第78話 帝都から、父と兄の手紙が届いた
兄が北を発って、ひと月。東から手紙が二通届いた。
一通目は父からだった。国王の印はない。封の裏に、帝都の離宮の名が書いてある。
セラフィーナ。
余は帝都にいる。皇帝は余を殺しもせず、丁重に扱いもせず、石造りの離宮の一室に置いて、ときどき晩餐に呼ぶ。末席だ。上座にしか座らなかった男が、末席という場所を、六十を過ぎて初めて知った。
悪くない席だ。誰も余に話しかけてこない。窓の外を見ていても、誰も気にしない。
この離宮に、パヴェルという若者がいる。峠のあとで侯爵家を離れ、自分から暖炉の係になったそうだ。毎朝、余の部屋の暖炉に火を入れにくる。
最初は黙って見ていた。四日目に、自分でやると言った。若者は驚いた顔をして、それから、細いのから組むのだと教えてくれた。
何度も消えた。それでも次の朝も組んだ。ある朝、火は夜が明けるまで持った。
この離宮には、もう一人、余の知った顔がいる。グラナート侯爵だ。
帝国軍が帝都へ戻った日、軍団長は皇帝の前で報告した。峠は雪で通れず、北には枯れた鉱山と雪しかない。御尊像は吹雪で指を失った、と。皇帝が像はどこかと訊くと、侯爵は、雪の中に置いてきたと答えた。
横から軍団長が、一言だけ足した。
「折れた指の中は、木でございました」
像のために積んだ金は、どこへ消えたのか。その日のうちに、何人もが訊いた。侯爵は爵位と領地を取られ、暖炉のない部屋に置かれている。殺されもせず、放されもしない。余と同じだ。違いは、余の部屋には暖炉があって、あの男の部屋にはないことだ。
八日目に、若者に言った。あの男にも薪を分けてやれ。若者は驚かなかった。黙って、薪を三本、扉の前に置いた。細いのを下に、太いのを上に。火を入れれば、すぐ燃えるように組んで。
翌朝も、薪はそのまま扉の前にあった。その次の朝も。
若者は言った。
「あの人は、戸を開けませんから」
その意味が、余にはわかる気がした。余も、開けなかった男だ。違いがあるとすれば、今朝、自分で火を組んだことくらいだ。
若者は、峠でそなたを見たと言う。雪の上にしゃがんで、凍えた兵の手を握っていたのを。鉱山の奥の低い戸口の話もした。あの部屋には、二人並んで座れる腰掛けがあった、と。
余には、まだよくわからぬ。ただ、その話をするときだけ、若者は余の目を見た。
若者は峠で、北の家令に、俺は何を返せば、と訊いたそうだ。余も、同じことを訊きたい。そなたに、何を返せばよいのか。要るものがあれば、書いてよこせ。
ジュリアンが、こちらへ向かっていると聞いた。来なくてよいと書き送ったが、あれは来るだろう。余の息子だ。余に似ず、火を組める。
そなたに、何もしてやれなかった父より。
追伸。バルトのパンは、塩が足りていたか。
*
二通目に封はなかった。麻紐で縛った小さな紙片に、角ばった炭の字が並んでいる。
ハインツが、帝都の宿でまた靴を脱がせようとする。自分で脱げると言ったら、「殿下は靴の脱ぎ方まで覚えたんですかい」と笑われた。腹が立ったが、殴らなかった。
父上に会った。二十年で初めて、二人で火の前に座った。何も話さなかった。父上が薪を足そうとして、太いのをいきなり載せて、消した。俺が組み直した。父上は「そうか」と言った。それだけだ。
それだけのことを書いておく。お前の帳面の四行目に使えるかどうかは、お前が決めろ。
ジュリアン
追伸。長いほうの名を、練習している。まだ、途中で噛む。
*
二通を帳面に挟んで、炭を取った。
父の名前の下に、一行。
――帝都で、火を朝まで持たせた人。
兄の名前の下には、四行目。
――父の火を、組み直した人。
そこで、炭が止まった。
(神さま。侯爵さまの部屋の前の、薪のこと)
『知っておる。わしは、その扉の外の、薪の隣におる。戸は、中の者が開けるものじゃからのう』
(開けない人も、いるんですね)
『おる。何度見ても、慣れん。慣れたら、わしではなくなるでのう』
その声は、とぼけていなかった。扉の外で、薪の隣にしゃがんでいる人の声だった。
帳面の新しい頁を開く。
――グラナート侯爵。帝都の、暖炉のない部屋。扉の前に、薪が三本ある人。
この人の名を書く日が来るとは思わなかった。けれど峠の前の朝、ルーカスに言ったのだ。峠の向こうの人も、いつか全員書く、と。三千五百人の中に、この人もいた。
『書いたのう』
(はい。間違っていますか)
『いいや。わしの帳面にも、ある。消しておらん』
帳面は、もう四冊目になる。エルザさんが、旦那さんの使っていた帳面をくれたものだ。
『わしの帳面はな、名が増えるばかりじゃ』
(神さまのは、何冊目ですか)
『一冊じゃ。ずいぶん、厚うなったがのう』
*
その夜、父に返事を書いた。
何を書けばいいのか、長いこと分からなかった。物置小屋。動かなかった針。謁見の間で、いつも窓の外を見ていた横顔。何もしてやれなかった父より、という最後の一行。
窓の外を見ていた十年は、どれだけ火を組んでも、末席に座っても、返ってこない。
炭を持ったまま、峠から戻った夜に見たギルバートさまの帳簿を思い出す。銀貨十八枚の行の隣で、空いたままだった欄を。
あの欄は、空いたままでよかったのだ。
私は書いた。
お父さま。
帳面に、お父さまの名前を書きました。その下に、帝都で、火を朝まで持たせた人、と。
北の山の奥に、小さな石の部屋があります。腰掛けが二つ、並んでいます。先に逝った人とも、そこで結ばれるのだと、教えていただきました。
バルトさんのパンは、塩が、足りていました。
最後に、一行を足す。
――お父さま。返済の欄は、ありません。




