第77話 雪解けの門
北の雪は、音を包む。雪が解けるときには、その音が戻ってくる。
最初に戻ってきたのは、水の音だった。城壁の石の隙間から、雪解けの雫がぽたりぽたりと落ちる。次に、屋根の雪が滑り落ちる重い音がした。それから、軒の氷が、ひとつ、ふたつ、澄んだ音で割れた。
三ヶ月の期限は、とうに過ぎていた。王都から期限のことを言ってくる者は、誰もいなかった。代わりに届いたのは、国王の印を押した短い書状が一枚だった。婚姻受諾書の期限を取り消す、と書いてある。ほかには何も書いていなかった。
ギルバートさまは、それを三度読み返した。
「書いた本人が、いちばん、何を書けばいいかわからなかった書状ですね」
私は、その書状を帳面に挟んだ。父の名前の頁に。
王都を出る朝、私は戻らないつもりでいた。三度目の鳩のように。戻らなかった鳩は、放した人を見捨てたのではない。帰る場所を見つけただけだ。放した人は、それを見て泣いたという。父も泣いたのかどうかは、訊かなかった。
*
七つの村の人たちが城を出ていく日、城門は朝から夕方まで開けたままになった。
荷車と、老人と、子どもと、山羊と、鶏が、来たときと逆の順に峠を下りていく。荷車は、来たときより少しだけ軽かった。冬のあいだに、積んできたものを、みんなで食べたからだ。
廐番のヨナスさんが、荷車の列の脇で、私に何かを差し出した。手のひらに載っていたのは、小さな木彫りの馬だった。
「冬のあいだに、彫った。山羊の隣で寝てると、手持ち無沙汰で」
「ヨナスさんが、彫ったんですか」
「馬しか彫れねえ。人の顔は、無理だ」
それだけ言って、ヨナスさんは荷車のほうへ戻っていった。私は木彫りの馬を、前掛けのポケットに入れた。
ベルタおばあさんは、荷車に乗せられる前に、城門の石壁に手を当てた。
「死ななかったねえ。八十三年生きて、冬を越せるかわからないと思ったのは、これで三度目だよ。三度とも、越えた。次の冬も、また来てもいいかい」
隣に、閣下が立っていた。
「来い。門は、開けておく」
門番のカールさんが、帽子のつばを深く下ろした。
*
兄が城を出たのは、七つの村の人たちが帰った三日後だった。行き先は、東の帝都だった。
「人質になりに行くんじゃない。結果として、そうなるかもしれないが」
兄は、厨房の薪の台の端に座って、そう言った。あれから毎朝、兄はそこに座るようになっていた。私が床を磨いているあいだ、黙って火を見ている。ときどきマルタさんに椀を検められて、まだ縁に残ってる、と叱られる。
「父上が、俺の代わりに帝都にいる。窓の外しか見なかった男が、初めて自分で何かをやって、石の部屋に一人で座っている。それを放っておけるほど、俺はまだ立派じゃない」
「立派じゃないから、行くんですか」
「立派な王子なら、母上の言うとおり王都に戻って、玉座の支度をする」
兄は、竈の火を見ていた。
「ハインツたち四人も、行くと言っている。給金は出ないと言ったら、どうせ王都でも出てなかったと笑われた」
私は、雑巾を桶の縁にかけた。
「お兄さま。帳面のことですけど」
「ああ」
「いい、と言うまで書くなと言われました。今、書いてもいいですか」
「何を書く」
「『金糸の長靴を、脱いだ人』と、『薪を、朝まで持たせた人』です」
「それだけか」
「はい。それだけです。その先は、お兄さまが帝都で何をなさるか、まだ知らないので」
兄は、しばらく火を見ていた。それから、薪の台から立ち上がった。
「……書け」
私は、炭を取った。
ジュリアン。二十歳。私の兄。
金糸の長靴を、脱いだ人。
薪を、朝まで持たせた人。
兄は帳面を覗きこんで、三行を読んだ。
「……三行か。山羊の名前を全部言える六歳と、まだ同じくらいだな」
「はい。でも、書けました」
兄の口の端が、少しだけ上がった。王都の回廊で見た笑い方とは違っていた。どう笑えばいいのか、まだ探している顔だった。
「そういえば」
兄は、ふと思い出したように言った。
「ときどき、夢に、鈴の音が出る。ちりん、と。誰の鈴だったか、思い出せない。……手を振った、気がするんだが」
胸の奥で、ことり、と何かが動いた。足首に鈴をつけて、踊っていた人。顔も知らない母のことだった。
言いかけて、やめた。これは、私が言うことではない。戸は、内側から開くものだ。兄が、自分で思い出す日が来る。
『ほっほ。一つ半の冬じゃった。ほっぺたの丸い子での』
神さまは、それだけおっしゃった。
出発の朝、兄は城門の前で私を見た。
「――セラフィーナ」
私は、息を止めた。
「記録簿に、そう書いてあった。父上の手紙にも」
「はい。長いので、セラで構いません」
「いや」
兄は、馬に乗った。革の靴だった。金糸は、どこにもなかった。
門の脇で、弓兵のディルクさんが、乾いた薪を三本、兄の鞍の後ろにくくりつけた。
「道中、湿ったのしかねえからな」
ディルクさんは目を合わせずに、城壁の上へ戻っていった。許した顔ではなかった。薪は、乾いていた。
「二十年、名前らしく呼んだことがなかった。次に会うときは、長いほうで呼ぶ。練習しておく」
兄は手綱を返した。ハインツさんたち四人が、後ろに続いた。峠を下りていく背中は、一度も振り返らなかった。峠の曲がり角で、兄は一度だけ片手を上げた。振ったのではなく、上げただけだった。
『お主の帳面では、あの子はまだ三行じゃ。じゃが、わしが覚えておるぶんは、もう少し長い。手を上げたことも、覚えておいたよ』
*
雪解けの峠から、霜降り村の男たちが、金の像を担いで下りてきた。冬のあいだ、雪の下にあったものだ。
「これ、どうします、閣下」
オットーさんが訊いた。閣下は像を見てから、ハンスさんを呼んだ。ハンスさんは像を叩いて、耳を当てて、鼻を鳴らした。
「金は薄い。爪で剥げる。中は杉だ。三百年ものじゃねえ。せいぜい三十年の杉だ」
「金は剥いで、帝都へ送る。皇帝の金だ。皇帝に返す」
閣下はそう言って、それから木を見た。
「木は」
「よう乾いてますぜ。雪の下にいたのに。中が空だから」
その日の夕方、いちばん大きな竈の焚きつけに、その木が入った。マルタさんは何も言わずに、細いのを下に、太いのを上に組んだ。像の顔だったところは、割ると腕ほどの長さの板になった。火はすぐについた。その火で、城じゅうのパンと、翌朝七つの村へ運ぶぶんまで、その夜のうちに焼き上げた。
「よう燃えるねえ」
マルタさんが、鍋の湯気の向こうで言った。
私は、竈の前にしゃがんで火を見ていた。
(神さま。これ、罰当たりでしょうか)
『誰に対して』
(皇帝陛下に)
『あの像は、皇帝ではない。木じゃ。木はな、燃えて人を温めるときが、いちばん木らしい』
竈の中で、板が一枚はぜた。
『若いころ、あの杉の枝で、山鳩が雛を二羽育てた。あれを担いだ肩は、いま帝都におる。あの若者に、このパンを食わせてやりたいのう』




