幕間1 おき火の作り方を、誰に習った
◆ 軍団長
金の間の扉の脇に、薪が三本ある。
冬のはじめから、ずっと三本だ。火の番の若いのが、毎朝しゃがんで、湿ったのを抜いては乾いたのと替えていく。誰も燃やさない薪を、毎朝だ。勘定に合わない仕事だが、俺は嫌いじゃない。
あの若いのは、パヴェルという。峠のあとで覚えた。それまでは「従者」と呼んでいた。三年、同じ野営地にいた。
峠から戻って、俺は離宮の警護に回された。三千五百を動かしていた男が、今は扉ひとつの番だ。動かすのは自分の足二本で、それも、動かさないのが仕事だ。
陛下は、俺の報告を信じていない。峠は雪で通れませんでした、と申し上げた。嘘は言っていない。俺たちが通らなかったのだから、通れなかったのと同じだ。
信じてはいないが、首は取れない。三千五百で出て、三千四百六十を生きて連れて帰った男だ。兵はそれを知っている。その男の首を刎ねたら、次の朝、第四軍団の槍がどっちを向くか。陛下にも、そのくらいの勘定はできる。できなければ、とうに玉座にはおられない。
だから殺さずに、そばに置いて見張る。俺が陛下でも、そうする。俺なら、ついでに給金も上げておくが。
帳簿は、もう一冊つけている。誰に見せるものでもない。
秋に、砂の国の使節が来た。こぶのある獣に乗って、贈り物の荷車は一台もなし。陛下には会えなかった。会えたのは、扉の番の俺だけだ。
それからひと月のあいだに、使節は三度、俺のところへ来た。三度とも手ぶらで、三度とも峠のことを訊いて、俺の答えを帳面に書いて帰った。
一度目は、凍えた兵の数を書いた。二度目は、凍えた夜の天幕の数を書いた。三度目は、峠の話はせずに、俺の兵の給金が何度遅れているかを訊いた。二度、と答えた。使節はそれも書いた。
四度目は来なかった。国へ帰ったのだと、厨房で聞いた。帰りぎわに銀貨を一枚置いていった。北に渡せ、と言って。袖の下にしては安すぎる。俺はそれを、北への手紙に入れて送った。
手紙に書き足そうとして、やめたことがある。外套は着ろ、だ。峠の坂で、あの男は上着一枚だった。風邪をひかれると、こちらの勘定が狂う。
手ぶらで三度来る男は、四度目に財布を持ってくる。三十年、戦場の商人を見てきた俺の勘定だ。
離宮の部屋は四十二。暖炉は三十八。衛兵は六十。金の間の前に立つのは、昼も夜も二人。医者は、ゼロ。
侍医は秋に「お休みを」と申し上げて、次の日から来なくなった。どこへ行ったのかは、誰も訊かない。代わりを呼べと言う者もいない。呼べば、陛下のお体が悪いと言ったことになる。この帝都では、本当のことを言うのがいちばん高くつく。
*
その夜、侍従が西の回廊を走ってきて、衛兵に告げた。
「今夜は、誰も入るな。陛下の仰せだ」
俺はその場にいた。
「仰せを、じかに聞いたのか」
「扉の内側から、そう聞こえました」
「扉の内側からは、咳しか聞こえたことがないがな」
侍従は、聞こえなかったふりをして戻っていった。
夜半すぎ、見回りで金の間の前を通った。
年かさの衛兵は、毛皮の襟に顎をうずめていた。若いほうは足踏みをしている。足踏みの音のほうが、扉の向こうより大きかった。
咳はもう聞こえない。爪の音もしない。眠っておられるのだろう、と衛兵が言った。
俺は、次の見回りに行った。
*
朝になっても、扉は開かなかった。
下働きの女が朝の盆を運んできて、扉の前の台に置いた。昼に来て、手のついていない盆を、昼の盆と替えた。
昼を過ぎた。
俺は廊下の窓から、日の傾きを見ていた。陛下が昼まで誰も呼ばなかった日は、この三年で一度もない。朝いちばんに誰かを怒鳴りつけるのが、陛下の朝飯のようなものだった。
「入ってみろ」
若い衛兵が俺を見た。それから、年かさを見た。
「仰せが、ありました」
「誰が聞いた」
「侍従どのが」
「侍従どのは、扉から聞いたそうだ。扉に仰せを伝える口はない」
誰も笑わなかった。俺も、笑わせるつもりで言ったのではない。
「……怖いんです」
若いほうが言った。年かさは、今度は足を蹴らなかった。
怖いのは、わかる。入って何もなければ、命に背いた罪だ。入って何かあれば、見た罪になる。どちらに転んでも、扉を開けた手が責めを負う。開けなければ、誰の手も汚れない。
勘定としては、開けないほうが正しい。
そして俺も、開けなかった。
扉の番は、俺だったのにな。
日が西の翼の屋根にかかったころ、侍従がひとり、薬湯の碗を持ってきた。薬湯を運ぶだけなら、命に背いたことにはならない。誰かが、そう考えついたのだ。
侍従は扉の中に消えて、すぐに出てきた。碗はまだ手にあった。中身が、半分こぼれていた。
*
報告に来たのは、若いほうの衛兵だった。侍従は口がきけなかった。
「床に、おられました」
衛兵は、自分の右手を胸の前に上げてみせた。指を少し曲げて。何かを指すようにも、払うようにも見えた。
「手を、こう。……それで、ひ、と」
「ひ」
「ひ、とだけです。それきり、何も」
あとで、それは名前だったと言う者が出てきた。誰の名かは、言う者によって違った。二十人いる子の誰かだと言う者もいたし、昔の后だと言う者もいた。皆、自分に都合のいい名を聞いた。聞こえたのは、ひ、の一音だけなのに。
年かさの衛兵だけが、ぽつりと言った。
「昔は、火がお好きだった。……金を貼る前は」
「医者を呼べ」
俺は言った。
「どの医者を」
「生きてるのを、だ」
呼んで損をする者は、もういない。陛下のお体が悪いと言って罪になる時刻は、とうに過ぎていた。
医者が来たのは、夜になってからだった。間に合うかどうかの勘定は、誰もしなかった。
陛下は、その次の夜に亡くなった。
帝都では、陛下は眠るように安らかにお隠れになった、ということになっている。眠るように、は合っている。誰も、起こしに入らなかったのだから。
本当のことを知っているのは、この離宮でも片手で足りる。俺は、その片手の指の一本だ。
*
崩御とは、誰も言わなかった。
翌朝も、下働きの女は盆を運んできた。扉の前の台に置いて、昼に盆を下げた。誰も止めなかった。止めれば、言ったことになる。
三日目の朝、俺は女の手から盆を取った。
「もう、いい」
女は盆を見て、俺を見た。それから前掛けで顔を覆った。
この離宮で陛下のために泣いたのは、その女ひとりだった。陛下がこの離宮に移られてから、毎日、盆を運んできた女だ。
その足で、西の翼の端を通った。
扉の前に、薪が三本あった。一本だけ、減っていた。
扉の内側から、かすれた声がした。
「……陛下は、誰の名を呼ばれた」
扉の番の衛兵が、俺を見た。俺は何も言わなかった。
「どなたの名も」
衛兵が答えた。
扉の向こうは、静かになった。
*
金の間に入ったのは、その日の午後だ。
入ってすぐ、寒さに足が止まった。外より寒い。壁も天井も金で、金は熱を持たない。像が十七体。どれも陛下の顔で、どれも指の先に爪の跡がある。
寝台は、白い布で覆われていた。
暖炉は、あった。一度も燃やされたことのない暖炉だ。炉の石に、煤ひとつない。新品のままの暖炉というのは、なかなか見られるものじゃない。
「火を入れろ」
衛兵たちが顔を見合わせた。
「金に、煤が」
「つけばいい。文句を言う方は、もうおられん」
誰が呼んだのか、パヴェルが戸口に来ていた。両手で小さな火壺を抱えている。蓋の穴から、細く煙が上がっていた。
パヴェルは、扉の脇の三本を拾った。冬のはじめから、毎朝替えてきた三本だ。
暖炉の前に膝をつく。灰のない炉に、細いのを下に、太いのを上に組む。火壺から、おき火をひとつ、火かき棒で移す。息を吹く。
火が、ついた。
橙色の光が金の壁に映って、部屋じゅうが一度に明るくなった。十七の顔が、いっせいに火に照らされる。
煙が上がった。天井の金が、炉の上から、ゆっくり曇っていく。
誰も、咎めなかった。
パヴェルは火を見たまま動かない。寝台のほうは、一度も見なかった。
俺は部屋の真ん中に立っていた。兜は脱がなかった。悼む理由が、俺にはない。この男は、四十の兵を雪の中で凍えさせた。木の像に毛皮を着せた夜に。
死んでも、勘定は変わらない。
開けたままの扉から、風が入ってきた。三本が置いてあった、扉の脇の床のあたりから。
白い花の匂いがした。
峠の雪の上で、一度だけ嗅いだ匂いだ。
冬のあいだ、あの扉の外にいたのは、衛兵が二人と、薪が三本。それだけのはずだ。
誰かが、ずっとそこに座っていたような匂いだった。開けてもらえない扉の前に。
パヴェルが顔を上げた。戸口のほうを見て、それから、火に薪を一本足した。
*
跡継ぎは、決まっていなかった。陛下は誰も信じなかった。だから、誰の名も紙に書かなかった。
二十人の子が、十日のあいだ帝都の屋敷で睨み合った。皆、玉座がほしい。皆、兵の給金は払うと言った。
国庫の帳簿を開けたのは、俺だ。誰も開けたがらなかった。開ければ、中身を知った罪になる。この国は、知った罪が多すぎる。
空だった。
金は、像に貼ってあった。帝都の広場に一体。街道ごとに一体。離宮に十七体。兵の給金は、秋から二度、遅れている。
払えると言った者は、二十人の中にひとりもいなかった。
言わずに払ったのは、二十人の外の誰かだった。
十一日目の朝、第四軍団の兵営から、使いが走ってきた。
「軍団長。銀が、来ました」
兵営の前に、こぶのある獣が六頭つながれていた。荷は、銀貨の袋だった。袋の口に、一枚ずつ書きつけが結んである。兵の名前と、額。
遅れている給金の、二度のうちの一度分だった。
俺は書きつけを一枚ずつめくった。一人あたり、銀貨四枚と銅貨七枚。帝国の主計が去年決めた、半端な額だ。この端数を覚えている兵は、ほとんどいない。俺でさえ、帳簿を見なければ言えない。
それが、三千四百六十枚、全部合っていた。
死んだ兵の分の袋は、なかった。それも、合っていた。帝国の帳簿では、死んだ兵の給金は、死んだ日で止まる。
袋をかついできた隊商の頭が、砂色の紙を一枚、俺に渡した。使節の字だった。
――残りの一度分は、門の内側でお渡しします。
兵営じゅうが、銀の音で騒がしかった。笑っているやつもいれば、袋に頬ずりしているやつもいる。
俺は笑えなかった。
春までの給金なんて、誰でも約束できる。二十人の子も、皆そう言った。だが、この端数を合わせてきたやつは初めてだ。
端数まで合わせてくるやつは、どこかで帝国の帳簿を読んでいる。帳簿を盗み読むやつなら、怖い。そうでないなら、まともだ。どっちなのか、まだはじききれなかった。
*
その晩、俺は帝都の東門の外の、隊商宿へ行った。
塩を運んでくる隊商は、砂の国の道を通る。噂を運んでくるのも、あいつらだ。
宿の奥で、塩の袋に腰かけている年寄りの頭に、麦酒を一杯おごった。
「砂の国の王に負けた王は、今どこにいる」
「どの王だ。三人いる」
「三人とも、だ」
年寄りは、指を折った。
「山の国の王は、砂の王の宮殿の、東の棟で暮らしとる。わしが毎年、塩を納めとる。受け取りに判を押すのは、その王の手だ」
年寄りは懐から、くたびれた受け取りを出してみせた。押してあるのは、冠の印ではなく、山羊の角の印だった。
「川の国の王は、国へ帰された。今も、自分で税を集めとる。砂の王に納める分を、先に取ってからな」
「三人目は」
「西の王は、火あぶりにされかけたが、雨が降って助かったそうだ」
「誰が見た」
「……誰も。噂だ」
俺は、麦酒の残りを飲み干した。
「奇跡で助かった話は、勘定に入れん。生きて判を押してる話だけ入れる」
二人。二人とも、生きて、働いている。殺された王の話は、ひとつも出てこなかった。
兵舎に戻ると、使いが待っていた。使節が帝都に戻った。明日、会いたい、と。
俺は、帳簿を開いた。
秋に三度。三度とも手ぶら。端数まで合った銀。死んだ兵の分は、帝国の帳簿どおり、なし。生きて判を押している、負けた王が二人。
行は、だいぶ埋まった。
北の氷竜なら、ここで何をはじいただろう。
三千五百対百。数だけなら、あの男の負けだった。それでも矢を下ろして、自分の足で坂を降りてきた。あの男の帳簿は、俺のとは、行の立て方が違うのかもしれない。
俺の帳簿の四十の欄には、数しか書いていない。峠の朝、口の中で呼んだ名は、二つだけだ。
帳簿は、まだ閉じなかった。
読んでくださって、ありがとうございます。
今日から五回、「幕間」として、峠のあとの帝都と王都のお話をお届けします。
次回は明日(日)20時、「幕間 軍団長」です。
第二部は、11月15日(日)から始まります。
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