第84話 王さまが、ろばで来た
◆ セラ
夏の終わりに、峠をろばが一頭越えてきた。
くつわを引いているのは、革の帽子の男。兄の従者のハインツさんだった。くらの後ろに麻袋がひとつ。乗っているのは、白いひげの老人だった。
門番のカールさんが帽子を取って、取った帽子をどうすればいいのかわからなくなって、両手で握ったまま走ってきた。
「せ、聖女さま。王さまです。王さまが、ろばで」
私は厨房の裏の干し場で、シーツを絞っていた。手が止まった。絞りかけのシーツから、水がぽたぽたと落ちつづけた。
閣下が先に門へ出た。夏なので外套は着ていない。白いシャツの袖をまくって、腕に薪の粉をつけたまま。
ろばから降りた父は、閣下の前で少しためらってから、深く頭を下げた。
「アイゼンベルク卿。娘に、会いに来た。誰の許しも取っておらぬ。追い返すなら、追い返してくれ。ろばで来た男を追い返しても、誰の面目も傷まぬ」
閣下は父を見ていた。それから、私のほうを見た。
「追い返すかどうかは、私が決めることではない」
私は濡れたシーツを抱えたまま、門まで歩いた。歩き方を忘れそうだった。
父の前で、止まった。
謁見の間の高い玉座でしか、見たことのない人だった。こんなに小さな人だったのだと、そのとき初めて知った。白いひげに、峠のすなぼこりがついていた。
父は私の顔を見た。十七年、窓の外を見ていた目で。
「……生き写しだ」
小さく、そう言った。誰に向けて言ったのかは、わからない。それから私の手を見た。シーツの水で濡れて、たこと三本の傷のある手を。
「余は、この手が水おけを運ぶのを、一度も見なかった」
「はい」
「これから、見てもよいか」
「はい」
それだけだった。抱きしめもしなかったし、泣きもしなかった。父はそういう人ではないし、私も、たぶん、そういう娘ではない。
父はその日、干し場の隅の切り株に座って、私がシーツを干し終えるまでずっと見ていた。一枚。二枚。三枚。四枚。
四枚ぶんの、ほんの短いあいだだった。そのくらいのことを、十年、見なかった人だった。
四枚目を張り終えると、父はくらから下ろした麻袋の底から、小さな包みを取り出した。
「大聖堂の見習いの子が、余に渡せと。門を出るところで、ろばの前に立った。もう、追い払う者はおらなんだからな」
麻布をほどくと、殻のついた麦が、ひとつかみ。あわが混じっている。鶏小屋の床の匂いがした。
「ノア、と名乗った。余は、人の名を、また一つ、運んだ」
ノア。
柱の陰から、三十日、私を見ていた子。誰にも名前で呼ばれずに、冬を越していた子。
その子が、王さまのろばの前に立って、自分から名乗ったのだ。
包みを両手で受け取った。
殻のついた麦だった。王都の大聖堂で、床板の隙間から一粒ずつ拾って、窓枠の右端に置いていたのと同じ麦だ。あの窓には、今もきっと、あの子が麦を置いてくれている。
足の曲がった山鳩。冷たい回廊。毎朝の雑巾。あの十年を、私は、北で生きるための準備運動だと呼んでいた。
『準備運動、のう』
神さまが、私の思っていたことを拾うようにおっしゃった。
あの回廊でも、そう言われた。わしは別の名で呼んでおる、と。
『もう、言うてもよかろう』
少しだけ、間があった。
『わしはな、あれを「二人でおった十年」と呼んでおった。お主は、北へ行くための十年じゃと思うておったがな。わしのほうには、行き先は、要らんかった』
包みを持つ手が止まった。
王都の十年。重いおけを毎朝、ひとりで運んでいるつもりだった。反対側の取っ手は、いつも神さまが持っていてくださったのに。
凍えた足もとに来る、日だまりの温もり。あばらの本数の冗談。見放した覚えは、ないんじゃがのう。
ノアの麦の包みを、両手で胸に抱いた。うつむいて目を閉じた。
足もとにいてくださる方に、声にならないお礼を言った。
目の奥が、熱かった。
風が来た。干したばかりのシーツが光をはらんでふくらみ、私をくるんで、また離れていった。百合の香りだけが残った。
*
夜、父は閣下と並んで、厨房の長卓に座った。マルタさんが、スープの椀を二つ置いた。
その隣に、焼きたてのパンがひとつ、置かれた。
置いたのは、大きな手だった。父が顔を上げた。
「……バルト」
「はい、陛下」
バルトさんは前掛けで手を拭いて、大きな体を折り曲げた。
父はパンを見た。それから、バルトさんの手を見た。小麦粉で白くなった、大きな手を。
「十年、毎晩、三つ」
「……はい」
「余が一度も運ばなかったものを、そなたが運んだ。余の代わりに、あの子を食べさせてくれた」
父は椅子から立ち上がった。
そして、厨房の料理人に、深く頭を下げた。
長卓の匙が、いっせいに止まった。
「へ、陛下、おやめください。わしは、ただ、豚に回すような端っこを」
「その端っこで、娘は生きた」
バルトさんの顔が、くしゃりと歪んだ。前掛けを握ったまま、声が出ない。
杉林の小屋の戸口に、毎晩置かれていた、三つのパンの端。冬には石みたいに硬くて、私はそれを、一つずつ、お湯でふやかして食べた。
あの硬さの向こうに、この人の手と、この人を北へ送り出した父がいた。
「名は、言えたか」
父が、頭を上げて訊いた。
「はい。言えました」
バルトさんの声が揺れた。
「王女さまに、呼んでいただきました。十年ぶんの、パンのお礼と一緒に」
父は椅子に座り直して、パンを両手で取って、ゆっくり割った。湯気が、ふわりと上がった。
「……そうか」
誰も、匙を動かさなかった。
最初に動いたのは、マルタさんのしゃくしだった。鍋の縁を、かん、と一度叩く。
「ほら。冷めるよ。王さまも、坊ちゃんも、あんたたちも」
兵士たちが、はっとしたように椀を持ち直した。誰かが鼻をすすって、誰かがごまかすように咳をした。厨房に、匙の音がひとつずつ戻ってくる。
バルトさんは、前掛けで目もとをごしごし拭いて、かまどの前へ戻っていった。マルタさんが、その背中をしゃくしの柄で一度だけ小突いた。バルトさんは振り返らずに、小さく鼻を鳴らした。
父もスープをひと口すすった。それから、もうひと口。
「塩が」
長卓が、しんとなった。
「足りん」
長卓の兵士たちが、いっせいに椀の陰に顔を伏せた。閣下の耳が、赤くなる。マルタさんが鍋に向かって、「王さまも、同じことを言う」とつぶやいた。
「陛下、それは、わしのせいではございません。この婆さんが、どうしても塩を控えると言って聞かんのです」
「あんたが入れすぎなんだよ」
笑い声の中で、閣下が、父の椀のほうへ塩の壺を押しやった。
押しやりながら、閣下は笑っていた。肩を小さく揺らして、喉の奥で、くっ、と。
匙を持ったまま、動けなくなった。
かまどの火に照らされた横顔。額にかかったままの銀灰色の髪を、夏の夜風がさらりと揺らす。
目尻に、笑うときにだけできる細いしわが一本。
凍った湖の底みたいだったアイスブルーの目が、今は、雪解けの水たまりに青空が映った色をしていた。
ずるい。
この人は、もう、笑う人になった。朝の粥の席でも、兵士たちの冗談にも、当たり前みたいに笑う。毎日見ている顔のはずだった。
それなのに、少しも慣れない。
かまどの火の中で笑うこの人は、今日もまた、千回読んだどの頁よりかっこよかった。叫びたい。長卓を叩いて、皆さん今の見ましたか、と叫びたい。
胸の真ん中が、きゅう、と鳴った。
(……十点満点で――)
はっとした。点をつけている。痛くもないのに。
(神さま。再発しました)
『何がじゃ』
(点です。……でも、つけられません。上限が、足りないので)
『ほう。……ついでに言うとな、あの子の耳が赤いのは、もう塩のせいではないぞ。お主が、さっきから瞬きもせずに見ておるからじゃ』
慌てて、椀に目を落とした。卓の向こうで、閣下が小さく咳払いをした。
父は、帝都のことを、少しずつ話した。
「離宮に、パヴェルという若者がいる。毎朝、火を組んでいる。余の暖炉も、ほかの部屋のも」
長卓の端で、ギルバートさまの匙が止まった。
「よく笑うようになった。ある朝、火を組みながら、歌を口ずさんでいた。自分の村の、麦刈りの歌だそうだ」
ギルバートさまは、眼鏡を外した。口の端が、少しだけ上がっていた。
「侯爵の扉の前には、今も毎朝、薪が三本置かれておる。……近ごろ、朝になると、一本だけ減っておることがあるそうだ。……その若者は、一度だけ、あの部屋に入ったそうだ。火口がなくて、自分の証文を薪の下に入れた、と」
鍋の縁で、マルタさんのしゃくしが止まった。
『戸を開けるのはな、いつも、内側の者じゃ。わしは、外で待っておるだけじゃよ』
神さまが、胸の奥で、小さくおっしゃった。
「皇帝は、余を放した」
父は椀を置いた。
「侯爵の不正が明るみに出て、余の言い分に筋が通った。エレオノーラが、期日通りに金を送った。それに、余は、飾りにもならぬ老人だった。……放すとき、皇帝が訊いた。何も持たずに帰るのか、と」
父は椀を両手で包んだ。
「余は、娘がいる、と答えた。何ひとつしてやれなかった娘が、余に手紙をくれた。埋め合わせは、何も要らない、と書いて」
厨房の音が、ひとつずつ消えていった。
「皇帝には、子が二十人いる。皆、皇帝に、何かをねだる。誰ひとり、何もいらぬとは言わぬ。……皇帝は、何も言わなかった。余の、何も持たぬ手を見て、それから、自分の指輪だらけの手を見て、目を逸らした」
椀を持つ指が、震えた。
「王妃は」
やがて、閣下が訊いた。
「王都にいる。玉座を守っている。余よりも、ずっと上手にな。……ベンノが、帝都まで書いてよこした。大聖堂の壁画の、聖女の頭から金が落ちた、と。三百年、金の下にあった髪の色が出てきた、と」
父は私の髪を見た。
「灰紫だったそうだ」
兵士たちの匙が、止まった。
十年、布の下に隠してきた色。見ると何かがうつると言われた色。
ぽたり、と椀の中に何かが落ちた。
自分の涙だと気づくまで、少しかかった。泣くつもりなんてなかった。悲しいのとも、少し違った。毎朝、髪をひと筋もこぼさないように結んできた布の、その結び目が、今、ふっとほどけたみたいだった。
マルタさんが鍋をかき回しながら、鼻を鳴らした。
「王都は、遅いねえ」
誰かが、椀の陰で吹き出した。それから、長卓じゅうが笑った。
「北じゃ、とっくに知ってたよ。吹雪の来ない朝の色だ」
私も笑った。笑いながら、もうひと粒、椀に落ちた。
閣下が、卓の下で、私の手を探し当てた。
「王子は」
笑い声が落ち着いたころ、閣下がもう一度訊いた。
「帝都に残った。自分で決めた。誰かが、あちらに王家の顔として立っておらねばならぬ、と。……余をここまで連れてきたのは、あれのただ一人の従者だ。ジュリアンが、貸すと言うた」
長卓の端で、革の帽子の男が鼻の頭を掻いていた。
「あれは、月に一度、母に手紙を書いている。返事は来ぬ。だが、燃やされてもいない。……余にも、一通、来た。そなたの名が、長いほうで、一字ずつ丁寧に書いてあった。その下に、一行だけ。『一応では、ない』と」
(一応では、ない?)
何のことか、わからなかった。わからないのに、胸のどこかで昔の自分の声がした。――一応、この国の第一王女だ。一応、というのが、大事なところだ。
父は、それ以上、何も言わなかった。
卓の下で、閣下の手はまだ私の手を離していなかった。




