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お飾り聖女は、三行で消えるはずの花嫁でした ~生贄として嫁いだ氷の辺境伯は、前世の最推しです~  作者: 真白のあ
終章 我は、汝の隣に、坐す

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第85話 右、左、ちょっと止まって、くるり (最終話)


◆ セラ


 翌朝、父は、鉱山へ行きたいと言った。


「若者が言うていた。二人並んで座れる腰掛けのある部屋のことを。余は、それが見たい」


 閣下が松明を一本だけ持って先を歩き、私が真ん中、父が後ろ。細い通路を、父は腰をかがめてついてきた。息が上がっていた。二十年、玉座から立たなかった足で。


 低い戸口の前で閣下は松明を壁のくぼみに立てた。


「戸口が、低い」


 父が言った。


「三百年前の王さまも、ここで冠を置いて、四つん這いでくぐったそうです」


 父は戸口を見ていた。それから腰の剣を外した。宝石のついた、一度も抜いたことのなさそうな細い剣を。


 戸口の脇の石の上に、置く。


「冠は、持ってこなかった。あれは、もう溶けた。代わりに、これでよいか」

『――よい』


 神さまがおっしゃった。父には、聞こえない。


『この戸口をくぐった王は、二人目じゃよ』


 父は身をかがめ、四つん這いになって、白いひげを石の床にこすりながら、額を戸口の縁にぶつけて――


「……痛い」


 小さく言って、それからくぐっていった。


 戸口の向こうに、白い光がゆっくりと立ちのぼるのが見えた。


 閣下と私は外で待った。閣下の手が、私の手を探し当てた。


『あの男はいま、腰掛けの右側に座っておる。左を、空けてな』


(誰のために)


『今朝、ろばの背でな、名前をひとつずつ口にしておった。お主の母の名から始めて』


 空けてある左の席が誰のためのものなのか、もう訊かなくてもわかった。先に逝った人の名を持って、ここへ下りてくる。この部屋は、そういう部屋だった。


 一人で来た父の隣には、腰掛けの上に母の席があり、その前の床には、神さまがいる。


 戸口の向こうで、父の声が、小さく聞こえた。母の名前だった。


    *


 その夜、厨房の片づけが終わった頃、戸口に父が立っていた。閣下もハインツさんもいない。ひとりで。


「セラ」


 短いほうで、初めて呼ばれた。


「はい」

「あの夜、西の部屋で、あれの手を握っていたのは、余だ」


 父は、戸口から一歩も入らなかった。


「そなたが生まれて、あれが、そなたの名を言うた。それから、余の手を握り返さなくなった。……余は、朝まで離さなかった。離したら、そのあと何を握ればよいのか、わからなかった」


 雑巾を持ったまま、立っていた。


「それから十七年、何も握らなかった。窓の外を見ていれば、手は要らぬ。……昨日、ノアの麦を運んだ。誰かのために何かを運んだのは、あれが最初だ。それで、ようやくこれも運べる気がした」


 父は懐から折りたたんだ紙を出して、戸口の灯りの下で広げた。眼鏡を額に上げたり下ろしたりしながら書いたのだろう、ベンノさんの几帳面な字。


――西の端の部屋。側妃さま、御手当。


 同じ額が、月に一度。十並んで、そこで止まっている。


「先の大司祭が、あれを聖女と認めた。目の見えぬ老人だった。余は側妃の証書に自分で印を押した。老人が死んで、証書は燃やされ、名簿の頁は切られた。余は、止めなかった」


 紙を折りたたんで、父は私の手に置いた。


「そなたは、一応の王女ではない。余の妃から生まれた、この国の王女だ。……それだけだ」


 言って、父は戸口を離れた。廊下を遅い足で戻っていく。


 一応では、ない。兄の手紙の、一行。


『言うたのう』


 神さまが、小さくおっしゃった。


『あとは、お主が聞いた。それでよい』


 干し場へ出ると、閣下が柵にもたれて月を見ていた。


「聞いたか」

「はい」


 答えたら、父に渡された紙を持つ手が震えていた。


「……そうか」


 閣下は紙ごと私の手を包んだ。そのまま、また月のほうを向いた。


 月が傾いて干し場の影が長くなっても、その手は離れなかった。


    *


 その夜、帳面を開いた。


 父の名前の下に、二行。


――低い戸口を、くぐった人。二人目。


――母の手を、朝まで握っていた人。


 それから、三冊も前の、いちばん最初の頁を開いた。ノアの名の隣に、一行。


――王都の窓に、いまも麦を置いている人。父が、名前を運んできた。


 新しい行に、もうひとつ。


――パヴェル。帝国の、東の外れの村。自分を縛っていた紙で、扉の向こうの人のために、火をつけた人。


 炭を置いた。


 王都にいたころから、ずっと訊けずにいたことがある。


(神さま。厨房の、いちばん年寄りの人の名前を、教えてください)


 さあのう、が来ると思って、待った。


 来なかった。


『ヘルガ、という』


 あまりに早くて、聞き逃しそうだった。


『ヘルガ。お主の母が、王に頼んで城の厨房に入れてやった、広場の水売りじゃ。お主の母の顔を、最後まで覚えておった。……春の来る前に、地下の小部屋でな』


(ひとりで、ですか)

『ひとりではない。わしが、隣にいた。階段には、あの子が座っていた。朝まで』


 膝の上の包みを見た。ノアの麦。殻つきで、あわが混じっている。


『それは、ヘルガがこぼしてやった麦じゃ』


 両手で、包みを持ち直した。


『それとな。三人の乳母が逃げたあと、山羊の乳を布に含ませて、お主の口に入れた者がおる。三つの春までな。……ヘルガじゃ』


 炭を、取った。


 ヘルガ。厨房のいちばん年寄り。「生き写しだよ」と言った人。ノアに、毎日、麦をこぼしてやった人。


 その上に、一行、割り込ませた。


――私に、いちばん最初に、食べ物をくれた人。


(神さま。名前は、本人の口から聞くほうが重い、って)

『うむ。じゃが、誰も名で呼ばん者の名は、わしが言う。……今、ヘルガの名を口にする者は、二人おる』

(二人。……ヨルクさんのときと、同じですね)

『最初の頁から、ずっと同じじゃ』


 四冊目の帳面の最後の余白に、小さく書き足した。


――お母さま。生き写しだそうです。昨日、父が初めてそう言いました。


『余白に書いたのう』

「はい。ここだけは、余白に」

『……ずるい』

「はい」


    *


 朝、門まで下りていくと、父はもうろばの背にいた。白いひげが、昇ったばかりの朝日に光っていた。


 くつわは、門番のカールさんが取っていた。王都まで、父を送っていくのだという。


 ハインツさんの肩には、麻袋がひとつ。朝いちばんに、閣下と二人で詰めたものだ。


 春に閣下が自分で樽の釘を抜いた。誰にも開けさせなかった、種麦の樽。七つの村に分けてまいた麦が、この夏、実った。その最初のひと袋。


 袋の口は、私が縛った。閣下が、その上から、もう一度きつく縛り直した。


「二人で結んだ結び目は、ほどけないんだって。マルタさんが」

「……マルタは、何でも知っているな」


 あのとき閣下は、なかなか結び目から手を離さなかった。


「帝国の東の外れの、パヴェルさんの村へ」


 ハインツさんは、袋を担ぎ直した。帝都の兄のところへ戻る道の、途中なのだそうだ。


「余は、王都へ帰る」


 父が、鞍の上で言った。


「エレオノーラの隣に、まだ、座ったことがない。二十七年、同じ卓にいたのにな」


 それきり、父は何も言わなかった。私も言わなかった。言うことは、昨夜、戸口で言われていた。


 ろばが、門の前で一度止まった。


 父が鞍の上で、小さな声で歌い始めた。


 右、左、ちょっと止まって、くるり。


 神さまが話していた歌だ、とすぐにわかった。母が父に教えて、十七年、一度も合ったことがないという歌。


 節はない。言葉をゆっくり並べるだけの歌だ。父の低い声が、ひとつずつ、確かめるように置かれていく。


 右。左。ちょっと止まって。


 少し、遅れた。


 くるり。


 そこで、厨房の窓から、かん、としゃくしの音がした。マルタさんが鍋の縁を叩いて、拍子を取っている。


 父の声が、その音に乗った。


 右。左。ちょっと止まって、くるり。


 合った。


 門番のカールさんが、ろばのくつわを握ったまま、口をぽかんと開けている。閣下は目尻に一本、細いしわを寄せていた。


『……ほら。合うたのう』


 神さまが胸の奥で、うれしそうにおっしゃった。


『遅れても、いつか、合う。わしは、その「いつか」を、ずっと待っておったのじゃ』


 父はもう一度歌わなかった。鞍の上で、ただ小さくうなずいた。


 ろばが朝の光の中を、門の外へ出ていく。南へ。ハインツさんは、東へ。


 父は振り返らなかった。十七年、窓の外を見ていた人が、前を見て行くのだと思った。


 厨房に戻って窓を開けた。包みから麦をひとつまみ。窓枠の右の隅に置こうとして、手が止まった。


 窓枠の隅に、何かが載っていた。


 小さな、くすんだ銅の鈴。三つ。革の紐は切れかけている。長いあいだ、誰かの懐の中で、鳴らないように布に包まれていたものの色だった。


 手に取った。


 一度だけ、鳴った。


 聞いたことのない音だった。聞いたことがある、と思った。


『お主の母の、足首にあった鈴じゃ。十七年、あの男の懐で、鳴らんように包まれておった』


 窓枠に、置いていったのだ。あの人が。ろばに乗る前に、誰にも言わずに。


 長靴は、自分で欲しいと言って、もらった。この鈴は、頼んでも、待ってもいなかった。


 それでも、手は、ちゃんと開いた。


『……うむ』


 背中のほうで、足音が止まった。


「……今の音は」


 閣下だった。門から戻ってきたのだ。


「母の鈴です。父が、置いていきました」


 閣下は、私の隣に立った。鈴を握った私の手を見て、それから、窓枠の右の隅を見た。


 窓の外に、山鳩が二羽、降りてきた。


 私は鈴を握ったまま、左手で麦をつまんだ。閣下も、黙って包みに手を入れた。大きな手が、麦をひとつまみ。


 二人で、窓枠の隅に置いた。


 拍子が、少し、遅れた。


 隣で、もうひとつの手も、同じだけ遅れた。


(了)


最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

セラと閣下の物語は、これで完結です。

長いお話でしたが、ここまでお付き合いいただけて、とても嬉しいです。

この後 帝都にいるジュリアンやパヴェル、軍団長や峠の奇跡を見た兵士たちがどうして行くのかも気になっているので、番外編あるいは続編を投稿する予定です。続きを読みたいと思ってくださる方がいたら、ぜひ教えてください。


ブックマークや☆、感想をいただけると、とても励みになります。

最後に、もう一度。読んでくださって、本当にありがとうございました。

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