番外編2 床磨きの妹を蹴っていた兄は、今、帝都の宿で妹の名前を練習している
帝都の宿の三階の端の部屋。
窓が小さくて暖炉も小さい。それでも宿代は王都の侍従の給金ひと月分だと、女将のハンナが言った。
女将といっても、二十六だ。去年親父さんが亡くなって、この宿を継いだのだという。赤茶の髪をひとつに束ねて、帳場と厨房と階段を、一日じゅう走っている。
「安いな」
ハンナが目を丸くした。
侍従の給金がいくらなのか、俺は知らなかった。俺は払った。
金は月に一度、王都から届く。革袋に入って。宛名は、俺の名前だけ。手紙はついていない。封蝋は母上の紋だった。
二十年、金の数え方を知らなかった。払うのはいつも誰かだった。
初めての月、俺は革袋から一枚出して、帳場の台に置いた。
「殿下。それ、金貨です。宿代は銀貨でいいんです」
ハンナにそう言われた。
ハンナは今でも、俺が宿代を払うとき、なぜか俺の顔を見ない。帳場の台ばかり、見ている。
*
朝。俺は暖炉に火を組む。細いのを下に。太いのを上に。隙間をあけて、空気が通るように。
三日で覚えた。……嘘だ。三週間かかった。
ひと月ほど前まで、この宿のすぐ裏の離宮に、父上がいた。
北から帝都に着いた日、俺は離宮の父上の部屋の戸を叩いた。自分から父上の戸を叩いたのは、生まれて初めてだった。
二人で暖炉の前に座った。何も話さなかった。
父上が薪を足そうとした。太いのをいきなり載せた。火は消えた。
俺は黙って組み直した。
「そうか」
父上はそれだけ言った。
それだけだったが、記憶にある限りでは、最も長い二人だけのやりとりだった。
今、父上は北にいる。
父上が北へ行けるように、俺が帝都に残った。王家の顔として。
皇帝の広間のいちばん端に立つ。誰にも話しかけられない場所だ。
それからハインツを貸した。六十を過ぎた王が、驢馬に乗って妹のところへ行った。
驢馬の背で父上はどんな顔をしているのだろう。落ちないように、鞍にしがみついて。
想像したら少し笑えた。笑えるはずなのに、暖炉の前で、俺は少し、鼻の奥がジンとした。
*
戸がどん、と鳴った。
開けると髭面の男が立っていた。靴は泥だらけ。肩には空の麻袋。
「戻りましたぜ、殿下」
ハインツだった。
部屋に入るなり、ハインツは俺の足もとにしゃがみかけた。峠の天幕で初めて俺の長靴を脱がせてから、ずっと抜けない癖だ。
「……っと。殿下はもう自分で脱げるんでしたっけ」
「朝だ。さっき履いたばかりだ」
ハインツは袖をまくって火の前にしゃがむ俺を、頭のてっぺんから、足の先まで眺めた。
「そういや、女将さんが言ってましたぜ。殿下が朝、火を組んでると、宿の娘たちが廊下を三往復するって」
「薪を運んでいるんだろう」
「手ぶらだそうっすよ」
意味が分からなかった。
ハインツは俺の顔をしばらく見て、長いため息をついた。
俺はハインツを蹴らなかった。蹴らなかったことを、褒めてほしいくらいだ。
ハインツは椅子に座って自分の靴を脱いだ。
「北を発つとき、閣下と王女さまから、麦をひと袋預かりましてね」
「麦?」
「戦のあいだ、閣下が釘打って守ってた種麦がありましたでしょう。あれが、この夏、実ったんですよ。その最初のひと袋で。峠の東のパヴェルの村に、届けてきましたぜ」
ハインツは靴下の穴に指を突っこみながら言った。
「峠で王女さまが手を握ってた若いのがいたでしょう。ミハルって兵です。パヴェルと同じ村の出でね。嫁さんもらって、曲がった腕のまんま、鍬を握ってましたよ。袋、いちばんに受け取ってくれたんすよ」
「……そうか」
パヴェルはこの宿のすぐ裏の離宮にいる。毎朝侯爵の扉の前に、薪を三本置いている。近ごろ一本だけ減っている朝があるそうだ。
「朝飯のあとで離宮へ行く。パヴェルに村の麦の話をしてやる」
「へえ。殿下が、自分から」
「うるさい」
それからハインツは懐から油紙の包みを出した。
「王女さまから、殿下に」
俺の手が止まった。
*
字は小さくて丁寧だった。
お兄さまへ。
お父さまが北に着きました。驢馬の上で、白い髭に峠の砂埃をつけて。
夜、厨房の竈の前で、お父さまは帝都の暖炉のお話をなさいました。
太いのをいきなり載せて、消してしまった朝のこと。お兄さまが何も言わずに組み直してくださったこと。
同じお話を三度なさいました。
三度とも、お父さまは窓の外を一度も見ませんでした。
今夜、帳面のお兄さまの名前の下に、五行目を書きました。
――父を北へ送り出した人。
読んで、俺は動けなくなった。
送り出した、のではない。帝都に残ってハインツを貸しただけだ。
それだけで五行目が書かれた。
北の城で、セラの帳面を見せてもらったことがある。フリッツ。六歳。山羊の名前を全部言える。あのとき俺は、まだ書くな、と言った。六歳に負けているから。
五行もらった今でも、フリッツには、まだ勝てる気がしない。
でも、五行だ。
手紙には続きがあった。
長いほうの名前の練習は、進んでいますか。
噛んでも構いません。噛んだ数だけ呼んでくださった、ということなので。
セラ
*
ハインツが俺の顔をじっと見た。
「殿下、泣いてんですかい」
「煙だ」
「煙なら、ちゃんと煙突に抜けてますぜ」
「……煙だ」
ハインツはそれ以上つっこまず、窓の外を見た。
俺は袖で顔をこすった。
それから手紙をもう一度読んだ。最後の行を。
噛んでも構いません。
俺は息を吸った。
「セラ、フィー……」
声が止まった。
舌は回る。六文字だ。王都の子どもでも言える。止まるのは、喉の奥だった。
二十年、俺は妹を名前で呼ばなかった。「お前」と呼んだ。呼ばずに、廊下ですれ違った。
名前をぜんぶ呼んだら、呼ばなかった二十年が、一緒に喉から出てきそうになる。
「……ナ」
ハインツは、急かさなかった。
もう一回。
「セラ、フィー……」
止まった。
「もう一回っすよ、殿下」
「うるさい」
もう一回。
窓の外で、鳩が鳴いた。
もう一回。
パンっと短い破裂音がして、火の粉が飛んだ。
北の城で、俺の部屋の火は、いつもしゅうしゅう言っていた。湿った薪の消えかけの音。
今朝の火は、ぱちぱちと言う。
俺は、深く息を吸った。
「セラフィーナ」
噛まなかった。
窓の外で鳩が羽ばたいた。
「……言えた」
ハインツは窓の外を見たまま、小さく鼻をすすった。
「殿下」
「何だ」
「窓、開けたんすか」
「閉まってる」
「そうですかい」
ハインツは首をかしげた。
「花の匂いがしたんすよ」
俺も嗅いだ。北の城で「安っぽい香水だな」と鼻で笑って、毛布を頭までかぶった、あの匂いだった。
今度は、何も言わなかった。
*
下からハンナの声がした。
「殿下! 朝ごはん、冷めますよ!」
「今行く、ハンナ」
返事をしてから、気づいた。
階段の下がしんとなった。
それからハンナの声が少し変な声で言った。
「……はい、殿下」
ハンナの声は少し揺れていた。
ごとん、と何かが階段にぶつかる音がした。
「女将さん、今ので一段踏み外しましたぜ」
ハインツがぼそりと言った。
俺は手紙を胸の隠しにしまった。
ブーツを自分で脱ぎかけて、やめた。
「ハインツ」
「なんすか」
「朝ごはんの前に、靴、脱がせてやる」
「は?」
「お前の靴だ。泥だらけだろう」
ハインツはぽかんと口を開けた。それから、腹を抱えて笑った。
二十年、人に靴を脱がせてもらうだけだった俺が、人の靴を脱がせた。
ハインツの足は、冷たくて、豆だらけだった。
「殿下。王女さまに手紙書いてもいいっすか」
「何をだ」
「帳面の俺の行、書き直してもらわねえと。『殿下に、靴を脱がされた人』って」
「……やめろ」
*
(了)
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次回は水曜のはずですが、明日から番外編を三日連続で更新します。
11月2日(月)21時と、3日(文化の日)12時に、ギルバートの番外編を前後編で。水曜21時も通常通り投稿を予定しています。
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