閑話 「お前、名前は」
◆ グラナート
帝都の離宮の、暖炉のない部屋だった。
石の壁と、石の床と、寝台がひとつ。窓は高くて、手が届かない。爵位も領地も取られて、右手の中指には、指輪の形の白い跡だけが残っている。
夜明け前になると、廊下に足音がする。足音は扉の前で止まり、木が石に触れる乾いた音が三つ続いて、遠ざかる。扉は叩かれない。
薪だ。組み方は、見なくてもわかる。細いのが下で、太いのが上。
グラナートは、扉を開けなかった。
ただのものは、この世にない。施しは、受けた者を下に置く。薪の一本にも利息がつく。四十年、人にも村にも値札をつけてきた男は、借りの値もよく知っていた。
ある朝、扉が細く開いていた。食事を運ぶ者が、閉め忘れたらしい。
入ってきたのは、三年、自分の従者だった若者だった。峠の雪の上で名乗られて、「知らん」と返した男だ。
若者は扉の前の薪を抱えて、冷えた火鉢の前にしゃがんだ。火口がない。懐から、紙を一枚出す。
赤い封蝋が、割れて残っていた。自分が書かせた証文だった。若者の村の、足りなかった年貢。払っても利息で減らないように書かせた紙。
若者はそれを薪の下に入れて、火をつけた。
紙はすぐに燃えた。火が乾いた樅に移る。石の部屋に、橙色の光が広がった。顔に、温かさが当たる。
若者は懐から黒パンを出して、半分に割った。片方を寝台の脇に置く。もう片方は、懐に戻した。立ち上がる。
「……おい」
声がかすれた。
「お前、名前は」
三年、一度も訊かなかった。
「パヴェルです」
若者は頭を下げて、出ていった。扉は、細く開いたままだった。
パヴェル。口の中で転がしてみた。値のつかない音だった。
パンに、手を伸ばしかけた。
開いたままの扉の向こうを、衛兵が通りかかった。
足が止まる。衛兵は火を見て、寝台の脇のパンを見て、グラナートの顔を見た。
何も言わなかった。口の端だけが、少し上がった。足音が、また遠ざかっていく。
伸ばしかけた指が、止まった。
グラナートはパンを払い落とした。火鉢に歩み寄って、靴で火を踏んだ。紙の灰ごと。
部屋は、元の闇に戻った。一度灯りを見た目には、前より深い闇だった。
*
何日かして、扉の下から手紙が差しこまれた。
封蝋に、自分の家の紋が押してあった。指輪を取られてから、初めて見る紋だ。字は、息子のものだった。
父上。
家は、すべてを父上お一人の罪として、皇帝陛下にお詫び申し上げました。おかげをもちまして、分家の男爵位をひとつ、残していただけることになりました。
以後、父上は当家の者ではございません。系図からも、お名前を削りました。
お身体を、お大事に。
レオポルト
二度、読んだ。
正しい、と思った。
傷のついた品は、帳簿から外す。外せば、残りの値は守れる。値のつかないものは、ないことにする。自分でも、そうする。
息子にそう教えたのは、自分だった。
自分も、父にそう教わった。
二十のころ、父の代わりに初めて年貢を取り立てた。払えない家の娘が戸口で泣いて、その夜は眠れなかった。父は言った。値で見ろ。泣き顔に、値はない。
次の村では、眠れた。その次の村のことは、もう思い出せない。
*
その夜は、眠れなかった。
高い窓から、月の光が四角く床に落ちている。光は白いのに、少しも温かくない。吐く息が、闇の中にかすかに白く浮いて、消えた。
毛布の上に置いていた手紙が、床へ滑り落ちた。
拾おうとして、寝台から身をかがめた。そのとき、膝が抜けた。
石の床に、両膝をついた。寝間着一枚の膝に、石の冷たさがじかに来る。立とうとした。足に、力が入らない。
この部屋の夜を、毛布の中でしか知らなかった。
床は、こんなに冷たかったのか。
冷たさは、膝の骨から、ゆっくり上ってくる。急がない。逃がさない。
これが、ひと晩。
そう思ったとき、広場が見えた。
三年前の秋。ぬかるみで馬車が傾いて、像が倒れかけた。若い農夫が、素手でそれを支えた。
皇帝陛下の御顔に、農夫が触れた。
だから、その夜、上着を脱がせて広場に立たせた。朝まで。
自分は、馬車の中にいた。膝に毛皮をかけて。朝になって窓を開けると、広場には、誰も立っていなかった。像の金を白い絹で拭いて、扉を閉めた。
何も、感じなかった。
峠の吹雪の夜も、同じだった。像には熊の毛皮を三枚巻かせた。天幕の外で、兵が四十人、凍えて死んだ。四十。頭数として、聞いた。
いつものように、値をつけようとした。
つけられなかった。値を外すと、それはただ、人が死んだということだった。
自分が、死なせたということだった。
手紙を読んだときは、まだ立っていた。家の臆病のせいだ。息子の保身のせいだ。そう思えた。誰かのせいにしているあいだは、足は床を踏んでいられた。
今は、踏むものがなかった。
四十は、息子のせいではなかった。吹雪のせいでもなかった。
膝が、体を支えきれなくなった。寝台の脇に崩れて、木の枠に背をもたせかける。床に座りこんだまま、動けなかった。動こうとも、思わなかった。
あの若者の唇は、何色だったのだろう。
見なかった。窓は、閉めていた。
ないことにしようとした。広場の若者も、天幕の外の四十も。できなかった。一度値を外したものは、もう帳簿の外へ出ていかない。
値のつかないものは、ないことにする。
今、値のつかないものは、自分だった。
冷たさが、腰を過ぎ、胸まで上ってくる。指の先が、自分のものでなくなっていく。どこまでが自分で、どこからが石なのか、わからなくなっていく。
月の四角が、床の上を少しずつ、自分から離れていった。
あの朝、広場には、誰も立っていなかった。
明日の朝、この床にも、誰もいないのかもしれない。
金も、爵位も、像も。四十年仕えてきたもののどれひとつ、手を伸ばしてはこなかった。
闇の底に、底はなかった。
*
床についていた指の先に、何かが触れた。寝台の下の暗がりだった。
引き寄せる。払い落とした、あのパンだった。何日も床にあって、乾いて、石のように固い。
値は、つかない。それなのに、手から離せなかった。
歯を立てる。噛んでも、なかなか崩れない。崩れたところから、少しずつ味がしてきた。
塩が、効いていた。
指に残った屑を、払わなかった。
月の四角は壁をのぼり、細くなって、消えた。
あとは、何も見えない闇だった。石の冷たさと、自分の息の音だけがあった。
高い窓が、黒から、ほんの少し灰色に変わりかけたころ、廊下で足音がした。
扉の前で止まる。木が石に触れる、乾いた音。ひとつ。ふたつ。みっつ。
グラナートは、その音を聞いていた。
四十年、何かを待ったことはなかった。
扉の隙間から、樅の匂いが入ってくる。白くて淡い花の匂いが、そこに混じっていた。
いつからそこにあったのか、わからなかった。
夜は、まだ明けきっていなかった。
誰かのせいだと思えているうちは、まだ立っていられる。自分のせいだったと知ったとき、その足場がなくなる....
侯爵...。これって、あいつのせいだって叫んでいられる“ざまぁ”より厳しいよね。きっと




