第76話 名前を呼ばれなくなって、何年になるか
名前を呼ばれなくなって何年になるか、数えるのをやめた。
厨房のいちばん奥。竈から遠くて、戸口から遠くて、鶏小屋にだけ近い。呼ばれるときは「そこの婆」だ。呼ばれないときのほうが多い。
それでいい。呼ばれなければ、口をきいた相手もいない。
七年前、口をきいた。
麻布の端をめくって、生き写しだよ、と言った。それだけで奥へやられた。あの子はそれきり、一度もあたしに名前を訊かなかった。利口な子だ。訊けば、あたしがまた知れる。
あたしも、言わなかった。
口はきかなかった。手は、出したことがある。
十七年前だ。血筋の赤子だと言って、上が乳母をつけた。三人、逃げた。静かな子だった。手はかからない。逃げたのは、髪だ。産毛が日に日にあの色になる。あの色の子を抱いていたと知れたら、自分の家の戸が閉まる、と。
四人目は、いなかった。厨房の婆が、山羊の乳を布に含ませて、口に押し込んだ。それだけだ。見られて困る顔でもない。
あの子が三つになった春、上から言われた。近づくな。血筋の子に、下働きの顔を覚えさせるな。
だから、あたしはあの子の顔を、三つまでしか知らない。あの子は、あたしの顔を知らない。
十の秋に、麻布をめくった。七年ぶりに見た。生き写しだった。母親にも、三つのあの子にも。
あの子がいなくなってから、手元が狂うようになった。
鶏の餌を、床にこぼす。年だから、と厨房の連中は思っている。そう思わせてある。
こぼすのは右の隅だ。鶏の届きにくい、板の割れたところ。殻つきの麦と、粟と、何の種か知れないもの。夕方になると、いちばん小さい見習いが来て、それを拾う。
しゃがんで、指で。鶏に手をつつかれながら。
「馬鹿な子だねぇ」
火の番をしながら、あたしは笑う。欠けた歯を見せて。
あの子は答えない。拾い終わると、ひとつかみを両手で包んで、頭を下げて、出ていく。礼を言えば、あたしが何かをやったことになる。それを分かっている顔だ。
利口な子が、また一人。
この聖堂は、利口な子ばかり育つ。
一度だけ、訊かれた。
「名前、なんですか」
餌桶に蓋をしながら、考えた。この子があたしの名を口にする。誰かがそれを聞く。奥へやられた婆に口をきいた、と知れる。次に奥へやられるのは、この子だ。奥の、その先はない。
「婆でいい」
「……はい」
言い直さない子だ。
鳩にやる、と言って笑われたときも、言い直さなかった。あの子とおんなじだ。あの子も、床に向かって話すとき、嘘を言わなかった。あたしは知っている。
見ていたのは、柱の陰の子だけじゃない。
金箔が剥がれた、と厨房で聞いた。
壁の聖女の髪が、あの色だと。
見に行かなかった。足が痛いのもある。それだけじゃない。
あたしはあの顔を、前に見た。広場で。まだこの厨房に入る前、水売りの手伝いをしていた頃だ。踊り子が一人、足首の鈴を鳴らして踊っていた。あんな顔は、前にも後にも見ていない。
七年前の秋に、麻布の下でもう一度見た。それきりだ。
壁の絵で、見なくてもいい。
冬の終わりに、熱が出た。
地下の小部屋。藁と、毛布が一枚。竈の熾を持ち込むのは禁じられている。
誰も来ない。
来ないのは、知られていないからだ。奥の婆が寝込んだ、と気づく者がいない。餌は若い下働きがやる。床にこぼれるものは、なくなる。
あの子は明日、拾うものがない。
それだけが、天井を見ているあいだ、頭から離れなかった。自分のことはどうでもよかった。どうでもいい、というのは、あたしがこの何十年でいちばんうまくなったことだ。
息が浅くなる。
ああ、と思う。ここまでか。
名前のないままか。
匂いがした。
地下だ。藁と、鶏の糞と、湿った石の匂いしかない場所だ。そこに、白い花の匂いが混じった。冬に咲かない花の。
床のほうから、声がした。
『――ヘルガ』
息が、止まった。
止まったのは熱のせいじゃない。
その名前を最後に口にしたのは母親だ。あたしがまだ、この石の床より低いところにいた頃。それから誰も。
『ヘルガ。お主が右の隅にこぼしてやった麦をな』
のんびりした声だった。田舎の爺のような。
『あの子は今朝も拾って、あの窓に置いた。左の足の悪い鳩が来て、食うた。明日の朝の分は、もう拾ってある。あの子がな、今日は多めに拾っておいたんじゃ。お主が来んかったから』
……馬鹿な子だ。
声にはならなかった。唇だけが動いた。
『それから、もう一つ。北のあの子はな、いま、布を巻いておらん』
目を開けた。
天井しか見えない。見えなくていい。
『畳んで、袋の底に入れておる。あの顔を、北の連中は毎朝見ておる。吹雪の来ん朝の空の色じゃと言うてな。お主の言うたとおりじゃった。その布さえ、なけりゃ、とな』
欠けた歯の隙間から、息が漏れた。
笑ったのだと、自分で分かった。
『ヘルガ。お主がこぼした麦は、床で終わっていない。わしが、持っている。ひと粒もだ』
その一行だけ、訛りがなかった。
あたしは何も言わなかった。言うことがなかった。返事をしなくても届くところにいるのだと、なぜか分かった。
戸の外で、誰かが階段を下りてくる足音がした。小さい足。途中で止まって、迷って、また一段。
叩くかどうか、決めかねている。
叩かなくていい。
そう思って、目を閉じた。
なまえが、ひとつ、ゆかにおかれた。
あたしのだ。




