第83話 九年ぶりの朝「……もう少し、このままで」
◆ セラ
干し場から閣下の部屋へ向かう途中で、礼拝堂に寄った。
祭壇の脇に、百合の鉢がある。閣下が私室から運んできた鉢だ。丸窓の月の光の中で、二輪が少しもたれ合っている。
長椅子にひとりで座ると、白い裾の百合が足もとの床に広がった。
四冊目の帳面を開いて、最後の頁に書いた。
三百二十七人目。神さま。
名前は、まだ教えてもらっていない。けれど、いちばん最初から隣にいてくださった方。
その下には、何も書かなかった。書きかけだから。たぶん、ずっと書きかけのままだから。
『ずるいのう、お主は』
神さまが、笑う。
(はい。神さまに、似てきたので)
『わしは、余白には書かんぞ』
(はい。だから、本文に書きました)
『わしを書いた者は、昔からおる。偉い書物に、いかめしい名でな。……知り合いとして書いてもろうたのは、久しぶりじゃ』
帳面を閉じた。
(神さま。私、ずっと、不思議だったんです)
『うむ』
(十歳の冬に、前の世界のことを思い出しました。ここが、あの本の世界だとわかって。でも、どうして、私だったんでしょう)
丸窓の外で、雪解けの滴がひとつ落ちた。
『お主の母とな、約束をしておった』
帳面を持つ指に力が入った。
(……母と)
『あの夜のあとでな。お主の母は、わしの隣に座った。床の高さにな』
(はい)
『それで、わしに言うた。ずいぶんのんびりした方なのね、と』
(……母が、神さまに)
『十二のときから話しかけておったのに、返事が遅い、とな。のんびりした娘の母親に、のんびりしておると言われたわ』
笑った。笑っているのに、頬が濡れていた。
『それから、頼みごとを、ふたつした』
神さまの声が、少しだけ遠くなる。
『ひとつ目。あの子はのろまさんだから、急かさないであげてね。追いつくまで、待っていてあげて』
長椅子の背に額をつけた。木が冷たい。
『ふたつ目。あの子が、ひとりぼっちだと思った日には、隣にいてあげて』
声が、出なかった。
五つ数えて起き上がるのが遅くても。名前を呼ぶのが遅くても。遅れた私を置いていく声は、ひとつもなかった。麻布一枚の土間の、誰も来ない夜にも、床の高さにはいつも誰かがいた。
あれは、母が、頼んでおいてくれたのだ。私が生まれた、その夜に。
『それからのう、セラ。お主の母は、お主の父に、歌をひとつ教えておった』
(……歌)
『右、左、ちょっと止まって、くるり。踊りの歌じゃ。十七年たつが、あの男は、いまだに一度も合うておらん』
また、笑ってしまった。
『笑うてやるな。……それでな、セラ。お主の母は、もうひとつ訊いた。あの子が拍子に遅れるのには、わけがあるのか、と』
(わけ)
『お主はな、遠いところから来た。ずっと遠い、別の世界からな』
覚えている。灯りの消えない四角い建物。ぬるくなったお茶。布団の中でこっそり開いた本。
(あちらでも、神さまは)
『おったよ。終電の、あの揺れの中にもな。お主が、まだ気づいておらなんだだけじゃ』
終電の中で、本で顔を隠して泣いたことを思い出した。会ったこともない、眠らない男の人のために。
『その涙をな、わしは、こちらで、あの子の隣に座りながら、見ておった』
声が、低くなる。
『あの子の隣に座るのは、あの子のために、先に泣いてくれた者がよかった。じゃから、お主に訊いた。来るか、と』
(私に)
『生まれる前のことじゃ。覚えておらんじゃろう。じゃが、来ると決めたのは、お主じゃ』
答えられなかった。覚えていないのに、胸のどこかがそうだと頷いていた。
『遠くから来る者は、着くのが、少し遅れる。それで、お主の拍子は、いつも少し遅れておった』
のろまさん。
蹴られたあと、五つ数えて遅れて起き上がる体。あの人の名前を、なかなか呼べなかった口。
全部、遠くから来たからだった。
『お主の母は、それを聞いて、笑うたぞ。それなら、なおさら、待っていてあげて、とな』
顔も声も知らない母は、そういう人だった。
もう、だめだった。
長椅子の背に額をつけたまま、声を殺して泣いた。
背中に、何かがそっと触れた気がする。手のひらのような、何か。
『約束は、守ったぞ。ふたつとも』
その声が、少しだけくぐもっていた。
晴れた夜なのに、丸窓の外で雪解けの滴が、小雨のように落ちつづけた。
(……神さまも、泣くんですね)
『今夜のは、うれし涙じゃ』
袖で顔を拭いて、顔を上げた。
(神さま。私、この世界に来る前から、あの人のために泣いていたんですね)
『そうじゃ』
(それなら、私、ちゃんと間に合ったんですね)
神さまは、少しだけ黙った。
それから、とてもやさしい声でおっしゃった。
『遅れて、ちょうどじゃったよ』
祭壇の脇で、百合がふわりと香った。
母を、一度だけ呼んだ。
「……ミラお母さま」
返事はなかった。けれど、隣の匂いは少しも遠くならなかった。
『さあ、行っておいで』
神さまが、おっしゃった。
『あの子が、待っておる。……今夜からは、わしのほかにも、隣がおるじゃろう』
*
閣下の部屋の扉は、細く開いていた。月の光が、扉の隙間から廊下へ細い帯になってこぼれていた。
閣下は窓辺に立っていた。膝はついていない。ふたつの窪みの少し手前に、ただ立って、月に照らされた尾根を見ていた。銀灰色の髪の縁が白く光っている。
扉の軋む音に、振り返った。
「……遅かったな」
「礼拝堂に、寄っていました」
「そうか」
それ以上、何も訊かなかった。
かわりに、黙って腕を広げた。
私は、その腕の中に入った。
頬に胴着の布が触れた。雪と、革と、少しだけ杉の匂い。この部屋を掃除した日、扉を開けたとたんに顔が熱くなった、あの匂いだった。今は、逃げなくていい。
閣下の腕が、ゆっくり背中で重なった。確かめるように。
胴着ごしに、この人の心臓の音が聞こえた。思っていたより、ずっと速い。
長いあいだ、閣下は何も言わなかった。髪に息がかかる。いつもより少しだけ深い息だった。
「……温かいな」
石の部屋で、肩の光に向かって言ったのと、同じ言葉だった。今度は、私に向かって。
母君の衣装は、椅子の背にそっと掛けた。裾の百合が、月の光の中で白く浮かんでいた。エルザさんに返す白い紐も、その上に。
灯りを消すと、窓の月だけが残った。
*
夜中に、目が覚めた。
背中に、この人の胸があった。
後ろから回された腕が、私の体の上にある。眠っている人の、重たい腕だった。髪に、ゆっくりした寝息がかかる。背中に触れた胸の奥で、心臓が遅い拍子を打っている。
眠る前に抱きしめられた腕は、まだ、ほどけていなかった。
月が窓から斜めに差しこんでいる。床に窓の形の白い光が落ちていて、その端に、ふたつの窪みが見えた。九年、この人が、夜明け前に膝をついてきた跡だ。
今夜、その窪みは、空いている。
物置小屋の土間で、毎晩、北を向いて言ってきた。閣下が、今夜は、眠れていますように。
その人が、私を抱きしめたまま、眠っている。
閣下、と、心の中で呼びかけて、やめた。
ヴィルフリート。
この腕の中では、もう、こちらの名前だった。
その腕に、そっと自分の手を重ねた。指の節の硬さ。手首の古い傷。九年、冷たかった手だった。今は冷たくない。
百合の匂いは、しなかった。扉の外のほうで、ほんのかすかにしている気がした。
今夜は、気を利かせてくださったのだと思う。
笑いそうになって、こらえた。笑ったら、この腕が起きてしまう。
そのとき、腕が動いた。
眠ったまま、ヴィルフリートが私を、もう少し深く抱き寄せた。髪に顔がうずめられる。重ねていた私の手を、大きな手が探し当てて指をからめた。
「……セラフィーナ」
寝言だった。
九年、眠れなかった人が、眠りの中で、私の名前を呼んでいた。
涙が、からめた指の上に落ちた。指はほどけなかった。
背中の心臓が、遅い拍子を打っている。私の心臓が、少し遅れてそれに重なった。
月が、少しずつ窓の端へ傾いていった。
*
目が覚めると、窓の外が白んでいた。
ヴィルフリートは、まだ後ろから私を抱きしめたまま、眠っていた。
夜が明けても、この人は眠っていた。
尾根の雪に、最初の光が差した。稜線が上から順に、淡い桃色から金色へ染まっていく。光は窓の桟を越えて床に落ち、空いたままのふたつの窪みのほうへ、ゆっくり伸びていった。
背中で、この人が身じろぎをした。
回されていた腕が少しだけ緩む。目を覚ましたのだと、わかった。
「……明けたな」
喉の奥で、砂が擦れたような声だった。
背中に当たる胸から、その声が骨を伝って直接響いた。
「はい」
「眠っていた」
「はい。朝まで」
少し、間があった。
「……もう少し、このままでいいか」
九年、夜が明ける前に、この寝台を出ていた人だった。
「はい」
光が、空いたままのふたつの窪みの縁に届いた。
ほどけかけていた腕に、もう一度力が入った。背中から、ぐっと抱き寄せられる。
枕から、この人が少しだけ頭を浮かせた。息が髪をかすめて、耳のそばまで降りてくる。
「……おはよう、セラフィーナ」
低く、掠れて、息が混じっていた。
耳のすぐ後ろで名前を呼ばれて、背筋を熱いものがゆっくり下りていった。
腕の中で、そっと向きを変えた。
すぐそこに、この人の顔があった。朝の光が、乱れた銀灰色の髪を一本ずつ透かしている。寝起きの目は冬の湖の色のまま、いつもよりずっとやわらかかった。その目に、私が映っていた。
「……おはようございます、ヴィルフリート」
この人の目尻に、細い皺が一本できた。笑うときにだけできる皺だった。初めて見た。
「もう一度」
「おはようございます」
「名前のほうだ」
「……ヴィルフリート」
満足したように、この人は目を閉じた。それから、私の額にそっと唇を当てた。朝の光と同じくらいの、静かな重さで。
「……いい朝だ」
軒のどこかで、雪解けの滴の落ちる音が、ひとつした。




