番外編3 前編 辺境伯沼
◆ ギルバート
私の帳簿の余白には本来、人の名前を書く。
薪を割った者。粉を挽いた者。雪の峠で荷を引いた者。数字だけでは誰の汗なのかがわからなくなるから、と、十三の冬に叔母の手紙で教わった。
その余白に一冊だけ、人の名前ではないものが並んでいる。
*
夏の終わりだった。秋には王都へ上る。その支度で、私は書庫の帳簿を年ごとに束ね直していた。
去年の冬の一冊を開いたのは、薪の欄を確かめるためだった。
十一月。王女の輿入れの月。
薪の欄の余白が、黒かった。私の字だ。
推し。塩対応。破壊力。供給過多。致死量。解釈、一致。
人気投票、二位。私。一位、閣下。異存なし。
どれも、奥様の口から出た言葉だ。ご本人は胸の内でおっしゃっているおつもりらしい。だが、口は動いている。声も、半分は出ている。閣下も、おそらく初日からお気づきだ。
ここまでは、書いた日のことを覚えている。問題は、その先だった。
十二月。
沼。「辺境伯沼に落ちました」と仰せ。領内の湿地を測量させる。該当なし。柵の予算は保留。湿地にあらずんば、閣下ご自身が底なしである可能性。要観察。
尊死。本日三度。いずれもご存命。殉教の一種と推察。教会への届けは保留。
強火。「閣下の強火担です」と自称。火刑の担当官と推察。王都の符牒は物騒である。
一月。
課金。ご自分に課金なさると仰せ。王女が王女に課税。尊いものを見た者が、自ら納める税と推察。仮に「尊さ税」として計上。
布教。侍女らへの布教が完了したと仰せ。新しい宗派の発生に注意。教義は「閣下は尊い」の一条のみ。
ビジュ。「今日も閣下のビジュがいい」。天候の符牒と推察。翌日、晴れ。三度のうち二度、一致。
祭壇。閣下の祭壇を設けたいと仰せ。閣下はご存命である。却下。
推し変。「推し変は、しません」と仰せ。推しの異変と推察。推しが何を指すかは不明。異変がないのは良いことである。記録。
余白は、春の手前で途切れていた。ある日から、奥様はあの言葉を口にしなくなった。理由は、帳簿には書いていない。
私は束ねるのをやめて、頁を最初から読み返した。
意味は、ひとつもわからない。ただ、並べてみると、どの言葉も閣下を高いところへ上げようとしているように見えた。殉教。宗派。献げる税。祭壇。
去年の冬の私は、余白の最後に、自分でこう書き足していた。
閣下に要るのは祭壇ではない。薪である。
読み返してわかったことは、ひとつだけだ。
私は半年かけて、何ひとつ解読していない。
*
「ギルバートさま、箱、ここ置いときます」
ニコだった。書庫の扉を足で開けている。両腕に、帳簿の箱を三つ。
箱を下ろしたニコの目が、開いたままの頁に落ちた。閉じるのが、一拍遅れた。
「……尊さ、税? ギルバートさま、尊さ税って、新しく取るんすか」
「取りません」
「沼の柵の予算って」
「保留です」
「保留ってことは、ちょっとは考えたんすね」
私は帳簿を閉じた。
ニコは、何か大事なものを受け取った顔をして書庫を出ていった。あれは、言いふらす顔だ。九年、兵舎の帳簿をつけてきた。誰が何を言いふらすかは、顔でわかる。
*
昼には、洗濯場が知っていた。
干し場の柱の陰を通ると、シーツの向こうからエルザの声がした。
「閣下が沼なら、あたしらはもう、首まで浸かってるよ」
「息してるだけで、ふぁんさだもんねえ」
ふぁんさ。これも去年の冬からある言葉だ。余白には「意味不明。洗濯場で流行」とだけ書いてある。
私は柱の陰で帳簿を開いた。
ふぁんさ。閣下の呼吸に関する何か。
書いてから、線を引いた。
閣下の呼吸の制限だけは絶対にしないでください、と、去年の冬、奥様に念を押されている。絶対に、と二度言われた。記録もしてある。
頁をめくると、今年の余白に、新しい項目があった。
笑顔。
四月三日。閣下、朝の粥の席で笑われる。奥様、匙を落とす。
四月九日。閣下、兵の冗談で笑われる。奥様、椅子ごと後ろへ傾く。ヘルマンが受け止める。
四月十二日。閣下、奥様と目が合って笑われる。奥様、回廊の壁にもたれたまま、四半刻。
致死量の疑いあり。呼吸ではないので、制限の進言は許されると判断。進言。
却下(閣下)。理由、「倒れるなら、私が受け止める」。
以後、閣下の笑顔、日に五度へ増加。原因、調査中。
回廊の壁には、念のため厚手の布を張らせた。費用、薪二本分。
*
夕方には、厨房じゅうが知っていた。
「閣下は、沼らしい」
「底なしの」
「柵がいるな」
ヘルマンが、粥の鍋の前で腕を組んでいる。
「強火担ってのは、竈の火の番のことか。なら、俺だな」
「お前は鼻が赤いだけだ」
オットーは黙って薪を割っている。割りながら、肩が揺れている。
マルタが杓子で鍋の縁を叩いた。
「尊さ税は、尊いと思ったもんが払うんだろ。なら、この城のもんは全員だね」
「俺は払わんぞ」
竈の脇でヨーゼフが言った。誰も、ヨーゼフから取るとは言っていない。
「払うなら、マルタにだ」
「いらないよ」
マルタが、もう一度鍋の縁を叩いた。さっきより強く。
ルッツだけが、井戸の桶を抱えたまま、真剣な顔で立っていた。
「ギルバートさま。布教って、俺も、もう、されてますかね」
訂正はしなかった。訂正するには、正しい意味が要る。私は、まだそれを知らない。
奥様は、麓の村へ麦を届けに出ていた。戻るのは、明日の昼だ。この城でただひとり帳簿の余白を読める人が、今夜はいない。
*
日が落ちてから、兵舎の点検に回った。
奥の寝台の脇に、蝋燭が一本立っていた。
踏み台の上に、白い布。布の上に、片方だけの革手袋。閣下が先月、厩で落とされたものだ。厩番が届けに行ったきり、どこへ行ったのか誰も知らなかった。
手袋の前に、干し林檎がひとつ。その隣に、木の匙が一本。匙には見覚えがあった。厨房でマルタに取り上げられたはずの匙だ。
「……ニコ」
寝台の陰から、ニコとオットーが顔を出した。
「祭壇っす」
「却下された記録があります」
「だから、兵舎に作ったんす。却下されたのは、城の祭壇でしょう」
オットーが、干し林檎を指さした。
「去年の冬、峠の見張りで腹が減って、ニコに一つ借りたんです。春に返す約束だったんですが、こいつが利子をつけると言いだしたんで。つく前に、閣下に納めることにしました」
「納める相手が違います」
「尊さ税ってのは、閣下に納めるもんじゃないんすか」
私は、帳簿を開いた。
祭壇。兵舎の奥に設営を確認。供物、干し林檎一つ(オットー。峠でニコに借りた分。利子発生前の返済を兼ねる)。木の匙一本(ニコ。没収済みのはず)。閣下の手袋、片方(遺失物。届け出なし)。
蝋燭は消させた。火の扱いだけは、帳簿の外でも許さない。
手袋は、祭壇から下ろして懐にしまった。冬になると、閣下の指の節は割れる。手袋は、拝むものではなく、はめるものだ。
干し林檎と匙は、そのままにした。撤去するには、それが何なのかを知らなければならない。私は、まだそれを知らない。
*
夜、執務室へ書類を届けた。
暖炉には薪が五本燃えている。閣下はペンを動かしたまま、顔を上げない。
書類を机の端に置いて、懐の手袋をその隣に置いた。
「ギルバート」
「は」
ペンの音が、続いている。
「この手袋は、どこにあった」
「兵舎の、祭壇に」
「祭壇」
「閣下はご存命であると、記録してあります」
ペンの音が、続いている。
「それから」
「は」
「私は、沼なのか」
閣下の声は、いつもと同じ高さだった。書類から目も上げない。ペン先が、同じ一行の上を二度なぞった。
私は眼鏡を外して、拭いた。
曇っては、いない。
奥様の帰りを、これほど待った夜はない。




