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お飾り聖女は、三行で消えるはずの花嫁でした ~生贄として嫁いだ氷の辺境伯は、前世の最推しです~  作者: 真白のあ
終章 我は、汝の隣に、坐す

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第80話 名を、呼んでほしい


◆ セラ


 夕方、マルタさんとエルザさんに、洗濯場の奥の小部屋へ連れていかれた。


 寝台の上に、白いものが広げてあった。


 雪の色をした、毛織りの服だった。


 近づくと、裾に沿って、小さな百合の刺繍がひと巡りしているのが見えた。白い糸で、白い布に。顔を寄せなければ、わからないくらいに。


「閣下の母君の、花嫁衣装だよ」


 マルタさんが言った。


「二十年、西棟の衣装部屋の箱の中で眠ってた。峠から戻ってすぐ、閣下が厨房に下りてきてね。母の衣装を、出しておけ、って。それだけ言って、行っちまった」


「百合は、母君がご自分で刺したんだって。お輿入れの前の冬に、ひと針ずつ」


 エルザさんが、袖をそっと持ち上げた。


「丈は、あたしが詰めたよ。あんたが寝たあと、毎晩、少しずつね。母君は、背の高い方だったから。ほどいた糸は、取ってある。いつか、また要るかもしれないだろ」


 飾りは、百合の刺繍のほかに、何もなかった。衿は詰まっていて、袖は手首まで。裾は、くるぶしのすぐ上。どこにも肌を見せない、まっすぐな仕立てだった。


 触れると、やわらかい。二十年、誰も袖を通さなかった布だった。


「……どうして、今夜」


 二人は顔を見合わせた。


「訊かなくていいよ」

「着ればわかるさ」


 袖を通した。


 ぴったりだった。肩も、袖の長さも。いつ測られたのか、少しも気づかなかった。


 エルザさんが、私の髪を梳いた。麻布は巻かない。灰紫の髪を、何度も、ゆっくりと。それから、首のうしろで一つにまとめて、白い麻の細い紐で結んだ。


「あたしが嫁いだ日に、母が結んでくれた紐だよ。貸すだけだからね。返しておくれ」


 それから、洗い場の小さな鏡を、私の前に立てた。


 知らない人が、映っていた。


 白い衿の上で、灰紫の髪が、燭台の火を受けて光っている。王都で、見るとうつると言われた色だった。今は、雪の色の服の上で、夜明け前の空みたいに見えた。


「ほらね」


 エルザさんが、得意そうに言った。


「隠すような色じゃないって、あたしは最初から言ってたんだよ」


 マルタさんが、少し離れて私を見た。


 何も言わない。鼻を一度すすって、それから、前掛けで手を拭いた。


「……あの方の母君にも、見せたかったねえ」


    *


 礼拝堂の扉の前に、閣下が立っていた。


 黒い胴着の、いちばん上等なものだった。北の紋が、胸に小さく縫いとってある。ブーツは磨かれて、雪の一粒もついていない。ギルバートさまの仕事だと、ひと目でわかった。


 腰に、剣がなかった。


 いつも、どこへ行くにも下げている剣だ。


 閣下は、私を見た。


 白い服を。裾の百合を。結んだ髪を。


 それきり、動かなくなった。扉の取っ手に、手をかけたまま。


 足もとで、グラウが、閣下の脚を鼻で一度つついた。少しして、もう一度。


 閣下は、まだ私を見ていた。


「……美しい」


 それだけだった。飾りも、ためらいもない声だった。この人は、思ったことを、思ったとおりにしか言わない。


 顔が熱くなって、裾の百合ばかり見ていた。


「……五つのとき、一度だけ、母がそれを箱から出して見せた」


 低い声だった。


「裾の百合を、数えさせられた」

「いくつ、ありましたか」

「わからない。途中で、眠ってしまった」


 閣下は、もう一度だけ、裾の百合を見た。それから、礼拝堂の扉を開けた。


 開けて、私を先に通した。通るとき、閣下の喉が一度動いたのが、横目に見えた。


 長椅子には、もう皆が座っていた。


 いちばん後ろに、ギルバートさまと、マルタさんと、炭焼きのヨーゼフさん。通路をはさんだ向かいに、バルトさんとエルザさん。マルタさんとエルザさんは、私の支度を終えると、先に来ていたのだ。


 その前の長椅子に、オットーさんとアンナさん。霜降り村から、雪解けの道を下りてきたのだ。アンナさんの膝の上で、木彫りの小鳥が、両手に包まれている。


 閣下が呼んだのだけれど、なぜ呼ばれたのかは、誰も聞かされていない。


 マルタさんとバルトさんは、この春、塩の量のことで何度も大げんかをして、そのあと料理人どうしの握手をした。


 ヨーゼフさんは、雪がゆるんでも村へ帰らなかった。今度は帰らん、と言って。それからずっと、マルタさんの隣に座っている。四十年遅れで。


 通路を歩くあいだ、皆が、振り返ってこちらを見ていた。


 バルトさんが、口を開けたまま固まった。ヨーゼフさんは、黙って帽子を胸に当てた。マルタさんは、腕を組んで、満足そうに鼻を鳴らした。


「……きれいだねえ」


 アンナさんが、小さく言った。オットーさんが、隣で、何度もうなずいていた。


 祭壇の脇に、百合の鉢が戻っていた。私室の窓辺にあったはずの鉢だ。誰が運んだのかは、訊かなくてもわかった。二輪の百合が、丸窓の月の光の中に白く立っている。


 祭壇の前まで来ると、閣下は足を止めて、振り返った。長椅子の皆のほうへ。私も、隣で向き直った。


 皆の顔が、一人ずつ、よく見えた。


 閣下が、長椅子を見渡した。


「今夜は、集まってもらって、すまない」


 低い、よく通る声だった。峠で兵に向かって話すときの声とは、少し違う。


「理由は、まだ言わない。……ただ、聞いていてほしい」


「セラ」


 閣下が、皆のほうを向いたまま言った。


「名を、呼んでほしい。今度は、最後まで」


 礼拝堂が、しんとなる。燭台の芯が、小さく鳴った。


 前にこの礼拝堂で呼ぼうとしたときは、「……ヴィ」までだった。そのとき閣下は、「時間は、ある」と言った。


(神さま)

『うむ。聞いておるよ。隣でな』


 物置小屋の土間で、毎晩、北を向いて祈った。名前はいつも、心の中だけだった。何千回呼んでも、誰にも届かない名前だった。それが今、喉のところで止まっている。胸の前で、指を握りこむ。


 閣下は、待っている。急かさない。拍子を遅らせて待つことを、この冬に覚えた人の待ち方で。


 息を、吸う。


「……ヴィルフリート」


 一度で、言えた。


 声に出したら、こんなに短い。


 閣下は、動かなかった。


 睫毛だけが、一度、震えた。


 丸窓の月の光の中で、百合がふわりと香った。胸の奥で、小さく『……うむ』と声がした。神さまは、それ以上、何もおっしゃらなかった。


 氷竜、と呼ぶ人はいた。閣下、と呼ぶ人もいた。名前で呼ぶ人は、九年、いなかった。乳兄弟のギルバートさまでさえ、閣下、と。


 その人の手が、私の手を取った。指が、ほんの少し冷たい。


「――セラフィーナ」


 閣下も、一度で。


 低い声が、かすかにかすれていた。


「長いな」

「はい」

「だが、これからは、長いほうで呼ぶ。時間は、ある」


 閣下は、取った手を自分の唇のほうへ近づけて、止まった。


「……こういうもの、なのか」

「存じません。私も、見たことがないので」

「では、やめる」

「……やめないでください」


 言ってから、自分の声に驚いた。


 長椅子で、マルタさんが「はっきり言うじゃないか」とつぶやいた。通路の向こうから、バルトさんが「しっ」と止める。ギルバートさまの眼鏡が、鼻先までずり落ちた。ヨーゼフさんは、天井の梁を見上げた。


 閣下の唇が、私の手の甲に、そっと触れた。三本の白い傷の上に。王都の回廊で、金糸の靴がねじった場所に。


 冷たいはずの唇が、温かかった。


 長椅子のほうで、誰かが、息を詰める音がした。


 アンナさんだった。小鳥を包んだ両手を、口もとに押し当てている。肩が、小さく震えていた。唇が、声にならずに動いた。


 リーネ、と言ったように見えた。


 隣のオットーさんは、帽子を胸に抱いたまま、天井の梁を見上げていた。泣かないように。それでも、髭の上の頬が、濡れて光っていた。


 通路の向こうで、エルザさんが、前掛けの端を目に当てた。自分が結んだ白い紐を、遠くから見ていた。


 長椅子の軋む音がした。


 ギルバートさまが、立ち上がっていた。眼鏡を外して、拭かずに手に持っている。


「……ヴィルフリート」


 はっきりとした声だった。いつも「ヴィ」で止まっていた喉が、今夜は止まらなかった。


「乳兄弟として、申し上げます。おめでとうございます」


 閣下は、すぐには答えなかった。ただ、私の手を包んでいる指に、少しだけ力が入った。


「ずいぶん、かかったな」

「閣下が、『時間は、ある』とおっしゃいましたので。ゆっくり、練習いたしました」


 閣下が、ようやくギルバートさまのほうを見た。


「……ギル」


 ギルバートさまの肩が、一度だけ、大きく上下した。


「……はい」


 敬語になりきれなかった声が、礼拝堂の高い天井へ、小さく昇っていった。


 ギルバートさまは、眼鏡を手に持ったまま、長椅子に腰を下ろした。


 マルタさんが、鼻をすすった。


「あたしゃ、坊ちゃんが生まれてこのかた、名前なんか呼んだことないよ。今さら呼ぶ気もないね。坊ちゃんは、坊ちゃんだ」


 言いながら、前掛けの端で目もとを押さえている。


 隣のヨーゼフさんが、黙って懐から手ぬぐいを出した。煤の染みた、炭焼きの手ぬぐいだ。マルタさんはそれをひったくって、思いきり鼻をかんだ。


「……洗って返すよ」

「いらん」

「返すって言ってんだよ」


 通路の向こうで、バルトさんの肩が震えている。


「マルタさん。四十年かかって、手ぬぐい一枚ですかい」

「うるさいよ。あんたは塩の入れすぎを直してからものを言いな」


 誰が先に吹き出したのか、分からない。笑いが、長椅子から長椅子へうつっていく。


 その笑いの中で、閣下が、ギルバートさまのほうへ向き直った。


「ギルバート」


 ギルバートさまが、もう一度、立ち上がった。


「は」

「お前は、ずっと、私の望みだけを訊いてきた。お前の望みを、私は一度も訊いたことがない」


 ギルバートさまの手の中で、眼鏡が止まった。


「今、訊く。お前は、何を望む」


 丸窓の月が、百合の上から少しずれた。マルタさんも、バルトさんも、何も言わない。


「……分かりません」

「分からなくていい。言えるようになるまで、待つ」


 ギルバートさまは、眼鏡を掛けようとして、蔓が耳にかからなかった。九年、一度も狂ったことのない手が、二度しくじった。三度目で、掛けた。


「……ひとつだけ、ございます」

「聞かせてくれ」

「王女に。そろそろ、『ギルバートさま』ではなく、名で呼んでいただければ、と」


 私はギルバートさまを見た。


「なんだい。九年も仕えて、望みがそれっぽっちかい」


 マルタさんが言った。言いながら、目を細めていた。


「……ギルバート」


 口にすると、ギルバートさまは、一度だけ深く目を閉じた。


「これで、よろしいですか」

「はい。それで、十分でございます」


 ギルバートさまは、深く頭を下げてから、腰を下ろした。


 閣下が、小さくうなずいた。


 それから、長椅子の一人ずつに目を向けた。ギルバートさま。マルタさん。ヨーゼフさん。バルトさん。エルザさん。それから、オットーさんと、アンナさん。


「今夜、セラフィーナと、鉱山の奥へ行く。この冬に見つけた、古い部屋だ。その前に、家の者に聞いておいてほしかった。……名を呼ぶ声を」


 家の者、と閣下は言った。


 マルタさんが、手ぬぐいを握りしめた。ヨーゼフさんが、帽子を取った。バルトさんは、黙って立ち上がった。ギルバートさまは、眼鏡を外さなかった。


 閣下が、長椅子の皆を、もう一度見渡した。


「……皆。ありがとう」


 ほんの少し、言い方を探すような間があった。けれど、言い直さなかった。


 礼の言い方を、この春に覚えた人だった。


 それから、閣下の目が、前の長椅子で止まった。


「オットー。アンナ」


 二人が、顔を上げた。


「……来てくれて、ありがとう」


 オットーさんが、ゆっくり立ち上がった。帽子を胸に抱いたまま、閣下に向かって、深く頭を下げた。


 アンナさんは、座ったまま、小鳥を両手で包みなおした。涙を、拭かなかった。


 その部屋で何をするのか、閣下は言わなかった。


 けれど、母君の花嫁衣装を着せられて、わからないほど、私も鈍くはない。長椅子の皆も、この服を見たときから、とうに分かっている顔をしていた。


 私は、自分の手の甲を見ていた。まだ、温かい。


 そういえば、さっき、私は「推しの」と言い直さなかった。言いかけてもいない。ヴィルフリート、と、それだけを言った。


 遠くから好きだった十年を、間違いだったとは思わない。あれがあったから、物置小屋の夜に、北を向いて祈ることができた。ただ、遠かったから、まぶしかったのだ。今は、まぶしくない。代わりに、この人の手が冬にどれだけ冷たいかを、私は知っている。


 それから、ふと気づいた。


 私は、神さまのことを、一度も「推し」と呼んだことがない。


 呼べなかったのだ。あの方は、最初から、床の高さにいらしたから。


 長椅子のいちばん後ろで、ギルバートさまが、膝の上の帳簿を開いていた。ペン先は、余白の上で止まったまま、動かなかった。


 閣下が、祭壇のほうを振り返った。


 祭壇の脇の百合を、一度だけ見る。それから、私に向き直った。


「行こう」


「――どこへ行くんだい」


 マルタさんが、長椅子から立ち上がっていた。腰に手を当てている。


「坑道は冷えるよ。花嫁を空きっ腹で地の底へ連れていく気かい。まずは、腹ごしらえだ」


 閣下が、口を開けて、閉じた。


 ギルバートさまが、眼鏡を押し上げた。口の端が、少しだけ上がっていた。


    *


 厨房の長卓に、皆で座った。


 白いパンがあった。バルトさんが、この日のために、麦を少しずつ取っておいて焼いたのだという。塩のよくきいた蕪のスープ。干し林檎を煮たもの。ヨーゼフさんが、炭焼きの小屋から持ってきた蜂蜜の小壺。


 王都の晩餐の卓に並ぶものに比べれば、何もないような食事だった。それでも、ここ十年で、いちばんのご馳走だった。


 閣下は、私の隣で、黙ってスープを飲んでいた。ひと口飲んで、少し止まった。


「……塩が、足りている」

「当たり前だよ。今夜くらいはね」


 マルタさんが、鍋の前で胸を張った。バルトさんが、隣で同じように胸を張った。


 白い衣装の袖口を汚さないように、私は袖を少しだけ持ち上げて、パンをちぎった。エルザさんが、それを見て、満足そうにうなずいていた。


 アンナさんが、私の椀に、蜂蜜をひと匙落としてくれた。


「リーネが生きてたら、きっと、あんたの裾の百合を数えたがったよ」


 オットーさんが、何も言わずに、アンナさんの肩に手を置いた。


 食事が終わるころ、閣下が、私のほうを見ずに、小さく言った。


「行こう」


 今度は、誰も止めなかった。


読んでくださって、ありがとうございます。

「……ヴィルフリート」

九年、誰も呼ばなかった名前を、やっと一度で。

二人はこの後、地の底の部屋へ向かいます。

ブックマークや☆で、見届けていただけたら嬉しいです。

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