番外編4 家令は、椅子に座らない
◆ ギルバート
執務室の暖炉の前には、椅子が二脚ある。
暖炉にいちばん近いほうは、奥様の席だ。毎晩、スープが冷めるまでそこに座っておられる。冷めてからも座っておられる。閣下がそう決めたので、問題はない。
もう一脚は、私の席ということになっている。
ことになっている、と書くのは、私が座ったことがないからだ。
置かれてから、三百十日になる。帳簿の余白に、毎晩、正の字を足している。誰に頼まれたわけでもない。
座らない理由は簡単だ。
家令は、主の後ろに立つ。座れば、後ろが空く。空いた後ろに何が来るかはわからない。刺客かもしれないし、すきま風かもしれない。どちらも私の仕事の範囲だ。
この理屈を、私は三度説明した。
一度目は奥様に。奥様は「はい」とおっしゃって、翌日、私の椅子に膝掛けを載せた。灰色の、厚手のやつだ。
私は膝掛けを四つに畳んで、椅子の背に掛けた。座る理由にはならない。
二度目はマルタさんに。マルタさんは黙って、私の椅子の座面に湯気の立つ椀を置いた。
「座らないなら、それは棚だよ」
私は椀を取り上げて、立ったまま飲んだ。大麦と蕪。塩は、いつもより多かった。
三度目は閣下に。
「座れ」
「業務上、立っております」
「命令だ」
「その命令は、帳簿のどの欄に記入いたしましょう」
閣下は、しばらく私を見ていた。それから書類に目を戻した。
「……好きにしろ」
勝った。勝ったはずなのに、その夜の正の字は、いつもより筆圧が強かった。
四日目。私の椅子に、グラウが座っていた。
前足を揃え、背筋を伸ばして、暖炉の火を見ている。私よりずっと家令らしい座り方だった。
「……記録します。グラウ、着席」
グラウがこちらを見た。ふん、と鼻を鳴らした。
◆ セラ
グラウが椅子を取ってから、三日がたった。
ギルバートさまはその三日、グラウの後ろに立っている。閣下の後ろではなく。
(立ち位置が、ずれています。……ずれていますけど、ご本人は気づいていません)
閣下は気づいている。書類の向こうから、ときどきグラウとギルバートさまを見比べて、何も言わない。口の端だけが、毎回わずかに動く。
私も、作戦を立てた。
「ギルバートさま。この椅子、脚がぐらつく気がするんです。確かめていただけますか」
ギルバートさまはグラウを抱き上げて床に下ろし、椅子の座面を両手で押した。右、左、前、後ろ。それから脚を一本ずつ握って揺すった。
「ぐらつきは、ございません」
「座ってみないと、わからないかもしれません」
「押して、わかりました」
グラウが、すぐに椅子へ戻った。
(作戦、失敗です。……グラウ、それは味方の動きではありません)
五日目の夜、手紙が届いた。
帝都からだった。封蝋は帝国の紫。差出人の欄に名前はない。角ばった字で「峠の、勘定の男より」とだけ書いてある。
閣下が封を切って、二枚目をめくって、眉を寄せた。
「……長い」
手紙が、ギルバートさまのほうへ差し出される。
「読め。……座って読め」
ギルバートさまは、手紙を受け取ったまま動かなかった。
グラウが、椅子から下りた。
誰にも言われていないのに。のそのそと私の足もとまで来て、伏せる。椅子が空いた。
ギルバートさまは、空いた椅子を見た。眼鏡を押し上げかけて、手を止めた。
それから、座った。
椅子が、きしりと鳴った。三百十七日目に、初めて。
(……ギルバートさまが、座りました)
声に出しそうになって、スープの椀で口を隠した。
ギルバートさまは背筋を伸ばしたまま、手紙を読み上げた。
「北の辺境伯殿。帝都は冬が早い。皇帝陛下は、この冬を越せないかもしれないと医者が言っている。医者がそう言うのを、俺は初めて聞いた」
「ひと月前、東から使節が来た。砂の国だそうだ。帝都の広場の金の像を見て、笑いもせず、拝みもせず、像の足もとの石を手で撫でていた」
「その使節が、帝都じゅうで訊いて回っている。北の峠で、兵が兜を脱いだというのは本当か。名前を忘れない神とやらは、どこにいるのか」
「俺は、知らんと言った。嘘ではない。俺はまだ、その神の名を知らん」
ギルバートさまの声が、そこで止まった。眼鏡の奥で、目が手紙の上を二度、行き来した。
「……追伸。麦の穂亭では、雨の日になると、まだ峠の話をしている。雪で通れなかったことになっている峠の話だ」
「追伸の二。同封のものは、使節が帰りぎわに置いていった。北に渡せ、と」
封筒の底から、銀貨が一枚、机の上に転がり出た。
見たことのない銀貨だった。帝国の銀貨より薄くて、縁がわずかに欠けている。表に、男の横顔。
男は、冠をかぶっていない。
冠は、男の手の中にあった。胸の前に、持っている。
閣下が銀貨をつまんで、燭台の火にかざした。指の先で、縁の欠けたところをなぞる。
「……冠を、手に持っている」
低い声だった。
鉱山の奥の、低い戸口を思い出していた。あそこは、冠をかぶったままではくぐれない。
ギルバートさまが手紙を畳んだ。
「閣下。返書は」
「明日だ」
「では、今夜のうちに下書きを」
「明日だ」
閣下は銀貨を机に置いて、立ち上がった。暖炉の前まで来る。
そして、ギルバートさまの椅子の後ろに立った。
ギルバートさまの背中が、ぴんと固まった。
「……閣下。そこは」
「何だ」
「私の、立つ場所でございます」
「今夜は、私が立つ」
(主従が、逆です。……解釈が、追いつきません)
ギルバートさまは何か言いかけて、閉じた。眼鏡を外して、拭いた。かけ直して、暖炉の火を見た。
閣下は、そこに立っていた。
薪が、ぱちん、と鳴った。
ギルバートさまは、手紙を読み終えても、立たなかった。
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「読め。……座って読め」
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