番外編5 払うなら、マルタにだ
◆ マルタ
家令が椅子に座ったらしい、と朝いちばんに聞いた。
ニコが粉袋を運びながら言ったのだ。
「三百十七日目だそうです。ギルバートさまが、ご自分の帳簿に書いてたって」
あたしは鍋の蓋を閉めた。
「やっとかい」
あの椅子に椀を置いて「棚だよ」と言ったのは、あたしだ。家令が三百十七日なら、あたしは……。
数えるのは、やめた。
*
一日目は、炭だった。
夜明け前、かまどに火を入れようと厨房の戸を開けたら、戸口にかごがひとつ置いてあった。炭がいっぱい。上等の、かんかん鳴るやつだ。
かごの脇に、炭焼きの爺が立っていた。
「尊さ税だ」
「いらないよ」
「払うなら、マルタにだと言った」
「だから、いらないって言ってんだよ」
ヨーゼフはかごを置いたまま、おき火の壺を抱えてかまどの脇に座った。去年の冬から、そこがあの爺の場所になっている。
あたしはかごを戸の外へ押し出した。
昼に見たら、かごは戸の内側に戻っていた。夕方にはかまどの脇にあった。
夜のかまどはその炭で焚いた。
炭に、罪はないからね。
*
二日目は、しゃくしだった。
朝いちばんに、白木のしゃくしが一本、調理台の上に置いてあった。柄がすべすべに削ってある。握るところだけ、指の形にゆるく窪ませてある。
「いらないよ」
かまどの脇の爺は、壺の蓋を閉めただけだ。
あたしのしゃくしは四十年使っている。鍋の縁を叩いて、若いのを叱ってきたしゃくしだ。
そのしゃくしが昼前に割れた。
ヘルマンが鍋の味見で指を突っこんだので、縁を叩いた。かん、と鳴って、柄の付け根からぱきりといった。
鍋の煮える音だけが残った。
ヘルマンが指をくわえたまま後ずさる。ニコが戸口で帳面を出す。どこから持ってきたんだい、その帳面は。
「……昨日、ギルバートさまの帳簿の話で、マルタさんが三十回くらい叩いたんで」
ニコが小さい声で言った。
「数えてたのかい」
「ギルバートさまが、記録しておけって」
あたしは割れたしゃくしを握って、立っていた。
夕方の粥は白木のしゃくしでかき回した。
しゃくしに、罪はないからね。
握るところの窪みが、あたしの指にぴったり合った。いつ測ったんだい、あの爺は。
*
三日目の昼には兵舎で賭けが始まっていた。
「マルタさんが受け取るほうに、干し肉ひと切れ」
「受け取らないほうに、ふた切れ」
「四十年待ったんだ。あと四十年に、三切れ」
最後のはヘルマンだ。あとで粥を薄くしてやる。
厨房の隅で、バルトが粥の鍋をかき回している。王都から歩いてきて、そのまま居ついた男だ。あたしのかまどの隣に、自分のかまどを据えた。
「バルト。あんたは、どっちに張ったんだい」
「受け取らないほうに、ふた切れ」
「根拠は」
「あんたは、俺の塩加減を認めるまでに、半年かかった」
返す言葉がなかった。あの塩加減は、まだ認めていない。
「半年かかる人が、四十年ぶんを三日で受け取るわけがない」
もっともらしいことを言う。鍋の中身は、また塩が強いくせに。
その日の三つ目は蜂蜜の小壺だった。
炭焼き小屋の裏の、古い巣から取ったやつだと、グレーテが教えてくれた。春の婚礼の夜に皆でパンに塗った、あの蜂蜜だ。
「いらないよ」
「なら、坊ちゃんのパンに塗れ」
ずるいね、この爺は。
坊ちゃんのパンだと言われたら、あたしは断れない。四十年、それで生きてきたんだから。
昼に坊ちゃんが下りてきたので、黒パンに塗って出した。
坊ちゃんはひと口かじって、手を止めた。
「……甘い」
「文句があるなら、返しな」
「ない」
坊ちゃんは残りを全部食べた。それから、かまどの脇の爺を見て、あたしを見て、何も言わずに上へ戻っていった。
……何か言いなよ。言われても困るけど。
小壺を棚にしまっていると、戸口でお姫さんが手を口に当てていた。
「……四十年越しの、個別ファンサ……」
声に出ていた。
「ふぁんさは、坊ちゃんが肩を叩くやつだろ。個別って何だい」
「あ、いえ。推しが、自分だけのために何かしてくれることで」
「あの爺は、推しじゃないよ」
お姫さんがぱっと顔を上げた。
「推しでは、ありません、ですね」
「なんで嬉しそうなんだい」
「いえ。どこかで、聞いた言葉なので」
お姫さんはにこにこしながら帳面を抱えて出ていった。
何がそんなに嬉しいんだか。
*
その夜、かまどの火を落としたあと、あたしは厨房にひとりで座った。
棚には炭の残りと、白木のしゃくしと、蜂蜜の小壺。
受け取ったら、どうなるのか。
四十年前の冬、そりの上で、炭焼きのこせがれが何か言いかけた。あたしは十八で、聞こえないふりをした。春になってこせがれは父親の葬式に帰り、それきり戻らなかった。
あの爺は村で所帯を持った。あたしはこのかまどと所帯を持った。
損だったとは思わないよ。あの爺は女房を大事にした。グレーテを見ればわかる。あたしは坊ちゃんを育てた。
なのに、棚の三つを見ていると、腹のあたりがそわそわする。
受け取ったら、返さなきゃならない。あたしに返せるもんなんて、このかまどくらいしかないじゃないか。
前掛けの隠しに、手を入れた。
去年の冬、洞で拾った塩のかけらがまだ入っている。春も夏も、出しもせず、捨てもしなかった。
*
四日目の朝。
戸口には、何も置いてなかった。
かまどの脇に、爺がいつものように座っていた。おき火の壺を膝に抱えて、手ぶらだ。
「今日は、払うもんがない」
「そりゃよかった。いらないって言ってんだから」
「代わりに、借りを払う」
ヨーゼフは壺の蓋を開けた。おき火が赤く息をしている。
「四十年前、そりの上で言いかけたことだ」
あたしの手が粉ふるいの上で止まった。
去年の冬、あの爺は帰り道で言うと言った。帰り道で言ったのは「塩、足りたか」だけだった。あたしは笑って、それで済ませた。済ませたつもりだった。
「――あんたの隣で、火の番がしたかった」
厨房に、白い花の匂いがした。
百合は礼拝堂の祭壇の脇にしかない。厨房に花なんか、ひとつもない。
どっかの誰かがまた隣で笑ってるね。
「……したかった、って何だい」
「今も、したい」
爺の鼻の頭が赤かった。
六十も過ぎて、夜明け前から、こんなことを言いに来て。
馬鹿だね、と言おうとして、やめた。言えば、また四十年前と同じになる。
「……火の番なら、もうひと冬と、春と夏、してるじゃないか」
声がちっとも怒鳴っていなかった。自分でも驚いた。
「あんたが黙って座ってるあいだ、かまどの火は一度も消えてないよ。坊ちゃんがもう一度火を組んだ朝から、ずっとね」
ヨーゼフは壺の中のおき火を見ていた。
「なら、受け取ったか」
「何をだい」
「借りだ」
あたしは前掛けの隠しから、塩のかけらを出した。
白木のしゃくしで、それを削った。
朝いちばんの粥を椀によそう。爺の椀に、塩をふたつまみ。去年の冬と、同じだけ。
「……尊さ税ってのは、払いたくなって払うもんなんだろ」
椀をかまどの脇に突き出した。
「なら、あたしも払う」
ヨーゼフは椀を受け取って、ひと口すすった。
「……しょっぱい」
「文句があるなら、返しな」
「ない」
昼の坊ちゃんと、同じ返事だった。
爺は最後の一滴まで飲みほした。空の椀をかまどの脇に置く。
それから、言った。
「明日も、隣にいていいか」
「好きにしな。……火の番が、いないと困るんだよ」
*
昼には兵舎の賭けが片づいていた。
干し肉はルッツが総取りした。受け取るほうに張っていたのはあの子ひとりだったらしい。
ヘルマンは三切れ、バルトはふた切れ取られて、鍋の前でぶつぶつ言っている。粥は薄くしてやらなかった。今日は機嫌がいいんだよ。
夕方、厨房にルッツが来た。
干し肉を一切れ、調理台の端に置く。
「マルタさん。尊さ税です」
「勝ったのは、あんただろ」
「勝ったから払うんです。……俺、ヨーゼフさんの椀だけ、去年の冬から塩が多いのを知ってたんで」
あたしはしゃくしを持ったまま、ルッツを見た。
「……なんで知ってるんだい」
「夜番明けの粥は、俺が配ってるんで。皆はひとつまみ。ヨーゼフさんだけ、ふたつまみ」
かまどの脇の爺が、椀を持ったまま天井を見た。
あたしは新しいしゃくしで、ルッツの額をこつんと叩いた。
「いてっ」
「余計なことは、見なくていいんだよ」
「見えちゃうんです。粥の係なんで」
干し肉は、その夜の粥に刻んで入れた。
干し肉に、罪はないからね。
塩は、洞の塩を、ひとつまみ。
かまどの脇で、爺が椀を覗きこんだ。
「……あの壁は、奥にまだある」
「何がだい」
「塩だ。俺が見たのは手前の壁だけだ。奥まで続いてる気が、昔からしていた」
「気がしてただけだろ」
「四十年、そう思ってた」
「……」
「春になったら、見に行く」
あたしは粥をかき回す手を止めなかった。
*
翌朝、洗濯場の前を通った。
井戸の脇で、お姫さんがたらいに手を突っこんでいた。しき布を揉んでいる。袖をまくった腕の、手首から先だけが赤い。
奥様だよ、あの子は。辺境伯の奥様だ。
王都なら、奥様はたらいに触りもしない。触らせる下働きを十人は雇う。この城には、雇う銀貨がない。鉱山は枯れて、坊ちゃんは自分の取り分を削って、売られた若いのを買い戻している。
それで奥様は、毎朝、床を磨いて、しき布を揉む。
「マルタさん、おはようございます。今日は風が乾いているので、よく乾きそうです」
鼻の頭まで赤くして、そんなことを言う。
あたしは厨房に戻って、かまどの脇の爺の前に立った。
「爺さん。奥の壁、雪が来る前に見に行きな」
「春じゃなかったのか」
「春まで待ったら、奥様の手が、あかぎれだらけだよ」
ヨーゼフはおき火の壺の蓋を閉めた。
「……つるはしが要る」
「ヘルマンのを使いな。あの子は味見しかしないんだから」
爺は壺を抱えて立ち上がり、戸口で振り返った。
「マルタ」
「何だい」
「塩が出たら、あんたのかまどで最初に焚いた粥に入れる」
「当たり前だろ。……ほら、早く行きな」
爺の背中が、まだ雪のない中庭を遠ざかっていく。
あたしは鍋の蓋を開けて、粥に塩をひとつまみ落とした。洞の塩の、最後のかけらだった。
昼前、ヘルマンが厨房に駆けこんできた。
「マルタさん! 俺のつるはしが、どこにも――」
「味見の罰だよ」
「えっ」
鍋の縁を、新しいしゃくしで叩いてやった。いい音がした。




