった暖炉を思い出した。


「はい。知っています」


 それから、どうしても言っておきたくなった。


「ギルバートが、九年、それに気づいていたことも」


 ギルバートさまの手が、止まった。屋根の端から落ちる滴を、長いあいだ見ていた。


「……気づいても、薪を足すことは、できませんでした。閣下が、お許しにならなかった」


 声が、少しだけ、くぐもっていた。


「貴女の足す薪なら、あの方は、黙って燃やされるでしょう」


 滴が、ひとつ、桶に落ちた。


 九年、閣下の後ろに立ってきた人の目が、ほんの少しだけ、ほどけていた。


「……今夜の、衣装は」


 ギルバートさまが、言いかけて、止まった。


 その目が、私の服の裾の百合のあたりで、少しだけ揺れた。


「よく、お似合いでした。……申し上げるのは、これが最初で、最後です」


 何か返そうとして、言葉が見つからなかった。ギルバートさまは、それでいい、というように、小さく首を振った。


「もう一つだけ、申し上げてよろしいですか」

「はい」

「髪を、隠さないでください。この城では」


 自分の髪に、手をやった。麻布は、もうずっと巻いていない。


「北では、その色の空が出た朝は、吹雪が来ないと言います。不吉な色などでは、ありません。……あの雪道で、申し上げられなかったので」


 そう言って、ギルバートさまは干し場を出ていった。扉のところで、一度だけ、眼鏡を押し上げた。


『拾うたのう』

(何をですか)

『あの雪道で、あの若者が落とした言葉を。拾うて、お主の前に置いていった』


 雪解けの水が、また一滴、桶に落ちた。干し場の敷布が、夜風にふくらんで、また静かになった。


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