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お飾り聖女は、三行で消えるはずの花嫁でした ~生贄として嫁いだ氷の辺境伯は、前世の最推しです~  作者: 真白のあ
終章 我は、汝の隣に、坐す

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番外編1 峠は、雪で通れなかったことになっている



 帝都の下町に、麦の穂亭という酒場がある。雨の日にだけ、やたらと繁盛する。


 北から帰って、ひと月。峠を下りてきた俺たちは、毎週この店の奥の卓に集まっている。


 峠の話は、しない。


 軍団長さまが、皇帝陛下にそう申し上げた。峠は雪で通れなかった。だから、帰ってきた。


 俺たちも、そう言う。兵営でも、村への手紙でも。


 御尊像のほかの光の話をした者は、長生きしない。村には、母ちゃんも妹もいる。


 それでも、ときどき、こぼれる。


「……峠は、雪で、通れなかった」


 ボリスさんが、杯の底を見たまま言った。兵営で、百回は言わされた言葉だ。


「ああ。雪で、通れなかった」


 グレゴールさんが同じことを言って、それから、もっと小さな声で足した。


「……頭の上で、止まる雪でな」


 ボリスさんの肩が、ぴくりと動いた。


「覚えてるか」

「聖女さま、だよな」


 グレゴールさんがちらりと棚の像を見て、声をもうひとつ落とした。


「雪ん中に、膝ついて」

「ミハルの手、握って」

「……光ってた」


「お前、兵隊、長えだろ」


 ボリスさんが、グレゴールさんに訊いた。


「よくあるのか。ああいうの」


 グレゴールさんは、しばらく黙っていた。


「二十年で、一度もねえ」


 杯を見たまま、もう一度。


「……一度も、だ」


「気がついたら、兜、脱いでた」


 俺が言うと、ボリスさんが「……俺もだ」と言い、グレゴールさんが「みんな、だ」と言った。


 それ以上は、続かなかった。


 グレゴールさんが杯を持ち上げた。ボリスさんが黙ってそれに当てた。俺も当てた。


 こつん、と小さな音がした。


「峠は、雪で、通れなかった」


 グレゴールさんが、いつもの声に戻って言った。


「ああ」

「ああ」


 それで、おしまいだ。あとは、給金が遅い話と、ボリスさんの硬い靴の話をする。


 俺は、ヤン。十九。帝国軍で、御尊像を担ぐ係をしていた。三年、毎朝、あの金ぴかの像を肩に載せて歩いた。


    *


 今夜、店に入るとき、棚の小さな陛下の像に、誰も頭を下げなかった。グレゴールさんも、ボリスさんも、俺も。


 わざとじゃない。首が、勝手に止まったのだ。


 おかみが灯芯切りを持ったまま、こっちを見た。


「……雨で、首が凝ったかい」


 凝っていない。三人とも、首をさすった。おかみはふん、と鼻を鳴らして、麦酒を三つ置いた。


    *


 戸が開いて、パヴェルさんが入ってきた。


 侯爵さまの紫の袖は、もう着ていない。灰色の、袖の短い上着だ。離宮で、暖炉の火を組む係になったそうだ。


「紫じゃねえと、誰だか分からねえな」


 ボリスさんが言うと、パヴェルさんは少し照れたように笑った。胸に、油紙の包みを抱いている。


「北から、手紙が届きました。峠の、あの方からです」


 卓が、静かになった。油紙を開く音が、やけに大きく聞こえた。


「――吹雪の夜に、凍えて亡くなった方々の、お名前を教えてください。帳面に、書きたいのです」


    *


 四十人。


 名簿には、一行しかない。凍死、四十。


 帝国の名簿には、もともと俺たちの名前はない。書いてあるのは、村の名と、人数だけだ。年貢の代わりに差し出された者は、麦と同じに、数で量られる。


 その四十の中に、俺の兄貴がいる。


 ひと月、その名前を口にしなかった。口にしたら、何かが崩れる気がした。


「……分かるわけ、ねえだろ。三千いたんだ」


 ボリスさんが、ぼそりと言った。


 そのとき、俺の口が勝手に動いた。


「ルディ」


 みんなが、俺を見た。


「俺の、兄貴です。二十一でした。食い意地が張ってて、俺の分のパンまで食っちまう兄貴で」


 言ってしまった。


 声に出したら、その名前は、思っていたよりずっと、あったかかった。


    *


「……ハンネス」


 ボリスさんが、天井を見たまま言った。


「俺の隣で寝てた。靴屋の倅だ。俺の靴の踵が剥がれたら、夜のうちに、黙って縫い直しやがった」

「だから、お前の靴の話は長いのか」


 グレゴールさんが言うと、ボリスさんは黙って麦酒をあおった。目が、赤かった。


「ヨーナス」


 卓の向こうの男が言った。


「歌が、下手だった」

「あれは歌じゃねえ。狼の遠吠えだ」


 卓じゅうが吹き出した。笑いながら、誰かが袖で目をこすっていた。


 名前が、ひとつずつ卓の上に並んでいく。笑い方。口癖。故郷の話。雪の中の数が、ひとりずつ、顔に戻っていく。


 隣の卓の客まで、こっちを向いていた。カウンターの年寄りが、杯を置いた。


「……クラウス。俺の、甥っ子だ」


 パヴェルさんが、手紙の裏に炭で書いていく。


 十一で、止まった。


 あとの二十九人は、誰も知らなかった。三千の中の、四十だ。隣の列の顔も、俺たちは知らなかった。


    *


「……俺が、凍えりゃよかったんです」


 気がついたら、言っていた。


「俺は、像の番で、天幕の中にいたんです。毛皮の匂いのする、あったかいところに」


 グレゴールさんが、大きな手で俺の頭をぐしゃっと撫でた。


「お前が凍えても、ルディは、あったかくならねえよ」


 それから、黒パンを俺の手に押しこんだ。


「ルディは、お前の分まで食ってたんだろ。今度は、お前が、ルディの分まで食え」


 黒パンは、まだあったかかった。かじったら、鼻の奥がつんとした。


    *


 パヴェルさんが、手紙をめくった。


「最後に、こう書いてあります」


「――分からないお名前の方の分は、帳面に、一行ずつ空けておきます。思い出した方がいたら、パヴェルさんに。次のお手紙で、書き足します」


 空けておく。


 パヴェルさんが、手紙をたたんだ。


「峠で、聖女さまに言われたことがあるんです。言葉は、ちゃんとは覚えてません。ただ、あの人が言ったとき、足もとが、あったかかった」


 ボリスさんが、自分の足もとをちらっと見た。


「……兄貴の名前も、その帳面に」

「ああ。ルディって、書いて送る」


 胸の底で、ひと月凍っていたものが、ほどけていく。


 兄貴は、もう、四十のうちの一じゃない。ルディに、戻った。


「パヴェルさん。その名前、俺に書かせてください。字は書けないけど、教えてください」


 パヴェルさんは、炭を俺の手に握らせた。その上から、自分の手を重ねた。


 線が震える。曲がる。はみ出す。


 ルディ。


 へたくそな字だった。でも、兄貴の名前だった。


 ルディ。


 気づいたら、泣いていた。グレゴールさんの手が、俺の背中に、ずっと置かれていた。


 何も、変わっちゃいない。兄貴は、帰ってこない。なのに、泣きおえたら、胸の重いところが軽かった。


 ボリスさんが、袖ででかい音を立てて鼻をかんだ。おかみが、布巾をぽいと放った。


「袖でかむんじゃないよ。これを使いな」

「……卓拭くやつじゃねえか」

「洗ってあるよ」


 誰かが笑って、雨の音が、また聞こえはじめた。


    *


「そういや、お前」


 グレゴールさんが、ぽつりと言った。


「峠の坂で、ぶつぶつ言ってたぞ。ミハルが死にかけてたときだ」


 覚えていない。


 グレゴールさんは天井を見て、思い出すように言った。


「誰でもいい、あいつを連れていかないでくれ。兄貴みたいに、ひとりで行かせないでくれ。あいつ、帰ったら嫁さんもらうんだ。頼む。……ってな」

「……俺、祈ってなんか、いません」

「そうか」


 グレゴールさんは、麦酒をひと口飲んだ。


「じゃあ、独り言が、ずいぶん遠くまで届いたもんだな」


 それから、杯をどんと置いた。


「お前がな、頼む、って言ったろ。その息が、まだ白いうちにだ。坂の下が、ぱあっと明るくなった」


 グレゴールさんは杯から目を上げて、俺の顔を見た。


「俺は、お前の真横にいたんだ。嘘じゃねえ。この目で、見た」


 俺が覚えてるのは、光ん中で見たもんだ。


 ミハルの指が、だんだん桃色に戻ってった。聖女さまが、その手を握ってくれてた。パヴェルさんが、雪ん中を転びそうになりながら走ってった。


 あいつ、ひとりじゃなかったんだ。


 ひとりで、行かせないでくれ。俺が頼んだの、そのまんまじゃねえか。


 それに、今、思い出した。あのとき、誰も俺の頭を押さえなかった。号令も、なかった。俺が、勝手に雪に膝をついてた。兜を脱いでたのも、そのときだ。


 あんなふうに頭が下がったのは、生まれて初めてだった。


 光ん中で、俺は、像を雪の上に下ろした。三年、肩から下ろせなかった、あの像を。嘘みてえに、すとんと。


 光ん中は、あったかかった。雪ん中なのに、花の匂いがした。


 その匂い、まだ胸ん中に残ってる。


 なのに、帝都に戻ってきたら、朝の号令と、像に下げる頭と、硬え靴で、峠のほうが夢みてえになる。


 でも、こうやって話すと、ほんのちょっと、匂いが戻ってくるんだ。


「……本当に、あったことだよなあ」


 俺が言うと、グレゴールさんがうなずいた。


「ああ。俺は、覚えてる」


 グレゴールさんは、自分の膝をぽんと叩いた。


「この膝な、十年、雨の前に鳴いてた。今夜は、雨だ。鳴かねえ。あの日から、一回もだ」


 ボリスさんが、杯を置いた。


「俺は、靴ん中で、足の指が動いた。十本、ぜんぶ。数えたんだ」

「数えたのか」

「兵隊の癖だ」


 卓が、ちょっと笑った。ボリスさんだけが、笑わなかった。


「ミハルの近くにいたんだ。灰紫の髪の、あの方は、確かに聖女さまだ」


 ボリスさんの声が、大きくなる。


「あの人の後ろにゃ、なんか、いた。あったけえ、でけえもんが。あれが、俺らの靴ん中まであっためてくれたんだ。皇帝の御尊像じゃ、ねえ」

「しっ」


 グレゴールさんが、ボリスさんの腕をつかんだ。目だけで、棚の上の像を見る。


「お前、それ、絶対、外で言うなよ」


 ボリスさんは、口を閉じた。でも、うなずかなかった。


    *


 おかみが、棚の前から歩いてきた。像の前の灯を小皿ごと持ってきて、名前の紙の隣に置いた。


「こっちのほうが、要るだろ」


 それから、塩壺と、黒パンをひとつ。


「これは、おごりだよ」


 黒パンをちぎって、塩をつまんだ。


「……足りてます」


 俺が言うと、おかみが「そりゃよかった」と、塩壺を引っこめた。


    *


 店を出ると、雨は上がっていた。


 月の光で、石畳がきらきらしている。水たまりに、星がひとつずつ映っていた。


 どこからか、この季節にない花の匂いがした。


 明日の朝も、御尊像礼の号令が響く。


 頭は、たぶん、もう、あの像には下がらない。


 下げるなら、あの朝、俺の独り言を聞いてくださった方に。


 水たまりの星を、ひとつ、跨いだ。


 ルディ。兄貴の分まで、ちゃんと食うからな。


(了)


お読みいただき、ありがとうございました。

 名簿には、数しか残らなかった人たちにも、

 名前がありました。

 峠の話は、しない。

 それでも、帝都のあちこちの卓で、

 小さな声は、続いていきます。

 次回は日曜。

 帝都の宿で、長い名前を練習する兄の話です。

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