番外編3 後編 推し
◆ セラ
麓の村から戻ると中庭の水たまりに柵が立っていた。
杭が四本。縄が一本。杭の一本に板切れが打ちつけてある。
沼。
ヘルマンさんの字だった。
「おかえりなさい、奥様」
ヘルマンさんが杭の脇で胸を張った。
「落ちると危ないんで」
「……水たまりですよね」
「閣下は、底なしだって聞いたんで」
意味がわからなかった。わからないまま、厨房へ向かった。
厨房の戸口でマルタさんが待っていた。
「お姫さん。尊さ税ってのは、いくら払えばいいんだい」
「え」
「城じゅうが、坊ちゃんの分を払う気でいるよ。ヨーゼフだけは、払うならあたしにだって言うんだ。いらないって言ってんのに」
「俺は、マルタにしか払わんぞ」
かまどの脇からヨーゼフさんの声がした。
井戸のほうからルッツがおけを抱えて走ってきた。
「奥様。俺、もう布教されてますか」
背中が、すうっと冷えた。
尊さ税。布教。沼。
全部、知っている言葉だった。去年の冬、私の口から出ていった言葉だ。
『お主の言葉が、城じゅうを歩いておるのう』
神さまが楽しそうにおっしゃった。
(どうして、今ごろ)
『あの若者の帳簿じゃよ。余白が、ちいと賑やかでのう』
振り返ると回廊の柱の陰に銀縁の眼鏡が光っていた。
ギルバートさまは帳簿を一冊、胸に抱えていた。
「お帰りなさいませ、奥様。伺いたいことがございます」
執務室には、閣下がいた。いつもの机でペンを持っている。
戸口にはなぜかマルタさんとニコがいた。呼ばれていないのに。
ギルバートさまが帳簿を開いて机の端に置いた。
薪の欄の、余白。
去年の冬の、私の言葉が並んでいた。その一つ一つの横にギルバートさまの几帳面な字で説明がついている。
読まなければいいのに目が勝手に読んだ。
沼。「辺境伯沼に落ちました」と仰せ。領内の湿地を測量させる。該当なし。柵の予算は保留。
その次の行で、声が出た。
「……湿地にあらずんば、閣下ご自身が底なしである可能性。要観察」
読み上げてしまった。
閣下のペンが紙の上で浮いた。
「底は、ある」
閣下が、真顔で言った。
「では、測量の予算を組みましょうか」
「要らん」
戸口でニコが壁に額をつけて震えている。
(閣下が、ご自分の底のあるなしについて、真顔で反論している……)
帳簿を、閉じたくなった。
「一語ずつ、伺います」
ギルバートさまの眼鏡のレンズが光った。ように見えた。
「沼」
「……抜け出せないくらい、好きになることです」
「何を」
閣下のほうは見ないようにした。
「好きな、ものを」
「辺境伯沼、とありますが」
「…………はい」
ギルバートさまが余白に線を引いた。その横に書き足す。
沼。好きになって抜け出せぬこと。測量、不要。
底なしの行には線を引かなかった。
「そちらは」
「間違ってはおりませんので」
閣下の問いに、ギルバートさまは顔も上げずに答えた。
閣下が、ペンを置いた。
「柵は」
「不要です」
「そうか」
「強火」
「すごく、熱心に応援する人のことです」
「火刑の担当官ではないのですね」
「違います」
「閣下の強火担、とありますが」
「…………はい」
「課金」
「好きな人のために、自分のものを差し出すことです」
ギルバートさまが余白から目を上げた。
「去年の冬、奥様が差し出したものなら、帳簿にあります」
ギルバートさまは前の頁をめくった。
「王都の料理長の岩塩、ひとかけ。閣下のスープ、毎晩。螺旋階段の上り下り、同じく毎晩。吹雪の夜も、一晩も欠かさず。……尊さ税は、すでに納められています。取り立ては、不要です」
マルタさんが戸口で鼻を鳴らした。
「なら、今度は坊ちゃんが払う番だね。お姫さんに」
「ビジュ」
ギルバートさまの声が少し速くなった。
「天候の符牒ではないのですか。三度のうち二度、翌日が晴れました」
「見た目が、いい、ということです」
「何の」
「……閣下の、お顔の」
「天気に関係なく」
「天気に、関係なく」
閣下が窓の外を見た。曇ってたけど。
「祭壇」
「好きな人のものを飾って、大事にする場所です」
「兵舎に、閣下の手袋が祀られておりました」
「え」
「供物は干し林檎一つと、木の匙一本です。手袋は、昨夜、私が下ろしました」
戸口のニコがマルタさんの後ろに隠れた。隠れきれていない。
閣下が、机の上の手袋を見た。
「拝まれるより、はめるほうがいい」
「推し変」
「好きな人を、ほかの人に替えることです」
「何かの異変ではないのですね」
「違います」
「しません、と仰せでした」
「…………言いました」
閣下が、こちらを見た。
私は、帳簿の余白を見た。
「最後に」
ギルバートさまが頁のいちばん上を指でたどった。
「いちばん初めの一語です。去年の十一月、奥様が最初に口にされた言葉」
推し。
「推しとは、何ですか」
答えは、知っていた。前の私が何千回も使った言葉だった。
「いちばん応援したい人のことです」
声が、途中でかすれた。
「きらきらした人を、上のほうに見上げているんです。前の私は、そうでした」
暖炉の薪が、ひとつ崩れた。
「今も」
閣下が言った。
「今も、私は推しか」
ギルバートさまのペン先からインクが一滴落ちた。
戸口でマルタさんが前掛けを握った。
私は、閣下の手を見た。机の上に置かれた、大きな手。冬になると指の節が割れる手。その手がどれだけ冷たくなるのかを、私は知っている。
「推しでは、ありません」
閣下の眉が寄った。
息を吸った。
「閣下の手が冷たいことを、知ってしまったので」
閣下は口元を手で押さえて、また窓の方を向いた。
ギルバートさまは帳簿の余白に書いた。
推し 見上げる人。閣下は該当せず。
その下に、もう一行。
「何て書いたんすか」
「訳した人の名前です」
セラフィーナ。
ギルバートさまの几帳面な字で、余白のいちばん下に、私の名前があった。
執務室を出て回廊の角を曲がったところでギルバートさまを呼び止めた。
マルタさんとニコは先に厨房へ下りていった。
「ギルバートさま。余白に、もうひとつ書き足してもらえますか」
「まだ、ございましたか」
「声には、出していなかったので」
去年の冬、神さまにだけ言った言葉だった。
私は、声を落とした。
「同担の鑑」
ギルバートさまが帳簿を開いた。ペンを構えて、待っている。
「同担というのは、同じ人を好きな者同士のことです。鑑は、お手本」
ペン先が、紙に下りた。
「閣下のことを、ご自分よりも大切に思っている人。そういう人のことを、私はそう呼びました。……ギルバートさまのことです」
内緒ですよ、と言い足した。
「……干し場で、一度、伺いました」
「え」
「シーツの陰で。去年の十一月です」
ペン先が、紙の上で震えた。
「意味がわからないまま、書けずにおりました。余白には人の名前を書きますが、自分の名前を書くことは、叔母に教わっておりませんでしたので」
(全部、聞こえていた……?)
ギルバートさまは、それには答えずに書いた。
同担の鑑。
その下に、もう一行。
ギルバート。
帳簿の余白に、ギルバートさまが自分の名前を書くのを、初めて見た。
「奥様。では、人気投票の二位、というのは」
「あれは、見上げていたころの順位です」
ギルバートさまのペンが止まった。
「今は、ギルバートさまの眼鏡が曇っていないことまで、知っているので」
ギルバートさまは帳簿を閉じて眼鏡を外した。拭かなかった。
回廊の窓の外をしばらく見ていた。閣下が、よくそうするように。
『名前が、ふたつ増えたのう』
神さまがおっしゃった。
『あの若者の余白は、ええ余白じゃ』
その日の夕方、兵舎の祭壇は片づけられた。
干し林檎は、利子なしでニコの手に戻った。匙は、マルタさんの手に戻った。
中庭の沼の柵は、まだ立っている。ヘルマンさんが外したがらないのだ。
「意味は聞きました。けど、底なしなのは、変わらねえんで」
翌朝、杭の板切れに、字が増えていた。
いちばん上に、ヘルマンさんの字で「沼」。
その下に、同じ字で「辺境伯沼」。正式な名前だと言わんばかりに、大きく。
そのさらに下に、角ばった、硬い字で、“底は、ある”
さらにその下に、几帳面な字で“測量、不要”
その横に、また大きな字で、ヘルマンさんが書き足している。“底なし”
(閣下の直筆が、中庭の杭に……。持って帰れない……あっでも推しじゃない。推しじゃないから持って帰らなくても大丈夫。)
『沼とは、よう言うたもんじゃのう』
神さまの感心したような声が、とどめだった。




