第79話 氷の辺境伯は、礼の言い方を知らなかった
◆ セラ
雪が解けて、北にも春が来た。
その朝、オットーさんが厨房の戸口に駆けこんできた。霜降り村の崖を見に行って、戻ったところだ。何か言いかけて、言葉が出てこない。四十を過ぎた大きな人が、初めて雪を見た子どもみたいな顔をしていた。
「咲いた。崖の百合が。三本。こんなに早くに。去年は、一本だった」
その日の午後、霜降り村へ向かった。馬は二頭出た。閣下は一頭しか出さないと言いかけたのに、ギルバートさまがもう一頭を引いてきた。
「閣下と王女の相乗りの後ろを、徒歩でついていく趣味は、私にはございません」
閣下は何も言わず、私を自分の鞍の前に乗せた。外套の前を合わせてくれたのは、馬が歩き出してからだ。風は、そこで止まった。
尾根の雪は薄くなって、黒い土が縞になって見える。蹄が雪解けの泥を跳ねた。
急な下りで、閣下は手綱を一度も引かなかった。馬のほうが、閣下の脚に合わせて歩いていた。
後ろでは、オットーさんの大きな背中につかまったギルバートさまの眼鏡が、三度ずれた。
*
崖の下の、リーネちゃんの石の前で、アンナさんとルーカスが待っていた。石のまわりの雪は解けて、黒い土から小さな草が顔を出している。
オットーさんが、懐から木彫りの小鳥を出して石の上に置いた。
「リーネ。今年は、三本だぞ」
アンナさんがその隣にしゃがむ。
「欲張りだったからねえ、あの子。一本じゃ足りないって、毎年言ってた」
崖の上で、白い花が三本、風に揺れている。三本とも、少しずつこちらへ首を傾けていた。
ギルバートさまは少し離れて、眼鏡を外したまま崖の上を見ていた。あの冬、この村の小屋で、竈の脇にしゃがんで粥をかき回していた人だ。
オットーさんが、崖を見たまま言った。
「あの冬から、俺は神さまを恨んでました。薪を、降らせてくれなかったって」
それから、石の上の小鳥に目を落とす。
「今も、少しは恨んでます」
誰も何も言わない。
胸の奥で、神さまの声がした。
『恨んでよい。恨まれても、わしは、あの男の隣を離れん』
崖を見上げていた閣下が、オットーさんのほうを向いた。
「あの冬の薪は、私が届けるべきだった」
大きな声ではなかった。それなのに、風の音が一段下がった気がした。
オットーさんが、口を開けたまま固まる。
「今季から、霜降り村の薪小屋は城で持つ。屋根まで積んでおく。冬の前に。ギルバート」
「帳簿の頁は、すでにご用意してございます」
「早いな」
「閣下の三歩先を歩くのが、仕事ですので」
ギルバートさまは眼鏡をかけ直した。今度は、ずれなかった。
ルーカスが、石の脇にしゃがんで、小鳥を指でつついている。
「母ちゃん。おれ、大きくなったら崖ぜんぶ百合にする」
アンナさんが、笑いながら泣いた。
「あんたも、欲張りだねえ」
閣下がいつ手袋を外したのか、私は見ていなかった。気づいたときには、手が温かかった。
*
城へ戻った次の朝、閣下は穀物庫へ下りていった。
冬じゅう、誰も触れなかった樽が二つ、奥に並んでいる。蓋には、ギルバートさまが打った釘が、二つ合わせて四本。帝国軍が来る前、閣下が「私にも開けさせるな」と言った、種麦の樽だった。
閣下は、自分で釘抜きを取った。
一本。また一本。錆びた釘が、きい、と鳴いて抜けていく。四本目が抜けたとき、閣下は少しだけ息を吐いた。
「四本。予定どおりです」
ギルバートさまが、抜けた釘を一本ずつ数えて言った。予定に、釘を抜く日はなかったはずだ。私は、それを訊かなかった。
蓋を外すと、乾いた麦の匂いが、穀物庫の冷たい空気の中にふわりと立ちのぼった。
閣下は両手で麦をすくって、しばらく黙って見ていた。指のあいだから、金色の粒がさらさらとこぼれていく。
「七つの村に、分けろ。霜降り村から」
「承知いたしました」
ギルバートさまが帳簿を開いて、ペンを走らせた。冬のあいだ、書かずにおいた行があったことを、私は知っている。今日は、最後まで書いた。
『春に蒔くというのはな』
神さまが、胸の奥でおっしゃった。
『秋が来ると、信じるということじゃ』
この麦が実るころも、私たちは、ここにいる。
その朝、礼拝堂へ行くと、鉢の百合が、もう一輪開いていた。冬の峠の朝に咲いた一輪目の隣で、同じ鉢の二本の茎が、少しもたれ合うように傾いている。
(神さま。二つになりました)
『うむ。並ぶと、ええ顔をしとるのう』
声が、少し笑った。
『セラや。その百合を、鉢ごと、あの子に渡してやってくれんか。あの子が花をもろうたのは、一度きりじゃ』
(でも、花は食べられませんし、燃えません)
『役に立たんのう。じゃから、渡すのじゃ。役に立つものなら、もう、さんざん渡し合うておる』
*
その夜、鉢を抱えて執務室の扉を叩いた。
「入れ」
崖から戻って半日。机の上の書状は、もう片づいていた。
その端に、盆ではなく鉢を置く。
「礼拝堂の百合が、二輪になりました。並んで咲いているので、一輪だけ切ってくるわけにいかなくて。鉢ごとお持ちしました」
閣下は白い花を見た。ペン先に溜まったインクが、ひとしずく、ふくらんでいく。
「……前に一度、花を城へ持ち帰ったことがある。胴着の内側に挿して。着くころには、しおれていた」
インクが紙に落ちた。閣下は拭かない。
立ち上がって、鉢を両手で持ち上げる。私室へ続く扉を開けた。あとをついていく。
窓辺の、朝の光がいちばん長く当たる場所。床のふたつの窪みのすぐ脇に、閣下は鉢をそっと置いた。
「ここに、いつも、夜明け前に膝をついていた」
窪みを見て、それから花を見る。
「……明けるまで、いてもいいのかもしれないな」
私はうなずいた。窓の外は、まだ暗い尾根だった。
「……何を、返せばいい」
「何も。咲いたので、持ってきただけです」
閣下は黙って、百合に目を落としている。
ランプの灯が、銀灰色の髪の縁を細く光らせていた。伏せた睫毛が、頬に長い影を落としている。黒い軍服の襟は、夜になっても喉元まできちんと留めたままだ。白い花の隣に立つと、この人の輪郭は、月夜の尾根みたいにくっきりして見えた。
「セラ。礼の言い方が、わからない」
「『ありがとう』で、いいと思います」
「……そんな簡単なことか」
「はい。とても簡単です」
閣下が、こちらを向いた。
アイスブルーの目が、まっすぐ私を捉える。氷の色なのに、少しも冷たくない。背の高い人が、身をかがめた。銀灰色の髪が、私の頬をかすめる。
「ありがとう」
耳もとで、吐息まじりの低い声。少しかすれた響きが、耳の奥にいつまでも残った。
閣下は、何でもないことのように体を起こした。
「覚えた。次は、もう少し上手く言う」
先に目を逸らしたのは、私のほうだった。
「……どういたしまして」
足もとで、グラウが、ふすー、と長い息を吐いた。




